第15話 風に吹かれて
ちりんちりん。
ベルを鳴らしながら浅草の路地を自転車が通り過ぎる。
乗っているのは浅草警察の警官だ。
穏やかな表情の地域警ら課の時もあれば、険しい表情の男もいる。
警官の制服を着てはいないが、一目で堅気ではないとわかる独特の殺気を放っている男達の場合もある。
大抵は公安関係者だ。
ニコヨンで働きながら通う苦学生も多く住むこの地域は山谷も近く、肉体労働希望者には便利なのだ。
最近おまわりの数が多くなったな。気を付けるに越したことはない。
38歳の昭島和子は、風呂の窯焚きから一時アパートに帰り、籠を持って夕飯の材料の買い出しに出た。
同棲している大学生・平田成典は、痩せっぽっちなのに底なしの食欲で、怪我が治って来たと同時に和子の手料理や商店街のお惣菜をいっぱいに詰め込む。
そして食欲と同じく旺盛な性欲で和子に挑みかかるのだ。
毎日の欲求に応える和子も肉体的には疲れているはずなのに、妙な高揚感に満たされている。
「和子ちゃん、このごろ綺麗になったんじゃない? 若い兄ちゃんと一緒になって、お肌ぷりぷりしてるじゃないの」
魚屋のおっさんが、サバを買った和子にぶりのあらをおまけしながら話しかけた。
「表情も柔らかくなったし、前はもっとこう、キリキリしてたけど」
「そう? 変なホルモンでも出てるのかな」
「女性ホルモン。大事よお」
八百屋の店先で、切落とされたキャベツの外葉をもらいながら、和子は背中を押さえた。
女性ホルモンはいいけど、こう毎日じゃ腰にくるのよね。
「たまには精になるもん食べなよ。ガッツリビフテキとかさあ」
道を挟んで向かいの肉屋のおかみの声を、和子はあいまいな笑顔で受け流した。
このところ調子が良くないのは確かだ。
何となく熱っぽく、妙な生唾が出て気分が悪い。
胃に来るような、重い感覚にしょっちゅう襲われている。
ボーっとしてだるいし、体も思うように小回りが利かない、判断力だって鈍っている。
「こりゃ夏風邪ひいたかな」
窯焚きをしながら積み上げた燃料の薪に座っていると、突然猛烈な吐き気に襲われた。
焚きつけの新聞紙の上に胃の中のものを残らず吐くと、丸めて風呂釜の中へ放り込んだ。
あいつめ、あの平田の若造。
サカってばかりで人に寝間着も着せる暇くれないから、風邪を引いちまったじゃないか。
あたしが倒れたらどうやって二人食べていくんだよ。
和子はいまいまし気に、薪をカーンと割った。
平田成典はというと、折れた腕の骨が治ったとたん、築地の魚市場や青果市場のバイトに精を出し始めた。
少しでも割のいい仕事を、と短時間で済むきついバイトに、優先的に行くようにする。
家庭教師や幼稚園の手伝いは、きちんとした服を持っていないという理由で断った。
実家に帰って持ってくればいいものの、彼はいっぱしの労働革命戦士気取りで、『ブルジョワの』実家に戻ろうとはしなかった。
バイトの合間に学校に行き、デモや集会に参加し、また和子の働きに出ている間に、密かに集めた瓶で火炎瓶を作り、密封してしまいこむ。
委員会の仲間たちには、まだ実家の医院から通学していると思われているのか、カンパという名目で金をせびられることも、度々あった。
そのたびになけなしのバイト代を差し出すのだが、そうすると和子との生活資金がなくなる。
困った平田は散々考えた挙句、実家に電話で無心することに決めた。
世田谷の家の電話番号は、危うく忘れるところだった。
和子のアパートの黒電話を、じーころじーころと掛ける。
父か母が出たらどう切り出そう。
お手伝いが出れば簡単なのだ。
母から生活費名目でお金をもらって、自分に渡してくれていえばいい。
頼むから出ないでくれ、両親よ。
「はい。平田です。どちら様でしょうか」
あどけなさの残る声が帰ってきた。妹の成美だ。
「成美、俺だよ。お兄さんだよ」
「お兄さん……?」
平田は両親ではなく妹が出てホッとした。
彼女はまだ高校生だがしっかりもので、自分と違い両親の信頼を得ている。
「あのな、兄ちゃん今恋人と同棲しているんだけど、彼女ちょっと体を壊して」
「はあ? 自分で養えば? 学費はお父さんが払ってくれてるから、バイトでも何でもして働いた分は、全部あんたの物でしょう」
妹は呆れたように返してきた。
「それが、大学の委員会の仲間からも、困っているからお金を都合してくれと言われて」
「はいはいはい。いつもの外面だけ良い甲斐性無しね」
「ひどい言われようだな……ともかく多方面金が要るんだよ。成美、お父さんとお母さんからお金を都合して、兄ちゃんに渡してくれないか?」
「むしが良すぎ……」
妹は吐き捨てるように言ったが、それでも改めて上野で会おうと約束を取り付けた。
平田はホッとした。
手持ちで一番きちんとした服(襟の崩れていない、シミや汚れのないポロシャツにプレスの効いた綿のスラックス、麻の上着)を着て、平田は上野に出かけた。
浅草の地下道駅から黄色い地下鉄線に乗ればすぐだ。
上野の山の上の、洋食の老舗・精養軒の個室。
久々のポタージュ、ミラノカツレツに目玉焼きの載ったシュヴァリエ風ハンバーグ、アスパラガスと蟹の身がどっさり入ったグリーンサラダ。
ライスは艶々して、ほのかにバターの香りがする。
舌鼓を打つ平田に、妹は三越の袋に入れた紙包みを渡した。
中に札束が入っている。
「お父さんとお母さん、泣いてたわよ。でも私達が会いに行ったら成典も気まずいだろうって、私にこれを託した」
平田はナイフとフォークの手を止めて、紙袋を受け取った。
ずっしりと札束の重みが堪えた。
「中にお父さんとお母さんの手紙が入っているわ。返事はいいから、ちゃんと読んであげて。二人ともこのところすっごく痩せちゃって」
「そうか。体のどこか悪いのか?」
「愚かなの?」
成美は呆れたように兄を見た。
「銀行の窓口代わりに、他の学生から利用されるのも、お兄ちゃんの自由だけど、その右から左へ渡っていくお金も、お兄ちゃんのお仲間が馬鹿にしている『ブルジョワの』お父さんが、夜も休日も患者さんを断らず診てあげて稼いでいるものだって、覚えておきなさい」
「……分かったよ。大事に使うよ。でも仲間たちも俺も、社会をよくするために戦っているんであって、決して遊びじゃ」
「はいはい立派。すごく高尚」
妹は美しい口元をナプキンで拭うと、ギャルソンを呼んだ。
「コーヒーとデザートをお持ちします」
ベテランのギャルソンは、軽く呼んだだけで要件を察し、伝えに行く。
「私は大学を出たら、修道院に入るの」
「『尼寺へ行け』か?」
「そう。修道女になる。そして母校の幼稚園の先生になるわ」
「そりゃいいや。お前に向いていると思うよ」
「これからの子供たちを、自分の主張のためなら人を傷つけても、犠牲やむなし、なんて考える人間にしたくないから」
お代はあとで家の者が払いに来ますから。
そう言って、妹は帰って行った。
平田、満足したお腹を抱え、お金の包みを持って和子のアパートに帰った。
和子は疲れて横になっていた。
スカートがずり上がり、むっちりした太ももとスカートの奥のペチコートがちらちらのぞいている。
「ただいま。妹に逢って来たよ。これ、手土産のカツサンドだって。上野精養軒のだから美味しいよ」
和子は首を回して軽くうなずくと、そう、と顔を戻した。
窓の外を、目立たない地味な格好をした青年たちが数人、つかず離れず歩き回っている。
道にでも迷ったのだろうか。この辺路地がやたらに入り組んでいるから。
平田は日差しを遮るように、カーテンをシャッと閉めた。
そして、妹が話した言葉をそっくり和子に語って聞かせた。
「偉いよなあ。俺なんかよりずっと両親のことも、自分の将来のことも考えてる。俺なんか、あなたと居られればそれで幸せっていうだけの兄なのに」
「そう……」
やっぱり静かに答えて、和子は目をつむった。
夕方になればまた風呂屋に出勤なのだ。
その夜、いくら平田が求めても和子は応じなかった。
背中から腕を回されても、襟元から胸をまさぐられても、パンツの中に手を入れられかき回されても背を向けて、相手をしない。
「なんだよ……つまんないの」
平田は拗ねて、女に背を向けて寝た。
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