第16話 アイハブアドリーム

「はい、昭島です」


 和子はシュミーズの裾をめくり上げようとする男の手を振り払いながら、受話器を取った。


 昭和38年 8月29日の朝。

 早起きの風呂屋のオーナー、爺さんはもう今日の分の薪を割り始めている時間だ。

 自分も朝飯を食べて支度をしたら、薪割りの手伝いと風呂の掃除に行かなければ。

 一番風呂のお客さんは早いのだ。

 それにしても、若い男の性欲というのは底なしだ。

 サルマタの前を突っ張らせ、すり寄りながら指を入れてくる。

 物憂げに下半身への愛撫を受け入れながら、和子は風呂屋の主人の声を聞いた。


「あのよお、今日はお前さん来なくていいわ」

「え? お休みにするんですか?」

「ああ、今日は休みにするけど、明日もやるかわかんねえ。たとえやったとしても、あんたは来ないでくれ」

「どういうことですか?」


 和子のズロースをずらして手を差し入れ陰部を弄っていた平田は、そのただならぬ気配に手を止めた。

 固くとがった乳首が、空気を読まずにシュミーズの垂れた胸元を押し上げている。

 受話器の向こうで何やらもめる声がして、電話の相手が風呂屋のオーナー夫人、婆さんに代わった。

 婆さんは辺りを憚るような小声で、だが鋭く言い放った。


「和子ちゃん、あんた何かやらかしたんでしょう。朝早く警察が来て、薪小屋や窯焚き小屋の中を散々調べて行ったのよ」

「はい?」

「なんか段ボールに色々詰めて持って行ったけど、あたしたちまで警察に呼ばれてこってり聞かれたわよ」

「どんなことを……聞かれたんですか?」


 和子はきちんと座り直した。

 不穏な空気を察知した平田が、箪笥からブラウスとスカートを出してきて、和子の体にかけた。


「……あんたんとこの従業員がたびたび休んだり、何か密かに作っている様子はなかったかって」

「そんな事……」


 和子は急に緊張した。

 自分に追手が迫っていることに、今さらながら気づいたのだ。

 冷たい汗が背中を伝う。


「あたしは正直に答えたわよ。活動家の男と同棲してるみたいだって」

「おばさん、なんで話しちゃうんですか。ひどい……」


 和子は立ち上がった。

 手ひどい裏切りだ。

 ちょんの間を逃げ出して身も心もボロボロになっていた自分を、優しく受け入れて仕事とお金をくれていたではないか。

 でも婆さんの声は冷たくとがっていた。


「ともかくあんたはもう来なくていいわ」

「え、でもどうするんですか。働き手が足りなくなるじゃないですか」

「新しい人、もう雇ったから」

「……」


 婆さんの声には、有無を言わせない迫力と、静かな怒りが込められている。


「後でその人に、今までの分の給料を持っていかせるわ。だからもう来なくていい。ていうか来るな」

「おかみさん、あたしはクビってことですか?」

「当たり前でしょ。爆弾魔が」


 電話はガチャリと切れた。


 和子は呆然と立ち尽くした。

 平田が渡したスカートが履かれることなく畳に滑り落ち、肩にかけてもらったブラウスも、シュミーズの肩ひもも、鎖骨に沿って所在なさげに垂れている。


「大変なことになっちゃった……どうしよう……」

「くび、だって?」

「うん」


 それだけでなく、と言葉をつづける和子の唇を、平田の舌と唇がふさいだ。

 和子が身をよじるとあらわになった太ももと、しぼみ気味の垂れた胸が揺れる。

 せわしなくパンツを脱ぎ飛ばしてねじ込んでくる平田のものを、和子は呆然と受け入れた。

 グチャッと濁った音がして、2人の間の何かが切れた。

 懸命に腰を打ち付けてくる平田を受け止め、和子は喘ぎ声もなく天井を見上げていた。

 台所の糠味噌樽の奥には、発火装置が何個もしまってある。

 それをどうやって隠そう。


「和子、こっち向いて」


 せわしなく腰を動かしながら、平田が耳元で囁いた。


「愛してるよ、和子だけだよ。俺にはこの世に和子しかないよ」


 もうすぐイクかなこの人、いっちゃいそうなのかな。

 男ってこの瞬間だけは、みんないい漢なのよね。

 反応してあげないとかわいそうかな。

 感じているかのような吐息で応えながら、和子は冷静に考えた。

 平田は間もなく、女の乳房を握りしめたまま果てた。


 リーンと電話が鳴り、今度は平田が受話器を拾った。

 手指が汗と女の体液で粘っこいが、そんなことはどうでもいい。


「もしもし」


 弾む息を必死で整えながら、平田は受話器に話しかけた。


「もしもし。どちら様ですか?」

「おい、平田。お前か?」


 ぞっとするほど冷たい声は、委員長だった。


「はい。平田です。なぜここの番号が」

「説明はいい。いいかよく聞け。アジトがかぎつけられた」

「はい?」


 平田は電気に撃たれたように飛び上がると、あわててパンツとズボンに片足を通した。


「作った火炎瓶を全て破壊して逃げろ。そして俺たちとの接触を禁じる」

「え?」

「大学にも当分来るな。自力で逃亡し、街に潜伏していろ。いいな、切るぞ」

「あの、あの委員長?」


 異を唱える間もなく、電話はガチャ切りされた。

 平田の叫びは委員長には届かなかっただろう。

 たとえ届いたところで、一顧だにしないのは目に見えている。


「電話、なんだったの?」


 心ここにあらずと言った様子で、ぞんざいに服を着た和子が訪ねた。

 素肌に直に着たブラウスの、ボタンが左右段違いになっているのにも気付いていない。


「僕も、くびになった」

「大学から、退学だって言われたの?」

「いや、組織から」


 平田は和子に説明したかったが、今だに組織の正式名称すら言えない自分に愕然とした。

 自分は何を信条として、どこに属するものなのか、それすらわかっていなかった。


「そっちこそどういう電話だったんだ?」

「あたしが爆弾犯だってバレて、警察が来るって話」

「じゃ」


 平田は乾いた笑いを浮かべた。


「俺たち二人とも、Xデーが迫ってるってわけだ」


 短く激しいキスの後、2人はそれぞれの真実を言い合った。


「私は世間でいう『草加次郎』なの。色んな所に時限発火装置を送りつけたり、仕掛けたりしたわ。楽しかった。スッとした」

「僕は大学の委員会の下っ端実行役で、クズ拾いみたいに瓶を集めて、火炎瓶を作ってた。何の目標も希望もなかった」


 平田は押入れを空けると、本が詰まったミカン箱の奥から、木箱にびっしりと並べたコーラやビール、牛乳瓶を取り出した。

 強烈なアルコール臭がする。

 モロトフ・カクテルと言われる種類の古典的な火炎瓶である。

 それをずらりと畳に並べると、平田は腰の手ぬぐいを引き割き、箸を長く垂らしたまま丸めて詰め、一本一本導火線の芯をしていった。

 和子も自分のシュミーズを引き割き、導火線敷設を手伝う。

 ふふふ、と2人は静かに笑った。


「あたしも見せるね。手先が器用だって子供の頃から言われていた、その集大成を」


 和子は立って、糠味噌樽の奥から酒屋の瓶ケースを取り出した。

 中には小さなポリ容器に仕込んだ発火装置や、本の中に詰め込んだ手製の手りゅう弾がぎっしり詰め込まれていた。


「あたし、男とセックスする以外に何の楽しみもなかったから、こうやっていっぱい作って貯めていたの。そしてイライラすると送りつけたり、そこらの街角において来たり」

「それで楽しいの?」

「ううん、ちっとも。でもやらずにいられなかった。あんたは?」

「俺は……嬉しかったんだと思う。役目を与えられたことが。人に、お前が必要だ、役に立つと声をかけてもらう事が。仲間として受け入れられた気分になれた」

「しょせんそんなレベルよね」

「ああ。お前とぐちゃぐちゃに乳繰り合っている方がいい。最高だよ。生きてるって気がする」


 和子は立って、窓辺に干したシュミーズに手を伸ばした。

 千切って導火線にしようというのだ。

 ふと窓の下を見て、跳んで戻った。

 窓の下、アパートの周囲、街角。何重にも警官や機動隊が包囲している。

 外階段を駆け上がる、けたたましい何十人もの足跡が近づき、ドアを激しく蹴飛ばす音が響く。

 2人は後ずさりし、部屋の一番奥に引っ込んだ。

 固く抱き合うと、互いの激しい心臓の鼓動が聞こえた。


 俺たちは生きている。


「開けろ。昭島和子と平田成典。逮捕状が出ている!」


 ドガンドガン。

 いつかのデモに参加した時、自分たちに襲い掛かって来る警官隊の警棒と、足音と、殴る音の何倍もの打撃音だ。

 平田は机の引き出しからライターをとりだし、構えた。

 和子は本型爆弾を振り上げる。

 ドアにひびが入り、穴が開いた。

 わっと警官隊が押し寄せる。

 平田はライターに火をつけ、火炎瓶の群れに投げ込んだ。

 和子が本に仕込んだ発火装置の起爆装置を引き抜いた。

 とたんに目の前が真赤な火でいっぱいになった。


 2人は崩れ落ちながら、互いの手をしっかりと握りしめた。


 I have a dream that one day

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