第17話 昭和27年3月20日・浅草花川戸

 昭和27年3月20日。

 浅草・雷門通りをカランカランという当たり鐘の音が響き渡った。

 商店街のくじ引きでの一等当選のようなけたたましさは、空襲のむごたらしい傷跡がようやく目立たなくなりつつある、街の空を震わせた。


「号外! 号外だよ! 」


 新聞売りの小僧の甲高い声が通行人の耳に刺さる。


『日米の平和条約締結される』

『安全保障条約に、首相署名す』


 大きな見出しが受け取った通行人の目を引いた。


「吉田首相がアメリカに行って署名して来たんだと」

「そりゃどういう意味なんだ?」


 汚れた作業着姿の土木作業員が受け取り、頭を突き合わせる。

 その手のしわや爪の間には泥が染みついていた。

 ここ最近の東京は目覚ましい勢いで焼け跡にビルや家々が建ち、地下鉄の線路や駅の工事が行われている。

「戦後」という混乱の中で、朝鮮半島で起こった戦争が雇用を生み、工場街も商店も活気づいていた。


「これはね、米軍の占領がもうすぐ終わるって意味なんだよ。日本がふたたび主権国家として外国に認められたという、証拠の署名をしてきたんだ」


 背広にコートを着て、ソフト帽をかぶった会社員が、パーマネントの頭にスーツの若い女性に、号外の中身を説明している。


「じゃあ街からGHQがいなくなるの?」

「そういうことになる。4月28日からこの条約は効力を発揮すると書いてある。ようやくアメリカが帰るんだよ。朝鮮で戦争が続いている間はいるだろうけどね」

「本当に、日本の戦争が終わったっていうのね」


 女子事務員は歓喜の声を上げた。

 踵の傷ついた靴で歩いていた昭島和子は、スカーフを巻いたコートの襟をかき合わせながら、満面の笑顔で号外を受け取った。


「おばちゃん、骨つきの手羽とモモ肉。あとガラとささみを一つずつお願い」


 和子は鶏肉屋の店先で明るい声を上げた。

 都電の駅を降り、奥浅草から吉原に続く商店街の入口近く。

 明治から続く老舗の竹松鶏肉店にも、このごろは質の良い肉が入るようになった。

 ようやくまともに食べ物が流通するようになってきたのだ。


「はいよ。ちょこっとおまけしといたよ。みんなニコニコしているけどなんかあったのかい?」


 新聞を読む暇もなく、立ちどおしで鶏肉をさばき続けているおばちゃんは、肉とガラを紙で包みながら訪ねた。


「首相がアメリカとの条約を結んできたんですって。ようやくアメリカ兵が帰っていくのよ」

「あらあら。でも首相が署名するとか、大丈夫かね。今までそうやって、ろくでもない目にあわされてばかりだからさあ」


 大丈夫でしょうよ、今度は。

 彼女は鶏肉の包みを大事に鞄に入れて、家路を急いだ。


 27歳の昭島和子は、地元浅草の老舗デパートでタイピストとして働きながら、父の遺した下宿屋を営んでいる。

 東京都の役人だった父は戦災を生き延び、2年前の昭和25年、始まったばかりの政府の住宅政策、住宅金融公庫の融資を受けて家を建てた。

 粗末な資材ではあったが、焼け残った石造りのしっかりとした土台の上に、木造二階建ての一戸建てが完成した。

 中庭には柿の木や、つつじやモクレンなどの植木、それをぐるりと囲む縁側と、玄関の脇には日の当たる物干し場。

 戦災を生き延びた父母と娘が細やかに暮らしていくには十分だった。

 一階の端の部屋と二階は貸間とし、下宿人を住まわせていた。主に早稲田や上野の藝大の学生だ。

 ところが家が建った途端、両親は疫痢であっけなく死んでしまった。

 だから27歳の職業婦人、和子が跡を継ぎ、下宿生の面倒も見る羽目になった。

 三人住まわせていた若者たちのうち二人は卒業してしまい、今は一人しか下宿人はいない。

 だからことさら大変というわけではないが、その下宿人『山川』は体調が良くないといつも床に臥せっている。

 だから身体に良いものを食べさせてやりたいと思ったのだ。


 もも肉は切れ目を入れて開き、庭の木の枝を削って作った串を打ち、炭火であぶって塩を振る。

 またガラとささみで出汁をとって鶏雑炊を作り、庭に芽吹いた三つ葉をちぎって散らした。

 鶏をあぶる香ばしい匂いに、庭に入り込んだ半野良の猫も、にゃあーと甘い声を上げておこぼれをねだる。


「だめよ。これは食べさせる人がいるんだから。骨が残るのを待ってなさい」


 和子は小さめに切った鶏焼きと雑炊をお盆にのせ、二階への階段を昇って行った。


「山川さん、お夕飯ですよ。少しでも召し上がって」

「……どうもすみません」


 階段を上がってすぐの引き戸を開けると、西日の入る狭い部屋である。

 真ん中にひいた煎餅布団から起き上がろうとする男を、和子は止めた。


「ここに置きますから、食べられるだけどうぞ。器は置いといてください」

「すみません……」


 伸び掛けの髪に目ばかり大きな痩せた青年・山川は、しきりに頭を下げた。

 風邪気味だというので、様子見を兼ねて滋養のある食事を持って来たが、大家の和子にとっては心配の種だ。


「熱はどうですか?」


 近づいて、額に手を触れようとすると、青年は布団を被ってその手を避けた。


「うつりますから近寄らない方がいいですよ。大丈夫です。熱っぽくはないです」


 では、と和子はお盆ごと食事を置いて、降りて行った。

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