第2話「あいしょう」
第一章2話「あいしょう」
少女から返ってきた返答は、いたってシンプルなものだった。
「ムリ」
「んぐっ?!」
それゆえ少年の心に直接突き刺さるようにダメージを与え、あたかも直接攻撃を受けたかのように心臓を抑える。
今まで友達を作ることに苦労した経験はないが、拒絶されることがこんなにも痛く苦しいことだなんて知らなかったと、少年は新たに経験を積む。
「天使に『ムリ』って言われるのも、意外と悪くないな、うん」
小さく呟き、己を鼓舞する。
もちろん一度断られたくらいでへこたれているようじゃ気持ちの成就などあり得ない。困難にはぶち当たっていくのが、少年の生き様であった。
「親父も何度もアタックしてオッケーもぎ取ったって言ってたもんな。テレビでもよくそういうの見かけるし」
すぐ身近にお手本がいて、世界的に前例がある。前途多難な恋愛ほど、ぶち当たる価値のある壁はないだろう。
どこまでも前向きな少年であった。
鋭い一撃からのダメージから立ち直ると、一つ咳払いをして仕切り直す。
「俺はアマノ・コウって言うんだ。よかったら君の名前を教えてよ」
「ムリ」
「ガハッ?!」
これ以上警戒心を抱かれないように満面の笑みを浮かべて歩み寄るも、それ以上に離れられ、迎撃の言葉も同じなだけあって威力が増している。傷に塩を擦り込まれた気分だ。
「……せ、せめて名前だけでも教えてくれないかな? 俺は名乗ったわけだし、もしこれが小説だったら少年とか少女とか、彼とか彼女とか、君とかキミとか、なんかめんどくさいことになってると思うんだよね!」
何に気を遣っているのかわからないが、少年——アマノ・コウが言っていることにも一理あると、白き少女は警戒しつつも口を開き、とりあえずの体を保ったまま名を名乗る。
「……リアエル」
「リアエル……やっぱり天使みたいないい名前だね」
ちょっと言いにくいけど、という言葉は粉々に噛み砕いて飲み込んだ。
コウは褒めたつもりだし、いい名前だと思ったことも本音だ。まるでファンタジー世界のようだが、リアエルと名乗った少女の前ではそんな些細な問題は後回し。
そう、彼にとってはファンタジーっぽいのは些細な問題なのだ。
休日に新宿の街を歩いていて、気がついたらスカイダイビングをしていて周りが森に囲まれていても、何よりもリアエルのことが優先されるのである。
「————」
「えっと……なにか気に障るようなこと言っちゃったかな……?」
一応名乗ってくれたことからも、言葉が通じていることは確かだ。それにしてはやけに険しい表情を浮かべてじっとこちらを見ている。
彼女を怒らせるような発言は何一つ無いはずだが。
「さっきから何度か言ってる……自覚ないの?」
「マジか?!」
全くわからない。頭のてっぺんから足のつま先までこれまでの会話を洗い直してみても彼女——リアエルの機嫌を損ねるようなことは言っていない。せいぜい、ちょっと押しが強かったかな、くらいで、琴線に触れるような特定のワードは発していないはずだ。
頭を抱えてウンウン唸って考えるコウを見かねたのか、リアエルは苦々しく口を開いた。
「天使……」
「え、天使? それが気に障ることなん?」
「そうよ! 常識でしょ?!」
怒気を孕んだ彼女の言葉に嘘は感じられない。目にうっすらと涙をため、自分の口から『天使』というワードを発するのにも身の毛がよだつようだった。
「ご、ゴメン……」
「ぷい」
「ゴメンってばー」
「ぷいぷい」
リアエルはこれでも本気で怒っていて、だからコウは素直に謝るしかない。そっぽを向くリアエルの視線の先に回り込んでは手を合わせて必死に謝る。
ほっぺたを膨らませて唇を尖らせる表情も天使のようにかわいいなぁなんて思いつつも、まさかその『天使』がNGワードだなんて思わなかったコウ。
家でも学校でもよく『天使ちゃんマジ天使』とか、『
だから全く抵抗もなく口から発せられるが、リアエルにとっては毒になる単語らしい。
何度か彼女の周りをグルグルしながら謝り続けていたら「わかったわよ、もう」と付き合いきれなくなったリアエルは呆れたように白旗を挙げた。
「よかったぁ。このままじゃ死んでも死に切れないところだった」
「大げさなんだから」
つい先ほど死にかけてた者が言うと笑えない。
『天使』がNGワードなのは常識、と心のメモにきっちりと残し、今後は気をつけるとして、いよいよ棚にあげっぱなしにしていた本題へ突入だ。
聞きたいことはいろいろあるが、まずはその前に——
「ちょっと、服絞っていい? あんまり水が滴ってるといい男になっちゃうからさ!」
湖に落ちたことで全身びっしょり。高鳴る鼓動に体も火照ってあっという間に乾いてしまいそうだが、残念ながら恋の炎で服を乾燥させる機能は人間には備わっていない。
冗談半分、割と本気半分で言うと、リアエルは不思議なものを見る目でコウをじっと見つめる。正確にはコウの着ていた服を。
「そういえば見たことない服よね。どこの民族衣装? 素材も見たことないし……」
「いい男はスルーですかい……まあいいけど。近所のスーパーで買ったパチモンの服だよ。780円のお買い得商品だったぜ! 俺ってば買い物上手! ——よいしょっと!」
お得意の自画自賛からの、上を脱いで半裸になって、力いっぱい絞りつつ聞かれたことには答えていくスタイル。
ちなみにコウは服にこだわりはないので全てそこで買い揃えている。全身合わせても5000円しないという、手間のかからない子供に育ったと両親は複雑そうな心境で語っていた。
弟と妹がいるのだから、そっちにお金を回してあげてくれという、お兄ちゃんとしての密かなプライドのようなものだ。その意図を汲んでくれたのか、両親は二人のワガママにはよく応えていた。
そして釣り合いを取るために、コウへのお小遣いだけは少し多めになっていた。
そうして貯めたお小遣いを握りしめて新宿の街へ繰り出したら、いつの間にか知らない場所にいて、このザマだ。
念願の物が買えた後だったのが、不幸中の幸いだろうか。今もショルダーバッグの中で密かに出番を待っていることだろう。湖に落ちたことで濡れてしまっているかもしれないが、しっかりと乾かしてやれば問題はないはずだ。綺麗な水だったし。
「状況から察するに、落ちてる俺を君が助けてくれた……ってことで合ってる?」
しっかり絞ったがまだまだ湿っているシャツを着て、肌に張り付く感覚を味わいながらの確認。これで気温が冬並みだったら別の死に方をしそうだが、幸いなことに温暖な気候だ。寒くてぶるっちゃうようなことにはならなくて助かった。
コウの確認に白いローブを纏う少女は頷く。
「あのまま落ちてたら死んじゃってたかもしれないし、『助けて』って声が聞こえたから。これでも耳はいいほうなのよ」
あの情けない叫び声を聞かれていたか、とちょっぴり恥ずかしい気持ちになるが、お陰で命が救われたと思えば安いものだ。
神様も仏様も女神様も、精霊に妖精も応えてくれなかったのに、この少女は聞き届けてくれた。だから惚れてしまったのだろうし、ときめいてしまったのだろう。運命を感じてしまった少年の男心を、いったい誰が責められようか。
「あ、でも安心してね。私が今もこうしてるのは悪いところがないか確認するためだから、なにかを要求したりはしないわ」
随分と気前がいいというか、優しいというか、甘いというか。
ここぞとばかりに弱味に付け込んでくる輩などごまんと居るだろうに、何も要求なしとは。
「そりゃ助かるけど、ありがたくはないな」
「……どういうこと?」
予想外の言葉に、リアエルは小首を傾げる。
「助けてくれたお礼くらいはさせて欲しいってこと!」
何かを要求されてもコウにはそれを差し出すことはできないだろう。だからと言って助けられたままというのも男の子的に許せない。
リアエルが頑固に断ったとしても、それ以上の頑固を発揮してケツを追っかけ回して何が何でも恩を返してやるぞ、くらいの意気込みはあった。
……その意気込みは買うが、将来本当にそうならないことを願うばかりだ。変態的なストーカーに豹変したら、この諦めの悪い少年ほどタチの悪いものはいない。
少し考えるように顎に手を当てた少女は、「あっ」と何かに思い当たる。
「それなら聞きたいことがあるんだけど」
「おっ、いいねぇ! なんでも聞いてよ! なんなら個人的な質問でもオールオッケーだから!」
親指を立てて白い歯をキラリと光らせる。近所の商店街のおばちゃんにはこれだけでメンチカツをおまけしてもらえるのだが、
「依頼でここに来てて、洞窟を探してるの。上からそれらしいの見えなかったかしら?」
「スルースキルここに極まれり……ほろり」
さめざめと泣くフリをするが、見事にこれもスルーしてくれるので、軽く咳払いをして真剣に考える。
「洞窟ねぇ……うーん」
はっきり言って覚えていない。
落ちているときは助かることに必死で、景色の細かいところなどサッパリだ。トラウマものなので、できれば思い出したくないレベルで心の傷になっている。
これ絶対今回のスカイダイビングが原因で高所恐怖症になってるわーヤダー、と弱点が増えてしまったことを嘆きつつ、リアエルの望みを叶えるために、我慢して記憶の中にある映像を再生して洞窟らしき存在を探す。
「ゴメン、緑色しか見えてこねぇわ。この湖の青と、岩山の茶色がちょびっと」
色味だけという実に大雑把な情報しか脳裏に刻まれていないなんて、いつからこんな残念な脳みそになってしまったのかと、自らの落ち度を嘆くコウだったのだが、
「岩山……」
刺さる単語が混ざっていて、リアエルの表情が引き締まる。
「もしかしたらその辺りに洞窟あるかも。どっち?」
「お、そうか。えっと……」
言われてみれば洞窟というものはそういうところにあるのだと今更ながらに思い出すコウ。今までに洞窟なんて見たことがないから、そこまで頭が回らなかった。
何か方角を知る目印がないか周囲に視線を巡らせてみるが、鬱蒼とした森の木々に阻まれて、全く遠くを見渡せない。
乱気流に揉みクシャにされてグルングルンしたし、方向などとうに見失っていた。
適当なことを言っても彼女を困らせるだけだ。ここは素直になろう。
「スマン、お空の旅で興奮して目移りしちゃってグルグルしてたからわからな——あ、いや、待てよ?」
「えっ? わかるの? わからないの? どっち?」
コウのどっちつかずな反応にリアエルは戸惑うばかり。依頼で洞窟を探しているのなら急ぎかもしれないのに、彼のもったいぶるような態度は非常にもどかしい。
もう一度、落ちているときの映像を脳裏に思い浮かべる。緑と青と茶色だが、色の他にもわかりやすい目印を忘れているじゃないか。
方角を見失ったとき頼りになる、万人を等しく導いてくれる頼もしい光が。
「太陽だ」
「太陽……?」
「その岩山、太陽と重なって影になってた!」
「うんと……ってことは、太陽の方へ行けば岩山があるってこと?」
「ザッツライ!」
元気よくサムズアップ。リアエルはこのジェスチャーがなんなのかわかっていなくて、頭の上に『?』を出してオドオドしながら同じ仕草をした。相手がわからないジェスチャーをしたらとりあえず同じ動きをしておけばだいたい正解だ。あとかわいい。
なんとか捻り出せた情報でリアエルの助けとなれればいいのだが。
「んで、話の流れ的に聞きそびれちゃったんだけど、俺的に超重要なこと聞いていい?」
「なにかしら? 教えてくれたお礼に答えてあげる」
「それじゃお礼のお礼で堂々巡りしちゃうんだけど……今は置いといて」
いったん仕切り直して、改めて。
いろいろありすぎて何から考えればいいのかこんがらがっていたが、ようやくこの質問までたどり着いた。
「つっても最初から薄々はわかってるんだけどさ…………ここどこ?」
聞かれたリアエルは「は?」とでも言いたそうに口をポカンと開け、軽く呆れた様子で首を振って腰に手を当てる。
「薄々もわかってないじゃない」
「いや、そうなんだけど、そうじゃなくて! 普通に教えてくれ。ここはどこなんだ?」
少なくとも日本の新宿ではないことはわかる。代々木公園なんか比べ物にならないほどの大自然が広がる場所なんて、都会にあるはずがない。
言われた通り少女は簡潔に答えてくれた。ため息混じりで。
「ここはストファー王国の辺境に位置する、〝名前のない森〟の中よ」
精神的衝撃を受けたようにプルプルと震え始めるコウ。鼻息が荒くなり、自然と拳に力が入っていた。その拳を力一杯振り上げる。
「なにそれめっちゃファンタジー!」
歓喜の雄叫びは遠くへ遠くへ響き渡る。
コウの予想通り、ここはファンタジー世界。
気が付いたらお空の上。なんだかんだで助かって、美少女と出会う。実にテンプレ展開ではないか。王道は面白いから王道なのだ。
「異世界モノ♪───O(≧∇≦)O────♪キター!」
テンションが爆発して見えてはいけないものまで見えてしまったような気がするが、そんな気がするだけだ。気にしてはいけない。
夢にまで見た異世界ファンタジー。行ってみたいとは思いつつ、現実的に行けないことはわかっていたし、行ったところで危険がたくさんあるようなところで暮らしたいとは思わない。
だから完全に空想の世界だと思っていたのに。
「俺もとうとう異世界デビューかぁ……! 俺TUEEEEE系かな? それとも現代の知識を活かして産業革命起こしちゃう系かな? リッちゃんどう思う?」
「ちっともなに言ってるかわからな——え、なに? リッちゃんて私のこと?」
「そうだよ、他に誰がいるのさ。リアエルちゃんだと噛みそ——ちょっと長いだろ? 愛称ってやつさ。嫌なら別なの考えるけど。エルちゃんとか、リーアとか」
口から飛び出しかけた言葉を飲み込んで、追求されないようにまくし立てる。
これでも某RPGでは捕まえた仲間には例外なくニックネームをつけてきた。レギュラーの6匹以外にも、ボックスには様々な名前が付けられた仲間が待機している。愛称をいくつか用意するくらいは造作もない。量産された愛称に重要な『センス』が伴っているどうかは保証できないが。
ちなみに、元々の名前はよく忘れるタイプ。
リアエルはぶつぶつと何事かを呟いて真剣に考えている。
「ま、それはさて置いて、だ」
「え、置いちゃうの?!」
「まさかの反応!? 『リッちゃん』そんなに嫌だった?」
フルフルと首を振って否定するリアエルだが、本人は納得いっていない様子。
「嫌じゃないけど、『人の愛称』ってとっても大事なことだと思うの。そんな適当に決められないわ」
何を真剣に考えているのかと思えばそんなことか、とコウも首を振って、なんだったら両手も「やれやれ」と持ち上げる。
「わかってないなぁリッちゃん。適当に決めてこその愛称なんだぜ?」
「そ、そういうもの?」
「そういうもの! 『人の相性』が大事なのは同意だけど」
「だからどっちなのよ!」
コウの微妙なニュアンスの違いについてこられないリアエル。
「付き合ってられないわ。体も大丈夫そうだし、私はもう行くから。情報ありがとう」
「どういたしまして。こちらこそ助けてくれてありがとな」
「事情は詮索しないけど、二度とあんなことしちゃダメよ」
「できるわけないんですけど?!」
イタズラをした子供に言い聞かせるように人差し指を立てるリアエルに、コウは全力で否定した。
どうやれば生身の状態で遥か上空からパラシュートなしのスカイダイビングができるのか、こっちが聞きたいくらいだ。
「それじゃね。キミみたいな人もいるってわかって、まぁ悪くない時間だったわ」
「おう、俺みたいな人は俺しかいないけどな!」
「はいはい」
ヒラヒラと手を振って、フードを目深に被りながら苦笑するリアエル。
コウの情報通り、太陽のある方角へ歩みを進め、森の中へ入っていく彼女の白いローブを見送りながらポツリと呟く。
「初対面なのにやけにフレンドリーなのも、ファンタジーのお約束だよな」
そういう意味ではコウもファンタジー側の人間なわけだが、彼はれっきとした地球生まれの日本育ち。
もっと言えば東京生まれの新宿育ちで、バリバリの現代っ子。
——ガサガサガサガサガサ!!!!
「……………………」
だから自分の身を守る手段など、アクション映画で見た武術くらいしか知らない。殴り合いの喧嘩だってしたことがないし、付け焼き刃ですらない徒手空拳ではこの先命がいくつあっても足りない。
異世界モノやファンタジーのお約束がしっかり守られた世界であるならば、『モンスター』と呼ばれる類の存在もあちこちを闊歩しているわけで。
コウは確かにその存在を感じ取り、背筋に悪寒と冷や汗が走るのを止められなかった。
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