救出作戦決行

 自分の現在の状況を把握した俺は、とりあえず十年前と同じように、前を歩く彼女の後ろを歩き、黙って彼女の自宅前まで移動した。


 そこは記憶通りの古びたアパートであった。昔は思わなかったことでも、十年経った今なら気づくことがあるものだ。オートロックなどは当然無い。それぞれの部屋の入り口は目の前の道路から丸見えで、女子高生が一人で留守番するには、防犯上良くないと思われる建物だった。昔はこれが普通だったのか?少なくとも十年前の俺はそんな事を気にしていなかった。


 彼女は自宅のドアの前までたどり着くと、俺を少しの間その場で待つように言った。理由は俺の記憶にある彼女と同じ。人を入れる前に片付けておきたいものがあるから、そう言っていた。


 外で待っている間、俺は部屋の中の物音に耳を澄ませた。

 ビニール袋を広げる音に加えて、大量の缶がぶつかる音が聞こえた。彼女が中で何をしているか、予想するのは簡単だった。

 彼女の声に応じて中にお邪魔すると、やはりその部屋からはきついタバコと酒の匂いがした。キッチンの隅には山ほどの缶ビールが詰められたゴミ袋があり、今慌てて集められたかのように、雑に置かれていた。


 俺は昔のように、彼女に言われるがまま奥の部屋に向かった。

 そして、六畳ほどの洋室の真ん中にある小さなテーブルに教材を広げ、俺たちは勉強を始めた。と言っても、今の俺に試験勉強する必要はない。


 そこでまた一つ、俺は十年前に気になっていた点を思い出した。

 キッチンと小さな和室しか無いこの家には、彼女の勉強机は当然のごとく存在しなかった。今は部屋の真ん中にあるテーブルを使っているが、きっと彼女の親御さんがいる時には、これは食卓として使用しているだろう。だがもしそうだとしたら、成績優秀、勉強熱心な彼女は、普段この家のどこで勉強していたのだろうか?彼女専用のスペースと思われる場所はこの部屋には見当たらなかった。

 十年前は疑問で終わったことだが、今なら答えも予測できた。おそらくは、彼女が学校の教室に残って勉強していた理由もそこにあったのだろう。


 そんな事を考えているうちに、彼女が俺に話しかけた。


「少し休憩しませんか?話したいことがあるんです」


「もちろん」


 俺は彼女のこの言葉を待っていた。十年前の俺はきっとここで選択を誤ったのだ。追い詰められた彼女の気持ちに気づいてやれず、しっかり寄り添ってやれなかった。


「前と比べると、あなたは勉強できるようになったと思います。あなたには、もう私は必要ないのかもしれません。でも私はあなたに必要とされていたいし、これからもあなたに話しかけてもらいたい」


 真剣な表情でそう語ると、彼女はゆっくりと俺に近づいてきた。


「だから、じっとしててください」


 そのまま顔を近づけられたが、俺はまっすぐに彼女の顔を見たままで、それを止めた。


「やめろ」


 息を呑んだように彼女はその動きを止めた。


「どうして?」


 至近距離で俺の目を見つめて呟いた彼女に、俺も彼女を同じように見返して返事をした。


「もっと自分のことを大事にした方がいい。お前はいつも自分を低く見過ぎていた」


「でも。私にはあなたにあげられるものは何も無いんです。これくらいしか無いから」


「そんなことない。少なくとも俺は、お前にそんなことを望んじゃいなかった。いつものように話してくれるだけで十分だった」


 正確に言えば、そういう事を全く期待していなかったわけでもない。だが、そんな理由で彼女に触れることは望んでいなかったのだ。

 俺は十年前に上手く伝えられなかった言葉と、当時の俺の本心を彼女に告げた。


「お前には自分のために生きて欲しい。自分の価値を見つけるためとかじゃなくて、お前が心のままに行動して、俺を好きだと言ってくれたのなら、きっと俺はこのままお前を受け入れてたと思う」


「ごめんなさい。私のせいです」


 彼女は俯いて俺に謝った。俺はそれを一旦スルーして、やるべきだと思う事を率直に伝えた。


「父親に虐待されてるんだろ?きっとお前を利用してるんだ。自分が飲んだビールの缶も自分で片付けないような奴とこのまま一緒にいる必要なんてない。然るべきところに通報してやるから、お前は父親との関係を考え直した方がいい」


 彼女のためを思ってそう言ったつもりだった。しかし彼女はそれを聞くと強く否定した。ただし、それを言う彼女の表情は、とても辛く苦しそうに見えた。


「それは違います!お父さんは毎日仕事して頑張ってくれてる。私が悪いんです。お父さんの機嫌を悪くさせてしまう私が悪いんです。何もできない私が全部悪い。私がもっと良い子なら、お父さんを怒らせることも無かったんです」


「子供のお前にそんな考え方をさせてる時点で、そいつはお前が庇うような存在じゃない。どれだけ父親に否定されてようが、俺にとってのお前はいい奴で、必要な存在だ」


 俺は少しでも前向きにさせようと思い彼女を励ました。しかし、そう上手くはいかなかった。彼女は再び申し訳なさそうに俺に謝った。


「ごめんなさい。あなたの言葉はとても嬉しいです。でも通報するのはやめて下さい。本当にお父さんは悪い人じゃないんです。私がしっかりしてないから、今だけ少し機嫌が悪いだけなんです」


 その答えを聞いて、彼女にはこれ以上言葉で何を言っても、堂々巡りになる気がした。そのため、俺は一旦この場を離れることにしたのだ。


「分かったよ。今日はもう帰る。悪かったな、嫌なこと話させたみたいで」


 片付けを終えて玄関に向かうと、彼女は昔と同じように外に出るまで見送ってくれた。そしてその表情もまた昔と同様に、寂しそうな顔で、同じような事を聞いてきたのだ。


「また、学校で前みたいに話してくれますか?」


「もちろんだ。学校でまた会おう」


 俺はそう答えて、彼女の部屋を後にした。


 人生で二度目のこの時間を過ごしても、俺の言葉で彼女の心を変えさせることはできなかった。

 だが、予想外だったわけでもない。俺はこの日から十年後の現在までの間に、児童虐待について多少は勉強していたからだ。元々は、彼女に何もしてやれなかったという罪悪感に押しつぶされないように、せめてもの罪滅ぼしにと思って始めたことだった。その知識が、この日の彼女の状況を把握するのに少しは役に立ったみたいだ。


 肉親から虐待を受けた子供は、自己評価が極端に低い子が多い。最も愛されるべき家族に愛されず心無い言動をされた子は、当たり前のように『自分が悪い』とか『自分はダメな奴』などという考えに至る傾向があるそうだ。それらは、俺の記憶の中にあった彼女の言動によく当てはまった。

 そしてそんな子は、親から虐待を受けていることすら、相手のせいにできず自分が悪いと考えてしまうことがあるそうだ。まさに先ほどの彼女のことである。

 長年にわたって植えつけられた悪いイメージは、そう簡単には消えない。そんな子に自信をつけさせるためには、児童相談所に支援をしてもらい、家庭環境を整えることが正攻法だと聞いた。それができないと判断された場合に、親と子供を無理やり引き離すことを考えるらしいのだ。


 その後自宅に帰った俺は、すぐに児童相談所に連絡した。どうせすぐに捕まるなら、高校を辞めてしまう前に、彼女から父親を離すべきだと思ったからだ。

 彼女はそれを拒否したが、どれだけ否定しようと、あいつは父親によって苦しめられてる。当時の彼女の様子を見れば見るほどそう思った。

 たとえ俺が彼女から嫌われることになっても、彼女には自分のために幸せになってほしかったのだ。


 虐待について通報することで何かが変わると思っていた。プロの相談相手ができることで、虐待していた父親が何らかの変化を起こす。もしくは、最終的に彼女から引き離すことができるかもしれないと考えたのだ。

 

その結果、事態は変化した。俺にとっては良くない方向に。


 それから数日間、俺は普通の高校生としての日常を再び過ごした。未来に戻る方法が分からないという理由もあったが、主な理由は彼女がどう変わったかを見守るためだった。

 しかし、俺がそれから彼女の姿を見ることは無かった。

 通報した次の日から、彼女は学校に来なくなった。心配になった俺は、彼女の家の様子を何度も見に行った。だがそこに人がいる気配は無くなっていた。

 そして次の週の始まりの日に、担任から例の知らせが告げられた。記憶にあったよりも、一ヶ月ほど早い報告であった。

 さらに、俺への情報も少し違っていた。彼女たちは通報を知った次の日に、夜逃げ同然にいきなりどこかへ引っ越したらしい。

 彼女を救いたいと思っていた俺の行動が、彼女の高校生活をさらに縮めてしまう結果になってしまったのだ。


 俺は目の前で担任の先生に見られているにもかかわらず、全身の力を抜いてうなだれ、机に頭をぶつけ目を閉じた。



 俺はこの旅で十年前の自分を再び経験し、ある感情を思い出した。十年の時間がそれを後悔という形に変えて、消し去ろうとしていた感情だ。この経験が無ければ、きっと忘れたままだっただろう。


 一度寝ても彼女のことが頭から離れない。自分が何をしていても、今の彼女はどうしているのかと気になってしまう。彼女に会えるかもしれないと思うと、知らず知らずのうちに彼女の家の方角へ向かってしまう。


 その感情は彼女への恋心だ。高校生の俺はこんなにも彼女のことが好きだったのか。自分のことは二の次で彼女の未来を心配するほどに。

 だが高校時代のそんな強い思いを思い出すうちに、また救えなかったその無念な気持ちも俺の中で大きくなった。もう一度やればまた違う結果にできるかもしれない。


 ここでまぶたを開くと、視界の中には彼女がいて、俺に微笑みかけてくれればいいのに。そんなありもしない事を期待して、俺はゆっくりと目を開けた。

 するとそこには、彼女とは似ても似つかない怪しい老婆が、俺の目の前に座っていたのだ。

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