第11話 オリンピックは来年
いつからだろう。
『もはや戦後ではない』
という戯けた言葉が政治家の口にも、新聞にも、街に張り出されるチラシにも踊るようになったのは。
なるほどそうだ。
先の戦争が終わってから、もう18年がたっている。
天皇陛下が『現人神』から『人間』であるとカミングアウトし、天地や価値観がひっくり返ったまま、それでも男と女は交わり、子が産まれた。
合意、非合意問わず、片割れは片割れの性と肉体を求め、その結果子供は生まれる。
そうやって、胃腸の飢えや渇きを癒すと同様の、むさぼるような欲求の末に生まれた子等も、もう高校生になる。
アンポ、ハンタイ
キョウコウサイケツ ハンタイ
大都会東京には、毎日呪詛のように鬨の声(シュプレキコールというらしい)が上がっている。
東京で『オリンピック』という大運動会が、来年開かれるという。
世界中の国から、こんにちは、こんにちはと言いながら選手や観光客がやって来るから、という名目で、街はどこもかしこも工事中だ。
新しい道路。新しい団地。変換された元米軍接収地には、オリンピックの選手村という名の団地が建ちつつある。
社会は仕事と、人と、車と煙に溢れていた。
「好景気」「所得倍増計画」
工場はフル稼働し、煙突からはモクモクと煙が上がった。
足りないのは人だ。働き手だ。
フル稼働する工場や工事現場に、労働者が地方から押し寄せた。
中学を卒業したばかりの、まだあどけない少年少女たち。
地方で事業や農業がうまくいかない青年たち。
実家に居場所のない中年たち。
その男達目当ての女たち。
関東、とりわけオリンピックのため改造の真っただ中にある『東京』には、全国から若者と、そして『日本を変えよう』と本気で考える学生たちが集まった。
まるで蟻地獄のように。
『髪の毛を真ん中分けにした女って、なんでこうきついのが多いんだろうなあ』
大学生・平田成典は芝生に腰を下ろし、皇居のお濠を見下ろしながらぼつぼつと考えていた。
彼はこの日、人生何度か目の失恋をした。
さらりと真っ直ぐな黒髪をなびかせ、白い聡明そうな額に激しい感情を秘めた黒い瞳の、学生会の幹部の同級生に人生何度か目の告白をして、そしてみごとに散った。
『玉砕、という言葉は使いたくないんだけどな』
お濠には鴨が泳いでいる。
すいすいと軽快に水面を滑る母鳥の後ろを、何羽もの小鴨が必死に着いていく様子は、観ていてホッとする光景だ。
水の中では短い脚を必死にばたつかせて、母や先頭の兄弟姉妹に遅れまいとしているのだろう。
『あれは俺だよ。同士について行こうとしてもついていけない俺だよ』
平田は足元の小石を握りしめ、鴨たちの近くに投げようとした。
ふと、思い留まり、手にした本郷・朝日堂ベーカリーのブドウパンをちぎり、投げ込んだ。
食べかけのまま放置していたパンは固く、意外に遠くまで飛んだ。
平田成典は東京に生まれた。
世田谷区豪徳寺に育ち、父親は開業医、母親は自宅でお茶とお花を教え、ミッション系の女子高に通う妹がいる。
ありていに言って、恵まれた家庭のボンボンだ。
自分も幼稚園から大学まで、の名門校に入り、エスカレーター式に三田の校舎に通うはずだった。
だがふらふらと惹かれた少女が、とある国立の名門女子大を受験すると聞き、同じ茗荷谷の駅を使う国立の教育大に路線変更したのだ。
幼い頃から勉強は好きだったし、家庭教師の言う事も素直に聞いて黙々と努力を惜しまなかったので、三田の大学から教育大への進路変更は問題なく済み、彼は無事教育大へ入学した。
憧れの少女の通う女子大の、通りを隔ててお向かいのキャンバスに通う事になった。
だが問題が起こった。
少女は東大の『アンポ闘争の闘志』に惹かれ、彼のことなどすれ違っても無視するようになっていた。
あるいは最初から眼中になかったのかもしれない。
「俺、何のためにエスカレーターから飛び降りたんだろう」
学内に所狭しと立つ、角ばった大きな文字が暴れている看板(アジ看・アジテーション看板という)の間をすり抜け、彼は学内をさまよった。
授業に出ても出席している生徒は少ないし、学食は煙草の煙が充満し、一杯のコーヒーで何時間も革命論と文学論、これからの教育論を戦わせる汗臭い青年達でいっぱいだ。
ベンチに座ろうとしても、デネ活動への勧誘(オルグという)に熱心な文連・文化部連合や職員の組合員、助教授たちで満席。
他校の生徒や女性とも沢山出入りしている。
彼が次に惚れた女の子も、付属から入って来た資産家の娘だ。
真ん中で分けてすっきりと形の良い額を出した美しい娘。思想を語り、ビラを配る真剣な澄んだまなざしと魅惑的な赤い唇。
「君、毎日学内をうろうろしているようだけど、もしかしてやることがない、なんて考えているんじゃないの?」
突然購買部の前で話しかけられ、平田はどぎまぎした。
「やりがいを求めているって顔をしているわ。だったら私達とこない?困っている人、困っている世界のために働くのはとても素敵な事よ」
客観的に聞くと、めっちゃ空虚だ。
だがそれが美しい全学連少女の口から語られると、がぜん真実味を帯びてくるから不思議だ。
そうして彼は『オルグされ』た。
教育学部生・平田成典から『平田同士』になった。
彼は初めてサングラスをつけ、マスクを装着し、投石用の石を握った。
ボーっとしたノンポリ学生のはずが、いつのまにか見た目立派な反安保学生闘士だ。見た目だけは。
だがハンアンポ側には誤算があった。
にわか闘士・平田成典は運動能力のからきしない、体力面では何の役にも立たない男だったのである。
「あいつ、とんだお荷物ですよ」
眼鏡の似合う長髪の学生が、委員長と呼ばれる男に話しかけた。
学内新聞部部室、ハンアンポ団体の牙城になっている学内の薄暗い一角である。
「いいんだよそんなの」
「いいんですか。第一あいつは金持ちのブルジョア子弟だ。あとをつけて行ってあいつの家を見ましたが、でっかい豪華な医者でしたよ。自家用車もピカピカで、お手伝いさんにデパートの外商まで尋ねてきやがる。我々とは階層が違うとんだ上級国民ですよ」
「そんなこと言ったら俺たちだって、親に金を出してもらって進んだ大学で、勉強もせずに『社会変革』に勤しんでいるじゃないか。俺たちを包囲して殴りにかかる中卒や高卒の警官隊の方が、よほどプロレタリアなんだよ」
「ですがねえ」
「いいんだ。あいつにはカンパ元、資金源になってもらう。世に金持ちの存在する意義は、人の志を支援することくらいだ。やつに『俺たちのパトロン』という名誉を与えて差し上げるさ」
委員長はそう言って笑った。
その周りを何十人もの幹部学生が囲んでいる。
一般の『兵卒』学生は入れない、お偉い会議なのである。
そうして人の好い平田は、良家の子女の家庭教師や築地のマグロ問屋の解体作業などでバイト代を稼ぎ、『委員』『幹部』に渡した。
もちろん親から
「困っている友達がいるから」
「買いたい法律書があるから」
等と言ってもらったおこずかいも同時に。
その相手が例の長い黒髪に大きな目の女子学生幹部だったときは、相変わらず胸が高鳴った。
お札の袋を渡すために手が触れようものなら、それからずっと昼も夜も、バイトの最中も布団に入ってからも彼女とのキスを思い浮かべ、押し倒して性交の成功を夢想してはパンツを汚すのだった。
米軍の基地拡張に反対して暴れ、逮捕された先輩闘志の裁判……砂川闘争のため、裁判所前でデモを繰り広げる同士たちには大量の手作り弁当を差し入れたし、なんなら学内外のアジトへも自家用車で届けた。
それらはすべて
『やっとできた恋人や友人たちとピクニックに行くから』
と言って、母やお手伝い達に作ってもらったものだ。
平田にとって、好きな女がありがとうと言ってくれたり、仲間がご面相を覆うマスクを外して美味しそうに差し入れを食べてくれたりすることは、立派な『かけがえのない友人たちとのピクニック』。
小さい頃から友人がほとんどいなかった彼にとって、それは初めてできた『仲間』だった。
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