第186話 私が障碍者が大嫌いなわけ

 二十代後半の頃。

 

 長い心の治療が後半戦に入ってきたころ、親から「今度、日帰りで東京の築地に行くんだけど、同伴しろ」と命令が来た。


 前日に親の家に泊まり、車で最寄りの駅まで行き電車で集合場所に行く。


 なお、両親は東京が嫌いだ。

 理由、『人間の臭いが嫌だ』という排ガスでもなく人の臭いが辛いらしい。

 父は神田神保町(古本のメッカ)が好きだが、最近は加齢もあり「今はAmazon」なんだそうだ。


 待ち合わせ場所には二十人ほどいて手慣れたガイドが当時、世界最大の鮮魚市場外を案内した。(まあ、そこには色々あるのでいつか書くとして)


「ここが毎年芥川賞と直木賞を決める宿です」とガイドが旗で示した場所は雑多な場外市場(一般の人も入れるお店)の中で、そこだけは異質空間のように品があった。


 本来、小説家を目指す私からすれば『いつか、ここに行くぞ!』と思わないといけないのだろうが、その時の私の感想。


――どうせ、好きなカップスターカレーと冷え飯が食べられないんだろうなぁ

 という、至極どうでもいい感想だった。


 そんなことを思いながら某タレントの有名玉子焼き店の横にある別の玉子焼き店で買った串刺し卵焼きを食べた。(美味しかったです)

(なお、この後、築地の場内に入り、母は目当てのアラをゲットし、私は狭い路地で外国の人に路地を譲ったら「ありがとう」とナイスな笑顔と流ちょうな日本語を頂きました)


 本題。


 今年の直木賞及び芥川賞が決まった。


 時々「蛇とピアス」や「蹴りたい背中」などでマスコミを少しざわつかせるが今回は少し様相が違った。


 受賞者に障碍者がいた。


 彼女は受賞の席でこう言ったそうだ。(例によって物凄く雑な要約)


「何で、障碍者が今まで受賞できなかったの?」


 私の答え。


「てめぇのような被害者ぶる利権屋が多いから」



 直木賞と芥川賞。


 どれも日本の文学史において重要な位置を置く賞である。


 誰だって一度は金屏風の前で笑顔で写真に納まりたい。


 

 はっきり言って、文章の上では誰もが対等だと思っている。


 学生だろうが社会人だろうが障害者だろうが健常者だろうが、男だろうが女だろうが、その中間だろうが、読者は一切考慮しない。(することもあるの?)


 読者は興味を持った本、作者、物語を期待しているのであり作者の涙じみた話はおまけに過ぎない。


 障碍者が選ばれなかったのは、それだけの力量のある作家がいなかっただけの話だ。

 

 もっと書けば、過去の受賞者(故人も含め)のDNAを調べてADHDなどがあったか調べれば、これらを患っていた人もいるだろう。

 

 過去に障碍者がいなかった、なんてよくも軽々しく言える。


 正直、知能も調べてもらえと言いたくなる。


 もちろん、障碍者側だって特別扱いを望んでない。


 ただ、世間やテレビ、もっと言えば教育が歪な『理解』『平等』などを押し付けて健常者の世界こそが何でも叶うという幻想を障碍者に植え付けた。


 だから、何かあると本人やその家族は、その気はなくても健常者に対してすぐ「差別」という。


 その差別は健常者なら受け入れていた差別である。


 逆に、彼らが本当に望む「差別ない社会」こそ、実力しか認めない、健常者だけの社会だ。
















































 ただね、障碍者=美術という固定観念が少しは消えてほしいなぁ。


 なお、私の好きな池波正太郎は直木賞を手に入れるまで六度ほど落ちている。

 でも、本人は当時本業だった舞台脚本を書くため大阪にいて普通に書いていて担当の記者が驚いていたとか。

 当時の陰口「棚ざらし」

 本人的には『あたりゃあいいな、ラッキーパンチ』ぐらいだったらしい。(私訳)

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