第36話「神のみぞ」

   第一章36話「神のみぞ」




 右手はジンジンと、左腕はズキズキと鼓動に合わせて痛みを訴え始めてきた。そのうえ少しでも力を入れようものなら無条件で顔の筋肉が強張るくらいには激痛が走る。


 せめてリアエルには悟られまいとなるべく顔が見えないように振る舞っていた。

 幸い、今は途切れてしまった手かがりを探すのに手一杯で、他人の顔色にまで気は回らない。森が暗いのも助けになった。


 また背後から奇襲されては堪らないので、今度はなるべく密集した陣形を維持して捜索を続ける。


「ねえ」

「うん?」


 木の根元を凝視していると、リアエルが声を掛けてきた。

 お互いに顔は見ずに、声だけを飛ばし合う。


「キミが見たニドルウルフのこと、もっと聞かせて。近くで見たんでしょ?」

「ああ……そだな」


 情報を共有し合うのはとても大切なこと。鮮明に思い出すと痛みがぶり返しそうだが、そうも言ってられない。


 激痛とともに記憶に刻まれた姿を脳裏に描き出す。

 細長い口や鋭い眼光もあるが何よりも印象に残っているのは、


「影みたいなやつだった」

「影? どういうこと?」


 コウが抱いた第一印象をそのまま口にすると、首を傾げる気配が伝わってくる。


「音がしなかったし真っ黒いって意味でもそうなんだけど、よくよく考えてみるとやっぱおかしいんだよ」

「なにがよ?」


 コウは自分の左腕を眺める。ニドルウルフの強靭な顎に噛み付かれ、骨が簡単に砕かれてしまった。

 今はリアエルの真っ白い上等なローブを引き裂いて作った包帯で、木の枝と一緒に固定する応急処置が施されている。


「チジオラから聞いた話と少し違うんだ。ニドルウルフは俺と比べてもデカイって話だっただろ?」

「確かに、そう言ってたわね」

「それは間違いないと思うんだ。かなり大きい顔だったからな」


 熊よりも、獅子よりも、大きな頭部だったのは二度の反撃ではっきり記憶した。

 だが、それだと疑問に思う点が生じる。


「じゃあどうして、噛み付かれた位置が左腕なんだ?」

「? どういうこと?」


 リアエルはコウの言いたいことがわからず眉根をひそめた。


「顔の大きさから想像するに、体のほうはもっとデカイはずだ。それこそ上から頭を丸かじりしたほうが楽なくらいに。でもさっきのやつは首の付け根が俺の腹ぐらいの位置だった」

「体の大きさと首の位置が合わない……」

「そういうこと。俺がもっとよく見れてれば良かったんだけど」


 理解に及んだリアエルが納得の呟きをこぼし、コウは悔しがりながらそれに頷く。 


 体の黒さと森の闇が溶け合って、ニドルウルフの全貌が溶けるように霞んでいたから推察の域を出ない。

 だがコウはこのようにも考えていた。


 ——実は本当に溶けていたのではないか? と。


「リッちゃんは『落ちていくように見えた』って言ってたよな?」

「え、ええ。暗かったし、見間違いだと思うけど」

「俺もそう見えたから見間違いではないと思うぜ」


 自信なさげなリアエルを元気付けるように言い切るコウ。


「んでもって、文字通り『落ちていった』としたら、心当たりがなくもない。俺の仮説が合ってれば、色々と説明はつく」

「聞かせて」

「その前に」


 一つ確認したいことがある、とコウはリアエルに見えるように指を立てる。リアエルは警戒を緩めるわけにはいかないのであえて見なかったが。


「モンスターも、加護って使えるん?」

「結論から言えば『使える』わ」


 やっぱりか、と内心でコウは舌を打つ。


 特別な力を人間だけが使えるのはいくらなんでも都合が良すぎる。

 どうやらこの世界の神様は日本の神たちより働き者らしい。

 仕事熱心すぎて泣けてくる。


 そのお陰で飛び入り参加のコウにも加護を授けてくれたわけだから複雑な心境だった。


「人間と少し違うのは、宿る加護は大体同じってことかしら」


 多種多様な加護を宿す種族は人間だけ。

 ニドルウルフはニドルウルフの。

 ゴブリンにはゴブリンの加護が宿る、ということらしい。


「種類が無いぶん、加護を扱える個体数が多かったり、加護そのものが強力だったりするみたい」

「なーる」


 リアエルの話を聞いて、ますます仮説が現実味を帯びてくる。同時に苛立ちも増してきた。


「……こういうのはドーナツ好きのパナイ吸血鬼だけで間に合ってるっつの」

「……ごめん、意味わかんない」

「いや、今のはただの独り言。わかんなくていいやつ」


 手を振って取り繕う。もちろんリアエルの視界には入っていない。


「ンンっ。俺の仮説はこうだ」


 小さく咳払いをしてから、コウの仮説を披露する。


 ——ニドルウルフは、影に潜む加護を宿している。


 だから音も無く忍び寄れるし、体は影の中に沈んでいるから首の位置が低く、逃げる際も落ちていくように見えた。実際は落ちたのではなく、影の中に隠れたのだ。

 最初にコウが思ったように、地面を泳ぐオオカミだとしたら、その跡が地面に残らないのはおかしいが、これならその問題はクリアしている。


「……確かに、その手の加護を扱う人もいると聞いたことがあるわ。えと……【影結かげゆいの加護】だったかしら。影から影へと移動する加護よ。ニドルウルフに宿っている加護はそれかもしれないわね」


 似たような加護の存在があるとリアエルの太鼓判も貰って、一瞬天狗になるコウだっだが、腕から響く鈍い痛みが伸びかけた鼻をへし折った。


「っ〜……」


 右手の出血は恐らくおさまった。しかし左腕は骨を噛み砕かれた跡から皮膚がはち切れんばかりに腫れ上がり、見るも無残な様相を呈している。


 どこか現実離れしていて、まるで自分の腕ではないようだ。それでもこれは夢ではないと、痛みが夢想から強引に引き戻してくれる。


「…………」


 今一度ニドルウルフに襲われたときの情景を思い浮かべる。


 コウが立てた仮説は概ね正しいという自負はあった。しかしまだわからない点はある。

 ニドルウルフの加護が影から影へ移動できる【影結いの加護】なのか、それとは別種の加護なのか。


「くそ……これだから『わからない』ってのは嫌いなんだよ……」


 コウが『歩く無駄知識』と呼ばれるようになった所以ゆえんはこの性格にあった。

 一度疑問に感じてしまうと、スッキリさせないと心の中にしこりとしていつまでも残り続ける。そうなると集中力に淀みが生まれてしまうため、思考の流れを妨げないようにしこりを除去する必要があった。


 単なる好奇心や探究心と言うよりは、心の平穏を守るための自衛手段として、コウは知識を蓄えざるを得なかったのだ。


「いざってときに役に立たん男だぜ俺って……」


 夜、そして森の中。影なんてそこら中にある。今もすぐそばの影に身を潜めているかもしれないと考えると、気が休まる瞬間などありはしない。


 リアエルが、コウの心を読んだかのように、ポツリと呟く。


「世界から影が無くなれば、ニドルウルフの隠れる場所を無くせるのに」

「それができれば苦労はしないんだけどな」


 コウもそれは考えたが、現状では不可能だ。光と物体があればわずかでもあれば影は生まれる。

 逆に完全に暗闇にしてしまえば影は生まれないが何も見えない。


 とても現実的な考えではなかった。


「そうね……バカなことを言ったわ。忘れて」

「リッちゃんの言葉は一字一句忘れないよ。例えバカなことでも——」

「ねえ、アレ!」


 何かを発見したのか、コウのキザったらしいセリフを無視してリアエルは茂みから前方を指差す。


 目を凝らして見れば、倒木の物陰から人の足が見えている。大きさからして、子供の足だ。

 サラハナか、スークライトのものに違いない。


「ここって——」


 コウが空を見上げる。


 真っ青に輝く妖艶な月が顔を見せ、地面を仄かに照らしている。

 この場所だけ開けていて、中央には炭の燃えカス、側には小川が流れている。

 チジオラたち親子ゴブリンが焚き火をしたポイントだ。ここで一緒に一夜を明かしたこともある。


「見つけた!」

[罠だ!]


 チジオラが飛び出しかけたリアエルを引き止める。


「……なんて?」

「罠だって……」

「そんなのわかってるわ! でも行かないと!」


 無防備な状態で放置してはおけないと、リアエルが制止の言葉を聞かず飛び出す。


 その瞬間、茂みの陰から隠れられるはずもない巨体が飛び出してきて、リアエルにその鋭い歯牙を突き立てんとする。

 真っ黒い針のような体毛を逆立てて、大きな口を開けながら飛びかかるその姿は、間違いなくニドルウルフだった。


「————」


 コウの世界がスローモーションに包まれた。

 蹴り上げられる土埃。

 赤く尾を引く眼光。

 勝利を確信した唸り声。

 口から溢れる粘度の高い唾液。

 不浄なるこれら全てがリアエルに向けられている。

 スレスレで気づくも、到底回避など間に合わない。

 汚される。

 穢される。

 天使の輝きが、愛しさが、失われてしまう。

 声を出そうとして息を吸うことすらもどかしく感じる。

 遅い。何もかもが遅い。

 舞い落ちる木葉。

 鼻先に叩き込まれるつま先。

 吹き飛ばされる巨体。

 木の幹に激突して悶絶する、ニドルウルフ——?


「——おねえちゃん! へいき?!」


 鋭く響く子供の声で、世界に正常な時間が帰ってくる。


「スー君?!」


 一部始終を後ろから見ていたコウが唖然とする。


 木の上から間一髪、リアエルの危機を救ったスークライトの蹴りが、自分の何倍もある巨体を軽々と蹴り飛ばしたのだから。

 蹴り飛ばされたニドルウルフは激突の衝撃でくの字に折れ曲がり、痙攣しているのかガチガチと何度も牙を激しく打ち鳴らしている。あのまま放っておいても、命の灯火は間も無く燃え尽きるだろう。

 それほどに、顔面は無残にもぐちゃぐちゃになっていた。


「なんつーチート……けど助かった!」


 間違いなく最強の戦力が集まった。

 けれど、まだまだ幼い子供に助けられて、しかも心底安心してしまうなんてあっていいのか。

 この場で誰よりも弱い、戦う力のないコウでも、誰かを守ることくらいはできるはずだ。

 頭を使え。思考を回転させろ。剣がないならペンで戦え。


 スークライトが加わってパーティーはパワーアップを果たした。ならば次にやることはサラハナの保護、そしてこの場を離脱し、カトンナ村まで無事に帰還すること。

 それが行える最も確実な方法は——?


 目の前にチカチカと火花が散るほどに脳が高速回転し、未来予知に限りなく近い幾つもの可能性を一気に網羅して、最適解を導き出す。


「リッちゃん! 全員に〝矢除けの風守〟をかけてくれ!」

「はあ?! 意味あるの?!」

「いいから! 早く!」

「もう、わかったわよ!」


 鬼気迫るコウの指示にただならぬものを感じて、リアエルは言われた通り急いで全員に触れて〝矢除けの風守〟を施す。


「スー君! サラちゃんを頼む!」

「わかったー!」

[チジオラ! 子供二人を村まで援護!]

[致し方あるまい!]


 一足飛びで倒れているサラハナの所までたどり着くスークライトとチジオラ。それを追いかけるようにコウとリアエルも走り出す。


 サラハナは意識を失っているようで、力なく手足を投げ出すようにスークライトに背負われ、チジオラに一瞥いちべつを交わして頷き合ってからカトンナ村を目指して一気に駆け出す。


 その刹那——




 ガチンッ




 金属同士をぶつけたような甲高い音がどこからか鳴り響く。


 次の瞬間、倒れていたニドルウルフの体が鼓膜を破る爆音とともに弾け飛び、自分の肉片を周囲へ粉微塵に吹き飛ばした。


 体内にある火薬を生成する器官に着火し、自爆したのだ。


 鋼鉄のように硬い棘のような体毛を全方位に向けてばら撒き、弾丸並みの速度で飛ぶ棘は地面に突き刺さり、木を抉り、しかしその場にいた人体を破壊することはなかった。


 リアエルの施した〝矢除けの風守〟が力を発揮して軌道を逸らし、致命傷を避けたのだ。

 それでも弓矢の何倍もの威力がある自爆攻撃。全員が無傷というわけにもいかず……ただでさえ大きな傷を負っているコウに新たな裂傷が多数刻まれる。


 他のメンバーは——無事だ。せいぜいが擦り傷程度で済んでいる。


「っ——早く行け!!」


 ボロボロになった体を倒木に預けながら、それでも全力で叫ぶコウ。


 子供二人は村へ送り出さねばならない。チジオラも護衛として二人に付いてもらわねばならない。


「でも——」

[行くぞ!]


 後ろ髪引かれるスークライトの服をチジオラが無理やりに引っ張ってこの場を離脱する。


 それでいい。

 さすがはゴブリンの親玉ドン。コウの気持ちを察し、正しい選択をしてくれる。なんと頼もしい友だろうか。


 遠ざかっていく背中を見送り、薄く笑みをこぼす。


 あれだけ強力な蹴りをぶちかましたスークライトがいるのだ。サラハナを背負っている状態でも充分すぎる戦力してみなされるはず。おまけにゴブリンの親玉もそばについているのだから、堂々と襲われるようなことはあるまい。


 問題はこちらだ。


「ま、そうなるよな……」


 この場にいるニドルウルフが一匹な訳がない。

 木々の隙間、茂みの影、前後左右をグルリと囲むように真っ赤に輝く双眸が手負いのコウに熱い視線を送っている。


 森にいる人間で間違いなく一番に仕留められる存在は、コウだ。それを向こうもよくわかっている。


「リッちゃんも村に行ってよかったんだぜ?」


 いつの間にか手にしていた薄緑の投げナイフに青き月光を煌めかせているリアエルに、強がりの言葉を聞かせる。


「そしたら誰がキミを守るのよ」

「……性別が逆だったら今ので完全に落ちてるわ。とっくに落ちててよかったぜ」


 周囲に視線を配り包囲網を突破できる穴がないか探すが、それらしい隙は見当たらない。たかが獣の分際で、完璧な統率が取れている。


「どうせキミのことだから、なにか考えがあるんでしょ?」


 この絶望的な状況下で、彼女は諦めていない。もちろんコウも、諦めるなんて選択肢は端から持ち合わせていない。

 諦めるのは、死んでしまった後でいい。


「あるにはあるけど、保証はできんよ」

「なにをいまさら」


 ニドルウルフを睨みつけるようにしながら、ほんの僅かに口角を上げるリアエル。ニドルウルフと対をなす緑色の瞳には、強い希望と期待の光が宿っていた。


 昨日今日会ったばかりの、変な男に期待するなんて。

 ……応えたくなるじゃないか。

 何がなんでも切り抜けて、希望の光で照らしてやりたくなるじゃないか。


「リッちゃんに負んぶに抱っこだけど、いいん?」

「キミがそれでもいいのなら、私は別に構わないけど?」


 どこか挑発めいた言いかたに、コウは鼻で笑ってゆるりと首を振る。


 良い訳がない。それではただのヒモになってしまうではないか。そんな情けない男にはなりたくない。願わくば、リアエルの隣に立っても釣り合う男になりたい。


「必ず恩は返す! だから今だけ寄りかからせてくれ!」


 この世界に落ちてきてから、助けられてばかりだ。少しでも誰かの助けになりたくてこうして必死こいて頑張っているのに、返すべき恩は積み重なっていくばかり。ちっとも返済できやしない。


 でも、それも悪くない。


 不思議とそう思えるくらい、コウはこの世界に馴染み始めていた。

 退屈は似合わない。

 怠惰はめんどくさい。

 寸暇すんかもないほうが、やりがいがある。


 死ねない。死ぬわけにはいかない。死んでたまるものか。

 借りは返す。恩も返す。返せるものは全部返して、背負っているものを全て返済して、後腐れなく地球へ帰還するためにも。


 なんとしてでもこの窮地、脱せねば。


「あっちの方角に向かいたい。突破できる?」

「愚問ね。私を誰だと思ってるの?」


 コウの指差す方向を見て、リアエルは頼もしく即答。

 村とは逆方向の指先は、果たしてどこへ繋がって、どこへ導いてくれるのか。




 それを知るのは働き者の神のみぞ、というやつだろうか。

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