回想 彼女との出会いと別れ

 彼女と出会ったのは、高校一年生の入学式の日だった。


 入学してから最初の数日は、彼女のことは気にも留めていなかった。

 俺も自分のことで精一杯だったからだ。誰もが周りから嫌われないように、周りに馴染めるように、できる限り明るく振る舞っていた。

 しかし彼女だけは違ったのだ。周りの女子がグループを作り常に集団で行動している中、彼女は一人で行動していることが多かった。誰かに話しかけられた時にはごく普通に対応していたように見えたが、彼女は常にどこか寂しそうで、悲しそうな印象を受けた。


 次に彼女から受けた印象は『真面目』ということだった。

 入学から一週間もすれば、一年生はほとんどが部活を始めて、放課後に教室に残ることがなくなった。

 だがまたしても彼女は例外だった。彼女は授業を終えた後も、毎日教室に残り、その日に勉強したことの復習をしていた。


 そして、俺が彼女と初めて話したのは一学期の中間試験の後である。

 遊びすぎたため、試験で散々な結果を出してしまった俺は、その後補習を受けた上に、さらに課題を山ほど出された。

 当然のことながら、再テストで合格するまで部活も禁止になったため、俺も放課後に教室に残って勉強する真面目組になったのだ。


 友達が皆部活に行った教室で、俺はテスト範囲の中で、どうしても分からない問題にぶつかってしまった。職員室までわざわざ先生に聞きに行くことを煩わしく思い、俺はたった一人、教室の中に残っていた彼女に話しかけたのだ。


「なぁ。もし良かったらここの問題を教えてくれないか?」


「え?私ですか?」


「お前以外にこの場にいないと思うが」


 今まで話したことがなかった彼女に突然話しかけた俺も悪かった。だがあまりにも信じられないという風な反応をされたため、少し意地悪な返事をしてしまった。教室にいるクラスメイトに勉強を教わるのはそんなに驚くことか?彼女の反応を見て、俺はそう思ったのだ。


「私で良ければ教えますけど。先生や他の人の方がいいと思います。きっとその方が分かりやすいですし、きっと私なんかといるよりもずっと楽しいですよ」


「お前でいいよ。お前に教えてもらいたい」


 他の人を呼ぶのも面倒だから。という思いだったが、わざわざ口には出さなかった。


「それじゃあ教えます。どこですか?」


 そう言って、彼女は快く丁寧に勉強を教えてくれた。

 さすがに毎日学校に残って勉強しているだけあった。彼女は物知りで、何でも俺に分かりやすく解説してくれたのだ。中学生の頃は、図書室の本を片っ端から読んでいたほどの本の虫だったらしい。

 だから俺は他の問題、他の教科のこと、学校の勉強以外のことも彼女にたくさん質問した。

 クラスメイトとのやりとりを見ていると、彼女は話しづらい奴なのかと思っていたが、実際には全然違っていた。流行に囚われない知識を持った彼女の話は、他の女子との会話には絶対に出ないような話題ばかりで面白かった。



 しかし、俺が中間試験の再試験を終えると同時に、俺たちのその関係性も一旦終わりになった。

 もちろん軽い挨拶や会話を交わすことはあったが、俺は部活を再開して教室に残ることがなくなったのだ。彼女のことが気になって、部活終わりに何度か教室に戻ってみたこともあったが、その時間には彼女はもう帰ってしまっていた。



 そして期末試験が近づいた六月下旬。俺たちの関係は再び始まった。

 中間テストの再試験のことを思い出した俺は、本試験の勉強から彼女とともに、放課後の教室で取りかかることにしたのだ。


「いやー、今回は良く出来たと思うな。お前の点数も越してるかもしれないぞ」


 試験日程は残り一日。これまでの試験が手応えのある結果に終わった俺は、放課後になると上機嫌で彼女に話しかけた。


「そうかもしれませんね。でも私は自信ないです。本当に抜かされちゃってるかもしれません」


「でも優等生はみんなそう言ってて、良い点取るんだよな。きっと基準が俺よりも高いんだろう」


 自信なさそうに答えた彼女に、俺は定期試験のあるあるを話して茶化した。おそらくその点については、彼女も例外ではない。きっと謙遜しているだけなのだ。俺はそう考えていたが、彼女は深刻そうな暗い表情で答えた。


「私はそうでもないです。本当に良くないかもしれません」


「そうか?まぁ、終わったことは仕方ないな。次は頑張ろう」


 思いもよらなかった彼女の真剣な顔に、戸惑いながら答えた。


「はい。ありがとうございます」


 彼女は浮かない顔でそう言った。その反応を不思議に思いながら、俺は試験勉強を始めたのだ。しばらくおとなしく勉強していたが、その最中も晴れない表情で黙っている彼女の様子を気にしていた。そしてたまたま目があった時、彼女は口を開いた。


「あの、あなたにとって私って必要ですか?」


「何だ?いきなり」


 あまりにも思いがけない質問だったため、冗談かと思った。しかし、彼女は真剣な表情で俺に続けて聞いてきた。


「お願いします、答えてください。私は必要ですか?」


「そうだなぁ。中間試験の時は必要だったけど、今はそれほどでもないかな。効率のいい勉強法ってのがお前のおかげで分かってきたから」


 もちろん、それが本心だったわけではない。その質問に正直に答えるのが恥ずかしくて、つい逆のことを言ってしまっただけ。実際には必要だとまでは思っていなくても、もっと彼女と話す時間が欲しいと思っていた。

 当時の俺は、まだ誰とも付き合ったことがない初々しい高校一年生だった。「私のことが必要ですか?」なんてクラスメイトの女子に真剣に尋ねられて、「あぁ。お前のことが必要だ」なんて真顔で答えられるはずがない。

 彼女は、男子高校生の葛藤を秘めたその答えを理解してくれなかった。当然である。彼女は頷きながら少し寂しそうに答えた。


「そうですか」


 自分の軽はずみな言葉が、彼女を傷つけてしまったのではないかと考えて、俺は慌ててフォローの言葉を付け加えた。


「でもお前と話すのは楽しいよ。勉強もお前から教わるのはかなり分かりやすい」


 それが当時の俺の最大限の素直な気持ちであった。しかし、それで彼女の表情が晴れることはなかった。彼女は浮かない顔のままで、俺に次の提案をしてきたのだ。


「あの、これから私の家に来ませんか?」


「は?何で?」


「私は家の方が集中できるんです」


 取ってつけたような理由を告げられて、腑に落ちないところはあった。だが、深刻な顔をしている彼女がそうして欲しいのであれば、俺に断ることはできなかった。


 俺はその足で、案内されるがまま彼女について行った。


「あそこが私の住んでるアパートです」


 目的地付近に来ると、彼女は近くのアパートを指差して後ろを歩いていた俺に言った。


「へー」


 こう言っちゃ何だが、お世辞にも新しいとはいえないアパートであった。壁の塗装はところどころ剥げていて、階段の手すりにはサビが見えた。

 いろいろ思いながら彼女について行くと、部屋の前まで来て、少し待たされた。


「見られたくない物があるから、少しここで待っててください」


 そう言って彼女だけ中に入ったのだ。


 しばらくしてから俺は部屋の中に案内された。入った途端、何故かタバコと酒くさい匂いがしたが、俺は特に気にせず奥の部屋へと向かった。彼女が暮らすその部屋は1Kの間取りで、高校生が親と暮らすには少し狭いように感じた。

 他にも気になる点はいくつかあった。しかし特に彼女に伝えはしなかった。家庭環境はそれぞれだ。よく母親にも「よそはよそ、うちはうち」と言われていたものだ。だからその時の俺は、多少の違和感を感じていながら、何も言わなかったのだ。


 普段食卓として使われているであろう小さなテーブルは、やはり高校生二人が参考書やノートを並べて試験勉強するには狭かった。向かい合わせに座っていても、何かに手を伸ばすタイミングで、自然とお互いの手が触れてしまうくらいだった。クラスメイトの女子の家という環境も相まって、無神経にもドキドキしたものである。



 そんな中、彼女が行動を起こした。


「少し休憩しませんか?話したいことがあるんです」


「あぁ、いいよ」


 わざわざ自宅まで呼び出された時点で何かしらの覚悟をしていた俺は、それを聞き入れた。


「前と比べると、あなたは勉強できるようになったと思います。あなたには、もう私は必要ないのかもしれません。でも私はあなたに必要とされていたいし、これからもあなたに話しかけてもらいたい」


 彼女はいたって真面目に話していたようだが、俺にはその言葉の意図が分からなかった。しかし、口を挟む間も無く彼女は続けた。


「だから、じっとしててください」


 彼女は静かにそう言うと、黙ったまま俺に近づき始めた。そして、そのまま俺の顔と彼女の顔との距離が縮まり、あと二、三秒もすればお互いの口と口がくっつくのではないか、というところまで来た。

 しかし唇が触れる寸前になった時、俺は横を向いて顔をそらした。


「ちょっと待った」


 そう言いながら、俺は両肩をつかんで彼女との距離をとった。

 年頃の男子ならば、気になっている女子からこんな事をされたら、みんな喜ぶだろう。

 事実、俺も心臓の鼓動が早まっていた。だが、それはこの先への期待という理由だけではなかった。俺はその不可解すぎる彼女の行動を見て、期待以上に心配の気持ちが前に出ていたのだ。


「何かあったのか?お前らしくないぞ」


 戸惑いながら俺が尋ねると、彼女は伏し目がちに淡々と語ったのだ。


「私にはあなたにあげられるものはもう何も無いんです。あなたの役に立てる事は、もうこれくらいしか無いから」


「よく分からないけど。ちょっと違うと思う」


 俺は心のままを彼女に告げた。


「嫌ですか?」


「嫌というわけじゃない。でも、何か違うと思う。分かんないけど、そういうのは良くないと思う。お前のためにも」


 自分でも動揺しすぎて、何を言っているのかあまり分かっていなかった。しかし、彼女が言っていたことが何か違う気がするということは、恋愛経験が皆無だった当時の俺でも分かった。


「そうですか」


 彼女は寂しそうにそう答えた。


「そんな事よりも、もっと話そうぜ。そういえば、前にお前から日本史の話を聞いたことがあっただろ?あれこないだテレビでやっててさ」


 我ながら下手な誤魔化し方だったと思う。彼女を元気付ける方法としてほかに思い浮かぶ事がなかったのだ。

 しかし、無理やりにでも話し続けているうちに、彼女は徐々にいつもの調子を取り戻していったように見えた。

 そして、再び彼女と話しているうちに、いつのまにか外が暗くなり始めていた。


「俺、そろそろ帰るよ。ありがとう。楽しかった」


 あまり長居すると彼女にも迷惑がかかると思ったため、俺は帰る支度を始めた。

 玄関を出るところまで見送ってくれた彼女は名残惜しそうな目で、俺にこう言った。


「あの、また、前みたいに学校で話してくれますか?」


「あぁ、また学校で」


 そう答えて、俺はその日彼女の家を出た。


 次の日には期末テストが終わり、部活漬けの俺の日常が戻って来た。

 俺は約束通り、以前と同じように彼女と話そうとした。しかし、彼女の家で起きたことを思い出すと、何だか気恥ずかしくて、それからの会話はぎこちなくなってしまった。


 そしてそのまま学校は夏休みに入った。

 彼女とぎこちないままで長期休みに入ることを当時の俺は少し気にしていた。だが、どうせ試験前の放課後、また一緒に勉強してるうちに元の感じに戻るだろうと、どこか楽観的に考えていたのだ。


 そして、一学期終業式の日を最後に、俺が教室で彼女に会うことは、二度と無くなった。


 夏休み明けの日に担任の先生が言った。

 彼女は家庭の事情で学校を辞めることになったということだった。そしてその先生は俺を生徒指導室に呼び出し、彼女とよく話していた俺だけにさらなる情報を告げたのだ。


『あの子は父親から身体的な虐待を受けていたらしい』


 その言葉から、十年に渡る俺の後悔は始まった。

 彼女は夏休みの間に学校を辞め、そのすぐ後に、児童虐待の疑いで父親が警察に捕まったそうだ。

 先生が話してくれた時点では、母親と暮らしているという話を聞いたが、その後の行方は知らない。


 教師たちは俺に彼女の情報を求めてきたが、その声はほとんど耳に入らなかった。

 しかし、意外にも驚きはそこまで大きくはなかった。なぜなら心当たりがあったからだ。なぜ気づいてやれなかったのか。その思いでいっぱいだった。


 彼女の家に呼ばれた日、あの日の行動は彼女なりのSOSだったのかもしれない。振り返ればあの時、彼女のためにやれたことはいくらでもあった。そう思うと、とにかく心が痛んだ。


 その後彼女の家に行ってみたが、当然のごとく、そこにもう誰も住んでいなかった。それからしばらく、俺は彼女を探すために動いた。だが、当時高校生の俺には金も力も無く、どうすることもできなかった。

 月日が経つにつれて、彼女との記憶は徐々に薄れていき、彼女を思い出すこともいつのまにか無くなっていった。


 しかし、児童虐待のニュースを聞いた時、ビールの匂いを嗅いだ時、なんて事のない楽しげな空間にいる時など、今でもふとした瞬間に彼女のことを思い出す。

 あの時俺が助けられなかった彼女は、今頃どうしているだろうか。楽しく暮らせているならそれでいいが、今も辛い生活を送っているのではないだろうか。


 何年も前のことでこんなに悩み続けるのも馬鹿馬鹿しい。そう思って金をかけて今の彼女を探そうと思ったこともあった。しかし、何年も前のうろ覚えの記憶では、その手がかりにすらならなかった。



 こうして過去と後悔に囚われた、俺という人間が出来上がった。あの夏の思い出は、この十年で俺を何度も苦しめた。

 だがそれも今日で終わりかもしれない。あの怪しい婆さんの言うことを信じるなら、今は十年前のあの日なのだ。過去を振り返るのはもう終わり。これからは目の前の彼女を助けるために全力を尽くすことにする。

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