第37話「逃亡戦」

   第一章37話「逃亡戦」




「行くわよ!」


 天上のハープを思わせる清らかな声の、気合い一声。

 扉をこじ開けるように両手を広げると、一陣の突風が吹き荒れる。

 見えないトラックに跳ね飛ばされたかのように、ニドルウルフにより取り囲まれていた包囲網の一部が左右へと吹き飛ばされた。


「さすがリッちゃん!」

「言ってないで走る!」


 リアエルが宿す加護【風りの加護】はその名の通り風を操る不可視の攻撃。風を操るだけなので直接的な攻撃力はないが、使い方次第ではどんなことでもできる万能の加護だ。


 彼女がこじ開けた包囲網の穴に目掛けて身を躍らせるように全力ダッシュ。

 一歩を踏みしめるたびに両腕から全身を突き抜けていく激痛は歯を食いしばって無理やりに押し込んだ。


 奥歯が割れんばかりのしかめっ面を隠している余裕はない。とにかく死に物狂いで走らなければ、冗談抜きで死んでしまうような状況だ。


 なんとか包囲網を突破するもニドルウルフの群れは当然のように二人を追ってくる。


(これでスー君たちの負担はかなり軽くなるはずだ)


 全てのニドルウルフをこちらへ引きつけられたかは定かではないが、習性を考えればまずこちらを追ってくるはず。

 襲われることはないと思っていたリアエルですら隙を見せた途端に襲ってきたのだから、分散された戦力的に狩りやすいのはこちらコウ側だと判断するに違いない。


「翔べ!」


 リアエルは走りながら懐から取り出した薄緑色の数本の投げナイフを上空へ放り投げ【風繰りの加護】を使って狙いやすい一匹へ向けて飛ばす。


 巨体を吹き飛ばすほどの風の力を全力で浴びた投げナイフは目にも留まらぬ速さで飛翔。一匹の肩や体にヒットするも、針のような剛毛に難なく弾かれてしまう。


「高いのに!」


 悔しげな叫び声を上げるリアエル。


 ゴブリン相手に放っていたときもしっかり全て回収していたし、値段の話をしているのだろう。


「狙うなら目とか鼻だ! そこなら刃物も通る!」


 鼻先なら生身の物理攻撃も有効なのは、スークライトが証明してくれた。いろいろと規格外の子供なので当てになるかは微妙だが。


「この状況で狙えないわよ!」


 ステージは鬱蒼とした森の中。背後から追いすがる四足歩行の巨大な獣相手にピンポイントで狙撃するのはいくらなんでも難易度が高すぎた。

 弾幕を張るには消費が大きすぎるし効果も薄すぎる。地形との相性も悪い。無駄弾にしかならない。


 泣き言のように言いながら、木々の隙間を縫うように二人はとにかく走る。

 コウが何回かの往復で作り上げた脳内マップを頼りに、ある地点へ向かって駆け抜ける。


「こっちで合ってるの?!」

「合ってる! そのまま直進だ!」


 前を走るリアエルからの確認に、全力を振り絞りながら答えた。


 身体能力の差で、どうしてもリアエルからどんどん引き離されてしまう。両手を負傷しているのもあって、とても全開では走れなかった。


 もし木の根に足を取られたら。木の葉に足を滑らせたら。


 手をつくのが難しい以上、とっさの復帰は絶望的。そうなってしまったら最期、ニドルウルフの餌食となるだろう。

 そうならないためにも、安全なルートを選択しつつ、確実にニドルウルフから距離を取れるように速度を落とさず逃げ続けるしかない。


「ぞぉらぁぁぁ!!」


 二股に分かれた木の根の間をスライディングで潜り抜け、追い縋ってきた一匹が間一髪のところで木の根に挟まって行動不能になる。剛毛が引っ掛かってそう簡単には抜け出せないはずだ。


「へっ、ざまぁ!」


 思惑通りに事が運んでしてやったりなコウだが、チラと後ろを確認したら、すでにもがくニドルウルフの姿は無い。


「はぁ?! ——そうか加護か!」


 ニドルウルフは影に潜む加護を宿している。いくら巨体が引っかかっても、影の中に入ってしまえば抜け出すのは簡単だった。


「やべべべべべ!!」


 そうこうしているうちに距離も縮まり、気がつけば彼我との距離、一馬身。

 脚に力を込めて飛び、前足と爪を伸ばせばコウの背中を捉える絶好のチャンス。


 ——キンッ……


 後ろ足を小さく折り畳み、発射体制に入ったニドルウルフは、しかしその動きを甲高い音に中断させられた。


「気を抜かない!」


 前方で足を止めて叱咤するリアエルの手には薄緑の投げナイフ。身をかがめた一瞬の硬直を狙って、コウのアドバイス通り顔面を単発で狙ったようだ。それは首を振ることで弾かれてしまったが、リアエルのとっさの判断力と適応力は流石と言うほかない。

 おかげで助かった。


「リッちゃんマジ天使!」

「後でぶん殴るから!」

「後でな!」


 NGワードであることなどすっかり忘れて彼なりに最大限の感謝を表明する。

 リアエルには逆効果であるものの、いちおう感謝の言葉として握りこぶしの中に受け取ってくれた。


 後で殴ってもらうためにも、生き残らなくては。




 ガルルルゥ……!!




 跳躍を中断された個体が、低く唸り声を上げる。リアエルの攻撃が癇に障ったのか、見たこともないほどに尻尾の棘のような剛毛を逆立てている。


 アレと似たものをどこかで見たことがある。

 そう、猫が激しく警戒しているとき、尻尾の毛を逆立てて膨らませる。自分を大きく見せて威嚇し、これ以上近づくと攻撃するぞ、という意思表示だったはず。


「チャンス!」

「——待ったリッちゃん!」


 コウの制止は間に合わず、握っていた投げナイフを全力で投じた。加護の追い風も手伝ってリアエルの細腕から投じられたとは思えないほどのスピードで飛翔する。


 ニドルウルフは体ごと回転してナイフを膨らませた尻尾で弾く。


 その瞬間だった。

 硬いもの同士がぶつかる甲高い音ではなく、爆竹を思わせる破裂音が連続で響く。

 狙いはコウではなくリアエルだった。


「きゃあ?!」


 森の闇に溶け込む無数の黒い暗器トゲが白い少女に襲いかかる。


 自身に施した〝矢除けの風守〟により致命傷は避けられたが、一気にボロボロになってしまう。ところどころに薄く血が滲み、決して無視できない負傷を負ったことがわかる。

 他のニドルウルフは巻き添えを喰らわないように、影に身を潜めつつ距離を取っていた。


「自爆以外でも棘を飛ばせんのかよ! 走れるよなリッちゃん?!」

「キミよりは……ね!」


 再び全力ダッシュでの鬼ごっこが再開される。


 見るからにリアエルの速度は落ちている。かすり傷とはいえ数が多いし、足に集中してしまったら走るのは辛いだろう。


 今のニドルウルフは隙さえあればリアエルでも襲いかかる。可能な限り自分コウに狙いを集中させたいところだが、一心不乱に走るので精一杯だった。

 すると、今度は背後から癇癪玉を破裂させたような、パンッ、と短い音が耳にキンと響く。


「っ?!」


 途端に肩に鋭い痛みが走り、前方の木に深々と一本の棘が突き刺さる。


「単発でも撃てんのか……?!」


 しかも命中率はそこそこある。走りながら右肩を覗き込むと、服を引き裂いて裂傷した肌が見え隠れしている。


 満身創痍だ。

 かつてないほどにボロボロだ。


 山道から足を滑らせて転落した思い出以上の負傷を次々と刻まれて、男の勲章の数が絶賛記録更新中である。


 冗談じゃない。

 このまま黙ってやられるほどコウは大人しい少年ではない。そのときがやってくるまで、とにかく憤りを蓄えねば。


 狙いを絞り込ませないように二人はジグザグに動き、少しでも狭い道を選んでニドルウルフの進行を遅らせる。


「来てるぅ!」


 振り返らなくても足音でわかる。人間の倍の数の足音が、それも無数に。


(あそこだ!)


 前方に『V』の字に分かれた巨木を発見。

 歩幅を調節して、ホップステップジャンプの要領で隙間に体を滑り込ませる。


 飛びかかってきたニドルウルフの爪はコウの背中を危うく掠めつつ、V字の隙間に見事にハマり、足をバタつかせている。


「いっ?!」


 作戦は上手くいったが着地に失敗し、つんのめる。落ち葉に隠れた木の根に足を取られてしまったのだ。


 左腕は破壊されていて体を支えることはできない。かと言って右手をついても無事に立て直せるかわからない。何より大きなタイムロスが生じてしまう。


 コウは一か八か、崩れる体勢のまま片足で軽く前方に跳躍した。体を丸め、右肩から入るように空中で体勢を調節し、前転して崩したバランスを元に戻そうとした。


 左腕から全身へ突き抜ける激痛と引き換えに、コウの狙い通り、体は綺麗に一回転し、バランスを崩す直前へと戻ってくる。

 が、勢いがありすぎてさらに体は前へと傾く。


 そのとき、強烈な風が顔面を襲い、前のめりになっていた体勢が強引に戻される。さらに背中から柔らかいクッションを押し付けられるような感覚に、足が自然と前に出た。


「ナイスアシストリッちゃん!」


 すぐにリアエルの加護によって助けられたとわかったコウは泣きそうになりながら親指を立てる。


「泣かないの!」

「ふぁい!」


 マジで天地がひっくり返った瞬間は死を覚悟した。地面を転げ回るコウに群がるニドルウルフの光景を一瞬想像してしまった。


 リアエルに命を助けられるのはこれで何度目だろうか。もはや数えるのも馬鹿らしくなってきた。


 だがこれで一匹の足止めはできた。

 木の根の隙間にハメたとき同様、これもすぐに抜け出してしまうだろう。それでも多少の時間が稼げるだけマシだ。


(ん? どういうことだ?)


 背後に迫っていた気配が若干遠ざかっている。

 隙を見てチラと振り返ると、まだニドルウルフは木に挟まってジタバタとしていた。その間にも他のニドルウルフが猛然と迫ってきているので、呑気に観察している暇はない。


 一瞬の情報で考える。

 すぐに加護を使い抜け出したニドルウルフ。すぐに加護を使わず抜け出せないでいるニドルウルフ。

 対応が違う二匹のモンスター。


 ——もしや加護には使用条件が設定されている?

 ——としたら両者の違いは一体なんだ?


 どちらも木の隙間にハメて動きを封じただけ。その点は同じはずだ。むしろ同じ手に引っかかるなんて、やはりあまり賢くないモンスターであることを裏付けている。

 ただ本能に従って行動している、まさしく獣。

 見えてきた。ニドルウルフの加護が。


「あとどれくらいなの?!」

「もうすぐだ!」


 並走するリアエルからの切羽詰まったような質問に、コウは確信を持って答える。


 兄弟ゴブリンの言う一時ひとときのような[もうすぐ]ではなく、正しい意味での「もう少し」だ。

 もう目的地は目と鼻の先。ここが森でなければ、とっくに見えているはずの距離。


 巨木を左右に分かれてかわし、再び合流する。と同時に、リアエルが疑問の声を上げる。


「どうして加護を使って追ってこないのかしら?!」

「答えは簡単! 自分の足で追ったほうが早いから!」

「【影結いの加護】じゃないの?!」

「違うね! 影から影へジャンプする加護ならサラちゃんが残した道しるべがあるはずがない!」


 採取したキノコを少しずつ千切って足取りを残してくれたサラハナの機転。これがニドルウルフの宿す加護が【影結いの加護】ではないことを証明している。


 恐らくニドルウルフの加護は、影の中に身を潜めるだけの加護。対象は自分のみ。大きな体を影にしまえるわけだから森で暮らすには便利だろう。棘の誤爆や誘爆も防げて一石三鳥だ。

 しかし移動速度に関しては問題があり、自分の足で地面を蹴ったほうが早いと推察できる。だから奴らは大きな体をあちこちにぶつけながらも大地を蹴り上げている。


 そしてさっきの足止めでわかったこと。

 ニドルウルフの加護の使用条件は『地に足がついていること』と思われる。

 V字の木にハマった個体は足が浮いていたから加護が使えず抜け出せなかったのだ。


 ということをリアエルに説明したいが、今はそれどころではない。全力で走りながら長々と説明するには酸素が足りない。時間も足りない。


 あとはもう、リアエルを信じるのみ。


「リッちゃん!」

「なによ?!」

「信じてるぜ!」


 身勝手な信頼を寄せられて、リアエルはさぞ困っていることだろう。今に始まったことではないが、期待されるのはそれなりな重荷だ。


 それでもリアエルは、


「任せなさい!」


 頼もしく返事をしてくれた。


 なんのことを言っているのかわからないだろう。

 まともな説明もなく、ただ『信じている』の一言だけでまとめようとしているコウの横暴さにはほとほと呆れているに違いない。


 だがそんな期待を裏切らないのが、彼女なのだ。


 コウはそんな彼女に、惚れたのだ。


「——いっけぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」


 森が、開けた。

 地面が、消えた。

 二人は宙に浮いていた。

 いや、落ちている。


「へっ?」


 ポカンとした声が、リアエルの喉からこぼれた。


 ついさっきまで地面を蹴っていた足が、次の瞬間には空気を蹴っている。

 切り立った崖から飛び出して、眼下には轟々と唸りを上げて全てを飲み込まんとしているズメルン川が流れていた。


「リッちゃん!」


 右手を伸ばすコウ。リアエルがその手を掴むと身を引き寄せて、運命を彼女に託す。


「——翔べぇぇぇぇ!」


 もう片方の手を対岸へ向けて叫ぶリアエル。二人の背後、斜め下から猛烈な風が吹き荒れ、生身の人間が空中にいながら浮力と推進力を得る。

 水面スレスレで跳ねるようにベクトルを変えた二人は放物線を描きながら川の対岸へ。

 コウをアシストをしたときのようなエアークッションを展開し、土埃を上げて乱暴ながらも着地し、最速最短でズメルン川を越えることに成功した。


「ゼェ……ゼェ……」

「はぁ……はぁ……」


 大の字に手足を投げ出し、息も絶え絶えな二人。もう一歩も動けない。そんな言葉さえ発することができないほどに疲弊していた。


 首だけを動かして一世一代の大ジャンプをした崖を見る。


 獲物を追いかけて仕留めることしか頭になかったニドルウルフは次々と崖から転落。激しい川の流れに飲み込まれていく。

 この川の濁流に捕まったら最後、まず上がってはこれまい。地に足をつけなければいけないのなら、加護による脱出も困難。さらに虹色の魚がニドルウルフを餌として貪るだろう。


 川の中で、次々と自爆による水柱が立ち昇る。

 万が一ということもある。念のためもっと距離を置きたかったが、それすらもできないでいた。

 やがて、転落する音、自爆する音がなくなって、ズメルン川の『もっと喰わせろ』と言わんばかりの唸りに包まれる。


 ひとまず呼吸の落ち着いたコウは、隣で寝そべるリアエルへ声をかけた。


「……リッちゃん生きてるー?」

「……なに?」


 川の音がうるさくて聞こえなかったのかもしれない。


「リッちゃん好きだー」

「ばか」


 聞こえていた。頬をわずかに朱に染め、そっぽを向く。


 やっぱりリッちゃんはかわいいな。

 そんなことを思いながら、空を見上げる。真っ黒な空に浮かぶ青い月が祝福してくれているかのようだった。


 かなりの数のニドルウルフを巻き添えにできた。これで間違いなくカトンナ村とゴブリンの住処は安泰だろう。

 あとはカトンナ村が無事に再興できれば万事解決だ。その後のことも、時間が解決してくれる。


 村に戻ったらやりたいことがたくさんある。

 まずはラーカナの絶品料理をたらふく食べる。作りかけの〝土壁の家〟を完成まで漕ぎ着けたいし、また子供たちと遊びたい。再興の手伝いだってしてやりたい。


 でも今は——この『やりきった』という達成感をリアエルと共に分かち合いたかった。


 だから、気づかなかった。




 ボギィぃ!!!!!!




「ッグアアああああああ?!?!!」


 影に潜んでいたニドルウルフが、コウの脛に噛み付き、鋭い牙はやすやすと皮膚を食い破る。巨大なのこぎりを強引にめり込ませたような激痛がはしり、そのまま骨は噛み砕かれた。

 吹き出る鮮血が漆黒の剛毛と大地を赤く染めあげ、苦痛の悲鳴はどこまでも響いていく。


 ニドルウルフはさらに、コウを森の中へ引きずり込もうとしていた。


「ウソっ?!」


 リアエルも慌てて懐から投げナイフを取り出して顔面めがけて投げ放つが、首を振って弱点を守る。


「ぃぃいあああぁぁガァ?!?!」


 それによりコウの足が振り回され、さらなる激痛が彼を襲う。


 またナイフを投げて防がれたら、次はコウの足がもげてしまうかもしれない。そんな考えが、リアエルを躊躇させた。

 何もできない。風で吹き飛ばそうとしても、ニドルウルフが足を離してくれないと悲惨な結果となってしまう。


「ふっ——! ぐぅ——! あァ——!」


 腰に挿していた草刈り鎌を取り出して何度も何度も顔面に突き立てる。確実にダメージは入っているが一向に離れる気配がない。


 尽きかけた体力と貧血から視界がボヤけ、鎌の狙いがずれて、首元へ。


 ガリ、という耳障りな音が聞こえた瞬間、半ばから鎌が折れた。それでもコウは構わず鎌を叩きつけ続けるも、奮闘むなしくコウの手から鎌はこぼれ落ちた。

 なおもコウは諦めず、右の指を口に突っ込み、こじ開けようとする。指の肉が裂かれ、骨と骨が当たる感触が気持ち悪い。

 ニドルウルフの顔面はすでにぐちゃぐちゃになっている。にも関わらず離そうとせず、なおも森に引き込もうとしていた。

 頭で考えて行動していない。体が覚えていることに対して、心が命令を出しているとしか思えなかった。


「あああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」


 雄叫びを上げたのは、リアエルだった。


 迷いを振り切るようにニドルウルフに駆け寄り、手に目一杯持ったナイフを殴るようにして顔面に突き立てる。

 力一杯押し込み、手首まで完全に肉に埋まる。

 返り血で、白いローブが赤く染まった。


 そのまま力を込め続け、徐々にニドルウルフの活動が弱くなっていく。やがて、動かなくなった。

 ようやく絶命したニドルウルフの顎を掴んで無理やりに開き、牙に突き刺さったコウの足を外す。


 左腕よりも酷い有様だった。


 脛骨けいこつ腓骨ひこつは両方ともイカレ、肉を突き破って頭が飛び出していた。左腕と違って棒をあてがったところで気休めにもなりはしない。

 下手に動かすわけにもいかないし、患部に触れるのも最悪の場合逆効果。


 リアエルは考えるのも一瞬に、頑なに脱ごうとしなかった白いローブを脱ぎ捨てる。

 ナイフを使ってローブを裂いて包帯を作り、太ももを硬く縛って可能な限り間接圧迫止血をする。

 それでも、いかほどの効果があろうか。


 ガルルルルルゥゥ……。


 森の奥から、呻き声が聞こえた。

 ゆっくりと立ち上がり、リアエルはなけなしの投げナイフを構える。


「無茶だ……リッちゃん……」

「わからないでしょ」


 勝気に呟くリアエル。


 こちらは瀕死が一人と手負いが一人。対して向こうはピンピンしているニドルウルフが何体も。姿が見えないだけでもっと隠れているかもしれない。


 この状況で勝ち目はない。それでも、抗う以外にできることはなかった。必死にここまでやってきた彼の想いに応えるためには、それしか方法がないとリアエルは思った。

 ナイフの数は残り少ないが、【風繰りの加護】ならまだ使える。


 彼が教えてくれた。ただ風にまつわるだけの加護でも、使い方次第でいろんなことができるのだと。


「このナイフで倒せなくても、加護で直接倒せなくても、あんたらを川に吹き飛ばすくらいはできるんだから!!」


 気合いと共に憎き敵を睨みつける。

 ニドルウルフは低く構え、飛びかかる体勢を一斉に整えた。


「来るなら、来なさい!」


 リアエルの挑発を皮切りに、餌に群がる鯉のように一斉に飛びかかる。

 その、ほんの直前で、




[今だ!!]




 薄れゆく意識の中でコウは確かに耳にした。ゴブリンの言葉を。

 一斉に放たれた矢は森の奥から。ニドルウルフの死角を突いた奇襲攻撃だった。


「よかった……来てくれると……思って……た……ぜ」


 フェードアウトしていく光景に見たもの。


 ゴブリンの住処の方向から、腹だけ出っ張っている痩せ細った大量のゴブリンが援軍に駆けつけてくれたのだ。


 そしてコウの意識は、ズメルン川に押し流されるように、轟々とした唸りの中にかき消されてしまったのだった……。

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