彼女の残した手がかり

 俺は再び、彼女の家に招待されたあの日にやって来た。より正確に言えば、あの日の記憶を正確に頭の中に呼び起こしている。


 状況は初めて薬を飲まされた時と同じ。

 暑い夏の気候の中で、彼女が俺の前を歩き、例のアパートへと案内しているところだった。

 俺は昔と同じ行動をとって彼女について行った。

 そして彼女が部屋の片付けを終えて、俺を部屋に入れた。これからが正念場だ。


 俺は部屋に入るやいなや、自分の周りの物を全て確認した。彼女があらかた片付けた後なのだろうが、注目すると意外と物は溢れている。

 郵便物の送り元、彼女の父親の名前、近い日付のスーパーのレシートや飲まれたビールの銘柄など、彼女の行き先を辿れそうな情報から、そうでない情報まで、俺はくまなく観察した。もちろん、過去と同じ行動をするために、彼女の勉強に付き合っているふりをしながらだ。

 その間も彼女は、挙動不審な俺に何か話しかけていたが、俺は曖昧な返事を返し続けた。


 見た目や声は、完全に十年前の彼女だ。しかし、この彼女は俺の妄想なのだ。そう言い聞かせて、俺は彼女と話すのを片手間に未来へと繋がる手がかりを探し続けた。


 頭の中に記憶できる限界まで調べたら、一度自分の頭を殴り、現実に戻る。自分の手帳に記憶したことを全てメモしたら、また薬を飲んで記憶の世界へ。それを何度か繰り返した。


 そして、俺は最後の薬を使って記憶の中に行くことになった。もはや手がかりになりそうなものは、ほとんど調べ終わっていた。しかし俺は、小さなことまで記憶し続けた。どんなに些細なことであっても、彼女に繋がるキッカケになるかもしれないから。


 そして、ついに彼女からのあの言葉がやって来た。


「少し休憩しませんか?話したいことがあるんです」


 もううんざりするほど聞いた言葉だが、これが最後と思うと、名残惜しく感じるものである。


「あぁ、俺もお前に話しておきたいことがある」


 俺は記憶の中の彼女に言った。俺の妄想の産物だと頭では分かっていても、彼女は同じ夏の同じ日を何十回と共に過ごした人物なのだ。そう簡単に妄想だと割り切ることはできなかった。

 俺が自分の記憶を捻じ曲げられなかったのと同じ、自分というものはそう易々と騙せないものなのだと、あらためて実感した。


「それじゃあ、お先にどうぞ」


 記憶の彼女は話を俺に譲った。俺は遠慮なく、彼女への思いを告げる。


「この家の中を見れば見るほど、昔の俺は馬鹿だったなって思う。お前の居場所のないこの家を見て、何もせずに帰ったんだから。本当に申し訳ないと思ってるけど、それを言葉にするのは、記憶の中のお前じゃ駄目なんだよな」


「何の話をしてるんですか?」


「未来の話だよ」


 怪訝な顔をして尋ねてきた記憶の彼女に、俺は覚悟を決めるためにも、現実の彼女への思いを口に出した。


「約束する。十年後、俺は絶対にお前を見つけ出して会いに行く。そしたら、またあの時みたいにいっぱい話そう。お前が今は何をやってるか、これまでどんな時間を過ごしてきたか、俺は何も知らない。だから俺は今のお前と話しに行くよ。約束する」


「はい。ありがとうございます」


 彼女は優しい笑顔で答えた。


「俺からも、今のお前に話したいことがたくさんあるんだ。だからもう行くよ」


 俺はそう言って立ち上がり、一方的に彼女の家から出て行こうとして出口のドアに向かった。しかし外に出る直前、背後の彼女から声をかけられたのだ。


「十年後の私のこと、よろしくお願いしますね」


 俺は驚いて振り返った。十年前の本当の彼女なら、決して言わない言葉が飛んで来たからだ。目の前の記憶の彼女は、明らかに自分が十年前の存在であることを理解しているように見えた。

 記憶の中の人物の行動は、ただの妄想に過ぎないと老婆は言っていたが、やはり俺はそうは思えなかった。

 十年後の現実の自分のことを頭を下げてお願いしている彼女は、現実の彼女とも違う一人の人間のように感じていた。俺にとっての目の前の彼女は、十年前の夏の日、大きな後悔を感じることになったあの日を、数え切れないほど何度も共にした紛れもない俺のパートナーなのだ。

 俺は彼女にその感謝の気持ちを告げた。


「あぁ、ありがとう。お前に会って、十年前のことを思い出したおかげで、俺は今のお前に会いに行こうと思えたんだ。感謝してるよ。頭の中のお前とはこれでお別れだと思うと、やっぱり少し寂しいな」


 すると記憶の彼女は、これまでに何度も聞いた、トラウマにもなりそうな言葉を、いたずらっぽい笑顔で返してきたのだ。


「もしあなたが次に私に会えた時、また前みたいに普通に話してくれますか?」


「ハハ、もちろん約束する。またな」


 俺は笑って記憶の彼女に別れを告げ、部屋を出た。



「これで全部終わりました」


 彼女の家から出た俺は、すぐに現実へと戻って来た。


「お帰り」


 老婆は無表情のままそう言って俺を迎えてくれた。


「全部飲み終わったかい?」


「えぇ。記憶の中の彼女にもサヨナラを言ってきましたよ」


「そうかい」


 老婆は少し寂しそうに静かに答えた。


「その事で質問なんですけど。記憶の中の彼女が、自分のことを十年前の存在だって自覚してる、みたいな事ってありますか?」


 俺は静かになった老婆を気にしながらも、最後の記憶の中で、気になったことを質問した。すると、老婆は考えながら答えてくれた。


「うーん。普通はない。そんなことがあったのかい?」


「はい」


「でもあんたはまた別だからね。記憶の中の人物の行動が、自分の考えによって変えられるってことを知ってるだろう?あんたが無意識のうちに、彼女にとってほしい行動をさせた、という可能性もある。私が作った薬じゃないから分からないことはあるが」


「そうですか」


 正直がっかりした。相変わらず、聞いたことははっきりと答える人だ。

 老婆の話は理にかなっていた。しかしそれでもどこか、その話を信じきれない自分もいた。



「ところで、今の彼女に関するものは見つかったのかい?」


 肩を落としていた俺に気を使ったのか、老婆は突然話題を変えて言った。


「はい。できる限りやってみました。これで今の彼女を探します」


 俺は十年前の情報を書き込んだ手帳を見せながら答えた。


「本気で会うつもりかい?」


「ええ」


「今の彼女には恋人がいるかもしれないよ」


 老婆は脅かすように俺に言った。


「もう結婚してるかも。子供もいるかもしれませんね」


「意外だね。受け入れるのかい?」


 少しも動じなかった俺に、老婆は目を丸くしていた。


「僕ももう大人ですからね。幸せにしてる人にちょっかい出したりしませんよ」


「そうかい。立派になったもんだね」


 俺が高校生の頃のことを知っている老婆は、親戚のおばさんみたいなことを口にした。



 ひとしきり老婆とこれからのことを話し終えた俺は、仕事鞄と手帳を持ち、帰る準備を済ませた。


「じゃあ、そろそろ行きますね」


「昔の彼女が恋しくなった時のために、記憶蘇生薬をもう十個くらい買っていかないかね?」


 老婆は引き止めるように、薬をさらに売り込んできた。その様子が少しおかしく思った俺は、すっからかんになった財布を振りながら、笑って答えた。


「ハハ、遠慮しておきます」


 しかし、この老婆もきっと俺のことを心配してくれているのだろう。これまでを見ていると、それは十分に分かった。俺は改めてお礼を伝えた。


「ありがとうございます。あなたのおかげで大事なことを思い出せました」


「私も楽しかったよ。ありがとね」


「それでは、さようなら」


 そう言って、俺は老婆が座っていた路地裏をあとにした。

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