第18話 昭和27年3月・ふたりの男
風邪でふせっている下宿人・山川は、元々下宿の大家だった和子の父が死んだ後、入れ替わりのように入居希望でやってきた。
聞けば復員兵で、除隊して故郷に帰っては来たが家族は空襲で全員死に、天涯孤独だという。
まだ若く静かな男で、契約前の面談では穴の開いた靴に破れた国民服を着ていた。
初めて戦地に行ったのはまだ学校に行っていた頃だったと話した。
その朴訥な風情から、きっと学徒出陣から帰って来た学生だろうと和子は思った。
「どちらにおいででしたの?」
「……南方です。そこで体を壊してしまって……」
後遺症が残ってしまったので思うように働けないのだと、青年は申し訳なさそうに答えた。
そのはにかんだ様子に、和子はフィリピンのルソン島で死んだ弟を思い出した。
戦死の報らせと共に木の箱に入って帰って来たのは、石ころ一個だけ。弟の死んだ場所にあった石だという。
せめてもと送られてきたのだろうが、父はそれを
「どうせ司令部の近くに落ちていた石だろう。下手すると日本で拾ったやつかもしれん」
と最後まで信じていなかった。
そうかもしれないが、和子はそれが弟の身体の近くにあったものだと信じたかった。
そして、19歳で死んだ弟が、せめて苦しまず一瞬で肉体を離れて旅立ったと思いたかった。
暗い目をした帰還兵・山川が部屋を求めて訪れた時、まるで似ていないにも関わらず、和子は彼に弟の面影を感じた。
この男も戦争で人生を大きく狂わされた人間に間違いない。
そんなことを考えながら、和子はああこれも差し入れてあげようと、階下に『あるもの』を取りに降りた。
「街でこんなものも配っていましたよ。号外です」
畳んだ新聞とアスピリンを持って、和子は再び上ってきた。
山川の部屋のふすまの隙間から差し入れると、青年は布団に包まって眠っていた。
春の彼岸前にしては暖かい夜だったが、彼は寒そうに身体を丸め、粗末な薄い布団にすっぽりと入り込んでいる。
「山川さん、薬と新聞持ってきましたよ」
あまりに良く寝ているので、起こさずに置いて黙って立ち去ろうと思ったが、ふと、熱が上がっていたらいけないと思い返し部屋に入って行った。
男一人暮らしにしてはきちんと片付いた部屋は、殺風景な程に物がなかった。
ほぼ入居した当時のがらんとした部屋のまま、壁にも鴨居にも何もかかっていない。
青白い頰にうっすらと無精ひげを生やし、落ちくぼんだ眼を固く閉じて眠る青年は、20歳そこそこという話だが実際は老人のようだった。
「お薬と一緒に、ここに置いておきますね。新聞に政府の記事が載っていますよ。米軍が……」
その言葉を聞くと、山川はゼンマイ仕掛けのように飛び起きた。
「何が、何が載っているんですか?」
慌てる余り声がかすれ、ひっくり返っている。
「アメリカとの『平和条約』というのが結ばれたのですって。
もうこれから、他の国と戦争をしない国になったと見届けたから、アメリカ達は帰っていくらしいわ。これで少しは街が怖くなくなるかしら」
「そうなんですか……アメリカが帰っていく……」
山川は遠くを見るように窓の外に目を向けた。
「少しはお召し上がりになりませんの?」
「腹が空かないのです」
視線を雑炊の小丼と傍らの鶏焼きの皿に移すと、若者の表情は曇った。
「……でもありがとうございます」
「少しでも食べたほうがいいのに。お嫌いですか?」
「いただけば美味しいとは思うのですが、新橋の駅前の闇市で食べた残飯雑炊を思い出してしまって……」
残飯雑炊。
久々に聞いた名前は和子にも馴染みがあった。
終戦後、日本が連合国に占領され、一つの『国』どころか何物でもなかった空洞の時期。
進駐軍の施設として接収された建物の、食堂から出る残飯。それに水を加えてドラム缶で煮込んだものが、栄養雑炊と称して闇市で売られた。
ヨーグルトやチーズの欠片、野菜の皮、パンくず、果てはたばこの吸い殻や銀色のチョコの包み紙などが混入していたが、腹が減った国民や復員兵、闇屋に買い出しに来た女たちや仕事を求める男達など、むさぼるように買って食べていた。
戦前からのきちんとした洋食には、およそ程遠い代物だが、とにかくお腹の足しにはなった。
とはいえ残飯なので当然腐敗し始めており、すえた臭いすら漂っていた。
若い山川がその記憶に囚われてしまったのは仕方ないかもしれないが、少しは胃に物を入れてほしい。
「でも、いただきます。せっかく大家さんが作ってくれたのだし」
「いいえ、ご無理なさらず。そっちの鶏焼きだけ召し上がってください。こちらはおさげしますから」
和子は雑炊の鉢を引っ込めると、代わりに鶏の皿をずずっと押しやった。
皿はひっくり返りそうになりながら、真ん丸な目で見返す青年の布団の端まで届いた。
「うん。結構おいしくできたんだけどね、思い出しちゃうんじゃ仕方ないわよね」
台所の冷たい板張りの床にぺたんと座り込みながら、和子は鍋からじかに雑炊をすすった。
山川の部屋から引き揚げてきた分を戻すと、時間の経った雑炊は少ない米が水分を吸ってかさを増し、食べて食べても減らない。
だが腹いっぱいにふくれるほどの食糧こそが、戦争直後の貧窮の時の夢だったのだから、それを思い返すと今は天国だ。
代わりに、自分の分にとっておいた追加の鶏焼きと、庭でとれた大根の浅漬けを二階の下宿人の元に半ば押し付けて来た和子は、わざと行儀悪く雑炊をすすった。
生暖かい膨らんだ米がお腹に落ちていくのを感じながら、彼女は職場のデパートで一緒に働く男のことを思い出していた。
何となく話をするようになり、帰りに立ちのみ処で安いカストリ酒を一緒に飲んだり、家に送ってもくれる、父の葬儀や相続の時もいろいろ相談に乗ってくれた、白いシャツの似合う元横須賀の少尉だったという男。
海軍病院に勤務したまま終戦を迎え、浅草の実家近くに戻って来たというその男は、子供の頃の和子を憶えていたが、彼女の方はさっぱり記憶にない。
そんな男の子がいたかなあとぼんやりと思いつつ、焼け野原になる前の浅草の街の話をするのは楽しかったし、真面目な彼に好感は抱いていた。
だが、先日、付き合ってくれと申し込まれたのは、また話が別だ。
横須賀の空襲でまだ若い妻と乳飲み子の娘を失った男は、絶対に幸せにするからと和子に言い募っていた。
普通に考えれば喜ばしいし、身辺の確かな、きちんとした職についている男と家付き娘の組み合わせで、何も問題はない。
そしてなにより、男は和子を好いてくれている。
言葉遣いや態度、随所ににじむ生真面目で不器用な性格からしてそれは間違いない。
だが和子は返事が出来ないでいた。
「いい人よね、本当にいい人だと思うんだけどね……」
思いを無駄に巡らせながら風呂を沸かし、今夜は早めに自室に引っ込もうと、和子は二階に食器を下げに上がった。
「山川さん、お風呂は……」
階段を上がりながら見ると、先ほど置いてきた鶏焼きが、部屋の外に手つかずのまま置かれていた。
「ちょっと、どういう事よ……食べないにもほどがあるわ」
さすがに説教してやろうと襖を開けようとした手が、ぴたりと止まった。
部屋の中から、弱々しい嗚咽が聴こえて来たのだ。
すすり泣きながら、新聞をがさがさとめくる音がする。
和子はいけないものを聞いてしまった気がして、食器を手にそっと階段を降りた。
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