記憶の監獄
蒼樹 たける
プロローグ 始まりは路地裏
「あー、気持ち悪い」
俺は独り言を呟きながら、人通りの少ない商店街を歩いていた。時刻はもう少しで日付が変わるくらいの夜中である。昼間は老若男女が行き交うこの道だが、多くの店がシャッターを閉めている今は見る影もない。この時間にここを通るのは、やんちゃな若者か、酔っ払いだけである。
俺もそのうちの一人だ。面倒な会社の飲み会が終わり、酔いを覚ますのを兼ねて、飲み屋から駅へ歩いて向かっていた。
酒を飲むといつも思い出す。十年前の夏のこと。あの時、彼女のことをしっかり観察して、彼女のために行動できていれば、俺も彼女も全く違う人生を歩めたかもしれない。
俺が今でも感じている彼女への後悔と罪悪感は、おそらく二度と失われることはないのだろう。過去に戻ってやり直すでもしない限りは、これからもつきまとう。
俺があの時にやってしまった馬鹿な行動は、それだけの罰を受けるに値する行為だったのだ。
そんなことを考えているうちに、俺はいつのまにか暗い路地裏を歩いていた。怪しい店が立ち並び、怖そうな男と何度もすれ違うような道だった。
俺は目立たないようにそこを通り過ぎようとした。だが、あと数メートルで路地に出るというところで、道端に商品を広げていた露天商に声をかけられてしまった。
「ちょっとお兄さん、少しだけ見ていかないかい?」
老婆の声だった。少しか細いその声を無視するのもバツが悪く思った俺は、立ち止まって話だけでも聞くことにした。
「何ですか?」
「商品を見てって欲しくてねぇ。お兄さんには何よりも必要なものかもしれないよ」
腰を曲げて小さな椅子に座っていたその老婆は、立ち止まった俺にそう言った。まるで子供向けの絵本に出てくる魔女のように、怪しい雰囲気が満載の老婆だった。
俺は風呂敷の上に乗っていた商品を一通り眺めた。白いプラスチックのケースがいくつも並んでいたが、どれにも何も書いていない。中身は何だかは分からなかった。
「俺に必要なもの?何でですか?」
「お兄さんみたいな顔をした人を、私は何人も知ってる。過去に何か後悔してることがあるんだろう?」
老婆は何か深い意味があるように、怪しげに俺に言った。図星であったが、俺は何も言わなかった。
「そのケースの中にあるものは、お兄さんみたいな人を何人も救ってるんだよ」
「へー。それで、いったい何が入ってるんですか?」
老婆の言葉を半信半疑で聞いていた俺はさらに尋ねた。その風貌や話し方から漂わせる怪しい雰囲気を感じてもなお、俺は老婆の言葉を否定しきれずにいた。彼女への罪悪感を紛らわせる方法があるならば、物によっては試してみたかったからだ。
「タイムマシンと呼ばれてる薬さ」
「タイムマシン?それってあの漫画とかに出てくるタイムマシンですか?」
唐突な言葉に思わず質問した。話が一気にきな臭くなったため、老婆への疑念が強まったのだ。しかし、老婆は当然のように俺の質問に答えた。
「あぁ、そうさ。飲むだけで過去をやり直せるよ。自分が戻りたい好きな時間に行けるんだ」
「そうですか。しかし生憎ですが、その手の話には乗らないことにしているので、遠慮しておきます」
絶対に嘘だと思ったので、丁重に断った。そうでなくても、ヤバい薬に違いない。
「そうかい?残念だねぇ。お兄さんはこれを使うべき人間だと思ったのに」
「興味がないわけではありませんが、リスクを考えると私に試す勇気はありません」
何度断ってもしつこく勧め続ける老婆に対して、丁寧に断り続けた。言葉では丁寧語を使っていたが内心では、怪しい老婆が売るそんな怪しい薬を飲むわけない。と思っていた。
「そこまで言うなら仕方ないね。引き止めて悪かった。お詫びにお茶でもどうだい?酔ってるんだろ?」
何度も同じやりとりを繰り返して、老婆はようやく諦めたようだった。そして老婆は近くにあった水筒から、お茶を紙コップに出して俺に差し出した。
「ありがとうございます。それでは、いただきます」
その状況で断るのもまた面倒に思った俺は、その紙コップを受け取りすぐに中身を飲み干した。さっさと飲んで、さっさと帰ろうと考えたのだ。しかし俺のその様子を見た老婆はニヤリと笑みを浮かべて、こう言った。
「代金は後払いで結構だよ。頑張りな」
「ん?これ金取るのか?」
老婆の怪しい発言を耳にした俺は、すぐさま言った。
しかし老婆からその答えを聞く前に、俺はひどい頭痛に襲われた。
「痛っ!」
あまりの激痛に、俺は地面に倒れこみながら強く目を瞑った。
そして、頭痛がおさまった後で目を開けると、目の前から老婆の姿と暗い路地裏は消えていた。
その代わりに俺の視界に現れたのは、空に入道雲が浮かぶ、よく晴れた夏の風景だった。
日差しがとても暑くて眩しい。俺はどこにでもあるような住宅街の道にいて、蝉の声がいくつも重なって聞こえる中、どこかに向かって歩いていたようだった。俺の少し前には制服を着た女子高生の姿が見える。
俺はその風景を見て懐かしく感じた。十年前に彼女とともに歩いた道にそっくりだったからだ。俺はその状況に疑問を感じながらも、当てもなくそのまま前に進んだ。あの時もそうだった。十年前は前を歩く彼女に案内されて、彼女の家に行ったのだ。
そして、昔を思い出しながら進んでいると、前を歩いていた女子高生が突然振り返り、俺に声をかけた。
「あそこが私の住んでるアパートです」
目の前の女子は、近くのアパートを指差して俺に言った。俺はその女子高生を見て驚いた。
その姿は、俺が知っている十年前のあの彼女と同じ顔、同じ姿、同じ言葉、同じ声だった。あの夏、助ける事ができなかった彼女の姿がそこにあった。
そして、改めて自分の姿を確認してみると、スーツを着ていたはずの服装が、いつのまにか高校時代の学生服に変わっていた。
俺はこの状況が十年前の夏の日、そのものだということに気づいた。
常識的に考えて有り得ない話だ。俺はさっきまで飲み屋街の路地裏にいたはず。
しかし、夢にしては現実感がありすぎる状況であった。まともな思考ができているし、今のところは自分自身の意思で行動できている。それに加えて、その風景は俺が覚えていなかった細かい部分まで鮮明だった。とてもただの夢とは思えなかった。
そして露店の老婆の言葉を思い出した。
『タイムマシンと呼ばれてる薬さ』
『飲むだけで過去をやり直せるよ。自分が戻りたい好きな時間に行けるんだ』
老婆が言ったことが万が一本当だとしたら、俺はタイムマシンを飲んで過去にやって来た、ということになる。
その真偽について深く考えている時間は俺にはなかった。もしこの場が本当に十年前のあの日ならば、俺が行動を起こさなければいけない場面はもうすぐやってくるのだ。
俺は昔と同じように、彼女が暮らすアパートへと向かった。今度こそ彼女を助けよう。そう意気込んで、俺は再びこの時をやり直すことにしたのだった。
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