第201話 苦労こそ実は楽しかったりして
AI時代と呼ばれて久しい。
今まで人間が苦労して作っていたものが、AIが自動で分析などをして機械を動かす技術である。
これは芸術や文芸界にも影響が出ている。
俗に『大御所』や『
実際、本当の自動車事故で他界したポール・ウォーカがワイルドスピード最新作に登場して驚いたが、これはAIによる複製と合成によるもので少ししか使われていない。
人間の科学技術が発展して、眠狂四郎の続編や好きな声優さんの声が復活するとばれば……私は喜ぶのだろうか?
ある投資家曰く『楽できるんだからいいんじゃないか?』という。
でも、楽は本当に幸福なのだろうか?
努力や頑張りは無駄なのだろうか?
日々、考えることは本当にコンピューターの前では無意味なのだろうか?
ふと、思い出したことがある。
植松伸夫氏の言葉だ。
日本の二大RPGに有名なドラゴンクエスト(以下ドラクエ)がある。
その対極としていたのがファイナルファンタジー(以下FF)である。
植松氏はFFの作曲を担当していた。
オーケストラで重厚なドラクエに対してFFは疾走感のあるバンドのような曲だ。(もっとも、FFもオーケストラで演奏されることもあるんだけど)
なお、私は5と6、9しかFFはプレイしていない。
(ドラクエはロトシリーズと4以外はやってません)
その6のサントラに付属していたのでこんなことが書いてあった。
「楽譜通りに音楽を奏でるのなら機械に勝るものはない。タイミングも音階も完璧である。しかし、それが面白いかどうかは別である。人間は時としてミスを犯す。タイミングがずれたり音階を間違えたりもする。プロだから、それは微妙なものだが、それがその作品の味になる」
実際、去年まで大流行していたコロナで歌い手たちは色々な試みをしたが、終息した今では、前のように(まあ、衛生面は気を付けていると思いますが)大勢でのイベントにファンは押し掛ける。
AIが出来ないこと。
それは皮肉にも「ミスが出来ない」ということだ。
植松氏はわざと曲の収録で音を微妙にずらしていることも書いていて面白い。
もちろん、AIが人間の感性を理解するかどうかは分からない。
でも、アニメキャラクターで「明るい元気な子供」という設定があるとして色々な想像は出来る。
本当に良い環境で育った子供なのか、その性格は見せかけだけで親から虐待されているのか、そもそも、女の子なのか男の子さえわからない。
そこに小説家やアニメ監督などが性格などを決めていき、声優(俳優)がそれを正確に受け止めながら演じる。
私の好きなナレーションもそこは同じで、ただ、キャラクターではなく、視聴者でもない、その中間地点の語る部分が違う。
何が言いたいかと言えば……我々書き手も、日々努力していかないとAIに先をこさえれるかもしれない。(かもだけど)
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