第4話 黒猫

 気分が憂鬱であるからといって、バスが追突されるわけではない。


 気付くと、バスは満谷駅に着いていた。他の乗客たちが降りる姿を見て、能登も慌ててバスを降りる。


 降りた直後、水たまりが音を立てて跳ねた。


 それが靴の中に入り、じわりと靴下が濡れるのを感じた。


 バスは満谷駅が終点であるから、遅れても他人の迷惑にはならず、能登自身も乗り換えには余裕があるため急ぐ必要はない。くだらない過去を思い出したために、注意が緩慢になっているのだろう。


 能登は気持ちを切り替えるために視線を上げる。


 満谷駅の北入り口前には、バス専用の切符販売機が設置されている。そこからバスの乗車位置までは屋根があり、雨天でも傘をさす必要は無い。切符販売機の横手からは、金網越しに駅構内や線路の様子が見て取れる。


 能登は金網の前まで歩くと、その根元に視線を落とした。


 金網の向こう側、金網と線路に挟まれる場所で、黒猫が身を丸めて眠っていた。


 この黒猫は、雨の日だと決まってここで居眠りをしている。よほど人に慣れているのか、能登が近付いたことにも無反応で、黒猫は気持ちよさそうに眠ったままだ。


 能登は雨が降っていると、決まってここで黒猫を観察する。


 断っておくが、能登は特別に動物が好きなわけではない。動物園に行く程度なら平気だが、動物を触りたいとは思わない。だからペットも飼っていない。能登は動物全般が好きなわけではなく、さらに猫全般が好きなわけでもなく、この黒猫が好きなのだ。


 晴天のある日、能登は自転車での通勤中に近道を見つけた。しかし、その通路は狭く、おまけに野良猫の巣窟となっており、至る所から野良猫が飛び出してきた。そのために自転車での通行は困難を極めた。結果的にこの近道は〝近道をしない方が早く駅に着ける〟という、元も子もない近道だった。


 その近道で黒猫を見かけなかったことから察するに、この黒猫は野良猫の中でも異端者なのだろう。この黒猫は、野良猫の世界に馴染めなかったのではないだろうか? いつも孤独でいる猫に親近感を覚えるのは、能登にとっては自然なことだ。


 ふと、能登の考えを断ち切るように、黒猫が目覚めて伸びをした。


 能登の観察中に黒猫が目覚めるのは珍しい。能登は毎朝、眠ったままの黒猫に別れを告げて電車に乗るのだ。今日は特別な日なのかと考えている間に、黒猫の異変に気がついた。


「お前、首輪なんかしてたか?」


 黒猫の首元には、真新しい首輪がはめられていた。


 その首輪は金色のプレートの両端から茶色いベルトが伸びているタイプで、素人目にも高そうだ。プレートの真ん中は〝三毛〟と読めるように凹んでいる。素直に考えるのであれば、三毛がこいつの名前になるのだろう。しかし、黒猫に三毛と名付ける人間がいるだろうか。


「お前、飼い猫だったの?」


 聞いてみるが、猫が答えるはずもない。


 黒猫は伸びを終え、またしても丸くなった。


 能登は黒猫を野良猫だと決めつけていたが、首輪を付けていない飼い猫だっているだろう。そう考えれば、首輪をつけている野良猫だって存在しうるわけだが、これほどに立派な首輪を野良猫に付ける人がいるだろうか。


 いろいろ仮説を立てるも、知らない人物の考えを理解することなどできるはずもない。残った事実は〝三毛は孤独ではないかも知れない〟ということだけだった。


 そうなると、親近感を覚えるのは今日までかも知れない。


 能登はそう考えながら、満谷駅の改札へ向かった。

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