第14話 花はどこへ行った?
平田と和子が引っ越した先のアパートは浅草観音に近い元の𠮷原の脇、大きな病院の裏手だった。
和子は風呂屋に自転車で通い、平田は路面電車やバスを乗り継いで大学に通う。
山谷も近く、労働者の寄場も沢山あったから、アルバイトにも困らない。
若い平田は猛然とバイトに勤しみ、夜は早く帰って来て和子の分も夕飯を作り、勉強をして帰りを待つ。
そして毎晩交わった。
あまりに規則正しく帰ってくるものだから、和子は爆弾が作れない。
たまに乾電池やばねや時計の部品を『秘密の引き出し』から出して細工にかかろうとすると、平田がすり寄って来て甘え、後ろから乳房をもんだりスカートの中に手を入れてセックスをねだる。
叱りつけるとしょんぼりと涙をためて勉強に戻るので、ついつい和子は全部をきちんとまた隠し、平田のズボンとパンツをずり下ろすのだ。
だがあまりに体を求められるので、和子はついつい言ってしまった。
「虚しくない? 学生。あんた社会のために戦うって言ってなかった? 空っぽな愛の言葉だけ、言うだけ言って女抱いてのほほんとして。真面目に行動しない男は嫌い」
平田はちゅうちゅうしゃぶっていた和子の乳首から、つぼっと口を離した。
「分かりました……。俺、真面目に革命します。戦いに行ってきます」
平田成典は路面電車に乗って出かけた。
委員会から回ってきた連絡に、四派連合決起集会に参加せよ、という檄文があった。
「同士、自分は築地でマグロの解体のアルバイトがあるので」
と断っていたが(元々戦力外と見られて当てにされてはいなかった)武者震いして活気づく文連文学・文芸部連合会の集会所に、のこのこと平田は入って行った。
「アルバイトは断りました。恋人に戦ってこいと言われましたので、鋭意、戦いの狼煙を上げさせていただきます」
委員長や幹部は顔を見合わせた。
四谷と赤坂の間にある清水谷公園は、明治の初め大久保利通が士族たちに暗殺された場所である。
現在は迎賓館にもほど近い、美しい都会のオアシスになっているが、昭和38年ここに マル学同全学連 連合4派中核派、社学同、社青同解放派、構造改革派250人が集まりつつあった。
地下鉄を使って大学のある茗荷谷から地下鉄丸ノ内線に乗り、赤坂見附で降りて歩く。
近くに機動隊の基地や霞が関があるから、三々五々別れて行ったが、当時学生が連れだって歩いたら、人目を引く。
しかも清水谷公園は学生集会のメッカである公園だ。
都立日比谷高校、開業してまだ3年の新しいホテルニュージャパン。赤坂の町を歩く平田は何となくうきうきしてきた。
オリンピックに向けて建設中のホテルニューオータニ。
旧華族の邸宅を改造したクラシックな赤坂プリンスホテルには、よく家族で食事に行った。
ビーフシチューやカツレツが美味しかった。
妹と2人で、お行儀良くしなさいとたしなめられながら、色んなものを食べさせてもらったなあ。
両親も妹も、離れて暮らす祖父母も元気だろうか。
「おい平田、何をポケッとしているんだよ」
同士たちからたしなめられ、改めて自分がにやにや笑いを浮かべていることに気付き、平田は赤面した。
公園は森や大きな池がある広い敷地に、300人近くのセクトが各方面から詰めかけ、学生たちであふれかえっていた。
「これ、持ってろ。委員長が木材屋で買って来たんだ」
何を言っているのかわからない、ヒステリックながなり声。各団体の幹部たちが檄を飛ばしている。主に分裂し抗争を始めた、革マル派に対する非難だ。
あれ、なんか違うな、と平田は思った。
俺たちは社会の無矛盾や不公平のために戦うんじゃないのか。物別れした元仲間である団体と戦う事になりつつあるぞ?
幹部の演説が終わる度に、その男の所属団体からわあっと歓声が上がる。
だが平田は妙な違和感にとらわれたままだった。
「言うだけ言ってのほほんとして、行動の伴わない男は嫌い」
和子の声がよみがえる。だがその行動とは? 同じ若者を敵にするのは違うんじゃないのか?
「連中が来たぞ!」
「革マル派だ!」
突然人波がざざーっと揺れ、嵐のように突入して来た団体が、学生たちを蹴散らし始めた。
その数150人。
長い棒を振るって、集まった敵対学生たちを打ち倒している。
応戦するのは、さっき角材を受け取った平田たちだが、勝手がわからず右往左往していた。
誰が味方か誰が敵の集団か。
俺はどいつと戦えばいいんだ、教えてくれ。
混乱してゲバ棒を振り回している平田の背中と二の腕に、激しい衝撃が走り、倒れた体を大勢の足が踏みつけ、蹴り飛ばす。
左肩の下で妙な音がした。折れたらしい。
混乱の中、学生たちは散り散りになった。
平田は上着を脱ぎ折れた二の腕を固く縛り、よろよろと走り出した。
警察と機動隊が出動してくる。
捕まるわけにはいかない。
平田はチャペルのある上智大学、四谷から新宿に向かってやみくもに歩いた。
下宿に帰っても、実家に帰っても警察が張っているかもしれない。大学のキャンバスなどなおさらだ。
どこに行こう。
どこにいたって捕まるか、カクマルの奴らに追いかけられてまた滅多打ちにされる。
畜生、なんでこんなことになったんだ。
全身が痛い。すれ違う仕事帰りの大人たちが、あわてて自分から離れていく。
夕方の人ごみの中から、突然自分を捕まえる奴らが現われる気がする。
平田は恐怖に駆られて走り出した。
「ありがとうございましたー」
勤め先の風呂屋の番台の上で、和子は乾いた商売ボイスを上げた。
余りにもぐうたらしている年下の男に、激を入れるつもりでついついきつい事を言ったが、素直に
「分かりました。闘いに行ってきます」
と言って出て行ったまま戻らない。
あっけらかんと、すぐに人を信じる子犬のような素直な青年。
どんな色にでも染まってしまいそうな、たやすく利用されるに決まっている男の子。
そんなやつを拾ってよかったんだろうか。
からからと木戸が開いた。
「いらっしゃいませー」
どうっと倒れる音がした。
「平田君 ! 」
頭から血を流し、泥だらけの平田がゼイゼイと荒い息をつきながら、風呂屋の下足場に転がっている。
汚れた上着を巻き付けた左腕は妙な角度にねじくれていた。
男湯の脱衣所で、おいこいつ怪我してるぞ、という声が上がる。
和子は番台から飛び降りると、恋人を抱き起した。
「ただいま。戦って来たけど負けちゃった……」
安心したのか、平田は泣きそうな声で呟くと気を失った。
「平田君 !」
和子は男を背負い、店を出た。
「おい和ちゃん、あまり関わり合いにならない方がいいぞ。そいつアンポ学生だろ。警察が来るぞ」
「しっ 良いじゃねえか。野暮言うんじゃねえ。あの二人はもうとっくにできちゃってるんだよ」
風呂客たちの口さがない声を耳にしながら、和子は平田をおんぶして歩いた。
と
自転車のおまわりが、急に横合いの路地から出てきた。
せっかく出現しそうな角をよけて歩いていたのに。和子は内心舌打ちをした。
すれ違いざまにおまわりが振り向いて、自転車から降りてきた。
「どうしたい。お連れさん具合でも悪いのかい? 」
「なんでもないです。旦那が呑みすぎちゃったって、店から呼び出しが来てねえ。しょうもない連れ合いですよ」
和子は精一杯の愛想笑いを向けると、急いで反対側の路地に入り、警官から離れた。
ぐるりと迂回して警官を巻いた和子は、アパートに戻ると苦労して階段を上がった。
仕事をほっぽりだしてきたけどいいや。
クビにはならないだろう。
布団の上に恋人を寝かせ、ぴっちりと窓を閉めた和子は、平田の腕の上着を外した。
見たところ頭の傷も大したことはない。
血圧が高いから怪我の割に出血が多いだけだ。問題は腕の骨折だ。
「ちょっと痛いけど、我慢してよ。叫ぶと住民におまわり呼ばれちゃうよ」
折れてそっぽを向いている平田の腕を、和子は思い切り引っ張った。
ヒッと素っ頓狂な声を出し、平田は痛みに身をよじらせるが、そのまま真っ直ぐ直すと、縫物用の物差しをあてがって、手拭いで固く縛った。
きつく布を巻きすぎると血流が止まってしまう。
折れた腕を真っ直ぐに直し、清潔な布で傷口を洗い、ついでに泥だらけの顔や首、肩も軽くふくと、平田はやっと安心したようだった。
「和子さんって何でもできるんですね。整骨の心得まであるなんて」
「昔ね。国防婦人部の傷病兵看護法の講習で習ったのよ」
「すごいや。俺なんかよりずっとすごいですよ……」
「そういうこと言わない。人と比べるなんて意味ないよ。自分の中でしか人は生きられないんだから」
当分セックスはお預けね。
怪我をして熱も出てきたことだし。
ホッとしたのか、えーっ?と素直に欲望をさらけ出す平田に、添い寝する和子は服の前を開き、胸を投げ出した。
「しょうがないなあ。おっぱいだけはしゃぶらせてあげるわ」
「ん、どうした?」
警ら中の警官の、後ろをトコトコと犬が着いてきた。
首輪をして毛艶もいい高そうな洋種だ。野良犬ではなさそうだ。迷子だろうか。
「迷子か? 」
自転車を止めて撫でてやる警官に見せるように、犬は口にくわえたものを道に置いた。
「なんだこれ?」
それは針金で出来たねじと、小さな時計と、鋭い匂いのする火薬の小袋だった。
「おいこれ、どこで見つけた?」
犬は警官について来いと言いたげに、振り返りながら走り出した。
2分ほど走って立ち止まった先は、路地の一角、高い煙突の風呂屋の窯焚き小屋。和子がいつも薪をくべて焚いている持ち場だった。
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