あたしは手を一匹飼っている。この場合、一匹というのが正しいのかは分からない。一個かもしれない。一人があっているのかもしれない。でもなんとなく、一匹があたしは似合っている気がする。

 手はあたしのより大きくて、関節はごつごつしていて、血管は太い。男の手なのだ。そして普通とは違って手首より向こう側、腕や身体が無い。でも結構よく動く。変な奴なのだ。

 朝起きると、手はあたしの手に絡みついている。ほどこうにもなかなか離れてくれない。仕方がないから、あたしは手をぶら下げながら朝の支度をする。朝食は片手しか使えないから、パンとミルクをいちいち持ち替えなきゃいけない。面倒だけど、可愛いから許してしまう。ちなみに手はパンを食べない。だって口は無いんだから。

 朝のお化粧はさすがに両手を使わなくちゃいけないから、しばらく手はお留守だ。その間、手はうろうろと床を這いまわっている。当たり前だけど、手は目が見えないから、あたしが見つけられない。指を使って器用に動き回る手を避けながら、あたしはリップを塗っていく。

 外に出掛ける時も手は一緒だ。でも手を繋いでいるわけにはいかないから、スカーフにくるんで鞄に入れていく。スカーフはあたしが前に使っていたものだ。手もそれがわかっているのか、そうしていれば暴れることもない。

 でも本当はちゃんと手を握ってあげたい。でも人前でそんなことをしたら、きっとびっくりされるだろう。運が悪ければ、通報されて刑務所行きかも。そしたらきっと離れ離れだから、我慢しなくちゃならない。まったく、好きな人とならどんな姿でも触れあって良い法律が早くできないだろうか。

 仕事中は特に憂鬱。事務の仕事は退屈だし、同僚にも覇気がない。特に嫌なのは私の部署の係長。私に気があるんだがなんだかで、しょっちゅう私に話しかけてくる。しかもたまに頑張れとか元気出せと言って、私の肩を叩いてくることがある。

 一度くらいセクハラで訴えてやろうか。そう思いつつ、私は愛想笑いで係長と接している。それにしても、係長の手はなんと貧相なことか。細くて折れてしまいそうだし、体質なのか荒れている。そんな手に触られるたび私はむしゃくしゃしてしまい、不機嫌になってしまう。そのむしゃくしゃを解消するため、私はお手洗いに行く時に化粧ポーチとスカーフに包んだ手を持っていく。一度係長に、随分大荷物でトイレに行くんだねと笑われたことがある。その時はさすがに愛想笑いもできず、バーカと内心罵ってやった。

 憂鬱な仕事が終わり家に戻れば、あたしは好きなだけ手と触れ合うことができる。一緒にお風呂に入ると、手はあたしを愛撫してくる。手だけで歓ばせようとするそのひたむきな感じが、たまらなくあたしは好きだ。そしてふと、出会った頃を思い出す。

 手はもともと、あたしの恋人のものだった。その頃からあたしは、彼の手が好きだった。彼の手は、彼の魅力の全てを集めたみたいに、優しくて大きくて立派だった。その手に触れられるのが好きだった。

 なのに恋人は、車にはねられてあっけなく死んでしまった。ホント、馬鹿みたいに一瞬で。現場に居合わせたあたしはワンワン泣きながら、死んだ恋人を抱えていた。その時気がついたんだ。恋人の右手だけ、どこかに飛んで行ってしまったことに。

 手は遠く離れたガードレールの下に落ちていた。それを見て思ったんだ。この手だけは渡さない。火葬して灰にもしない。ちゃんと守る。だからあたしは手を持ち帰って、手と一緒に暮らしている。

 一緒に晩ご飯を食べて、寝る支度をして。布団に入る時は必ず手を握り合ってあたしたちは眠る。いや本当のところ、手は睡眠を必要としないのかもしれない。でもあたしは手の優しい感触に安心して寝ることができる。子どものぬいぐるみみたいなものだ。それぐらい、手はあたしに馴染んでいる。

 眠りに落ちる最後の瞬間、あたしは手をぎゅっと握りしめる。手もあたしの手を握りしめる。もう一生、離れたくはないから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

身体奇譚 伊奈 @ina_speller

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ