第12話 瓶を集めるロミオと番台のジュリエット
浅草ロック座の前、浅草寺の裏手の飲食店街を、早朝うろつく大八車がある。
汚れたワイシャツに手拭いでマスクをし、びん底眼鏡に履き潰したズック靴、裾のほつれたメリンスのズボンをはいた青年が、朝霧の中飲み屋街の路地を歩き回っては、酒や焼酎、ビールの瓶を集めていた。
店の脇に固めておいてある場合もあれば、道端に吐かれた酔っぱらいのゲロにまみれている時もある。
平田成典はそれを一本一本集め、嬉しそうに胸に押し頂き、背中のリュックに入れた。
ある程度リュックが一杯になったら、大八車の荷台に移す。一本一本丁寧に麻袋に移し替えて、また移動する。
丁寧にするのは当然だ。
これで火炎瓶を作り、同士が闘争で使うのだ。
割れたりひびが入ってしまったら台無しだ。
瓶集めライバルの浮浪者たちが動き出す前に、集めてしまわなくてはならない。
なにせ向こうは歴戦の勇士だし、生活がかかっているから見つかったらただでは済まない。
ボコられて隅田川の河原で半殺しの目に遭った同士もいる。
平田はよたよたと大八車を引き、移動しては瓶を集めた。
古い長屋の間の風呂屋の脇に、びっちりケースに入れられた牛乳瓶が積まれている。
「おお、ラッキー」
平田は飛びついて、大八車に箱ごと載せ始めた。
日が昇る前なのに東京は蒸し暑く、風もちっとも吹かない。
世田谷の家の周りは広い住宅地だったから、夜ともなれば夏でも風が吹き抜けていったのだが、ここは何もかもが淀んでいる。
自分たちの活動は、こうした世界を風が吹き抜けるように変えていくことだ。
首から下げた手拭いで埃だらけの顔を拭く平田は、瓶底眼鏡の奥の目を細め嬉しそうに笑った。
「あんた、学生さんだろう?」
突然声をかけられ、平田は飛び上がった。
大八車の荷台がガンと跳ね上がり、瓶が転がり出そうになるのをワタワタと押さえる。
声の主はアッパッパ風のワンピースを雑にまとった女だった。
「は、はい。いかにも自分は」
「どうでもいいけど、泥棒は良くないよ。その瓶は業者に回収してもらって、あたしたちがその分お金を返してもらうんだよ。ごっそり取られたら丸損じゃないか」
「すみません。でも目的完遂のためには小さな犠牲はやむ終えないと、先輩同士が」
「先輩だろうが後輩だろうが、泥棒の言い訳にはならないよ」
「泥棒……それは言い過ぎじゃないですか」
平田は眼鏡をきちんとかけ直すと、口を尖らせやせた胸を張った。
埃で汚れた薄黒い顔に脂汗が伝う。
女は頭にカーラーを巻き、疲れた風情だった。
「カンパの先取りと言って頂きたいです。いずれ社会が良くなったらあなたたちだって僕たちの活動の恩恵を被ることにな」
「うるさいよ泥棒ネズミ」
女は素早く首の手拭いを握り、平田を締めあげた。
「いて、痛いです。許してください」
「かずこちゃーん、何揉めてるの?なんかあったの?」
奥から婆さんの声がした。
「何でもありません。そこに野良ネコがいて、盛っていたんでからかったんですよ」
「あらあら猫ちゃん? 捕まえて三味線屋に売ればお金になるかも」
婆さんが表に出てきそうな勢いに、和子と呼ばれた女はあわてた。
「さあ、あんたもゼロじゃ先輩とやらに叱られるんだろう。五本くらいならもってっていいから、早く行っちまえ」
「ありがとうございます。美しいお嬢さん」
「お喋り男は一番嫌いだよ」
和子と呼ばれた年増女は、ぎゅーっと平田の首を締めあげた。
「……すみません」
急いで大八車を引き逃げ出す平田の背に、和子は声をかけた。
「浮浪者にも生活に困ってる風にも見えない学生が、遊びでこういうことするんじゃないわよ。あんたたちの大好きな『ケンリノシンガイ』ってやつだわよ」
遠くに自転車で巡回する交番のお巡りさんを見つけ、和子は顔をしかめた。
「ありがとうございます。美しいお嬢さん。お嬢さんと呼ぶのがふさわしくないなら、貴女はおいくつですか?」
笑顔で振り返る平田を、和子はにらみつけた。
桃色のアッパッパにサロンエプロンをかけた体がじんわり汗ばむ。
日が昇って来たのか。
「女に年を聞くなんて最低だね」
「ごめんなさい」
「……38だよ」
その日の夜、「鷹の湯」を若い男が訪れた。
「こんばんは、お嬢さん。お風呂に入りに来ました」
番台に座る昭島和子は太くりりしい眉をひそめた。
『来たよ本当に…このボンボン野郎は』
じゃら、と金を払う平田の指の、詰めの際やしわの中まですすけた汚れぶり、やせた首や伸び放題の髪の生え際の汚さに顔をしかめた。
顔立ちや物腰からして、絶対に良い家の子だろうに。
「ここ、終わるの何時ですか?」
「はあ?」
「終わったら、どこかに食事にでも行きませんか」
「おあいにく様。あたしは風呂が閉店しても、窯の火を落としたり、掃除をしたり、色々忙しいんだ」
「で、何時ですか? 」
「…夜中の、一時過ぎるかなあ」
「ああー全然大丈夫です。僕は宵っ張りのショートスリーパーなんで。そのころまた来ます。一緒にラーメンでも食べましょう」
「なんなのあんた」
「僕はあなたに惚れたんです。絶対に僕の運命の人だと、びびっと来ました」
「あーあー、お客さんが後ろつかえてるから、冗談はそれくらいでさっさと男湯に行きな」
和子が番台でシッシッと追い払うしぐさをすると、平田の後ろに立っていた熟女や超熟たちはみな一斉に声を上げた。
「ああらあ、つかえてなんかいないわよ。お気になさらず」
「それよりお兄ちゃん、もう一息よ。ググッ通して、押し倒しちまいな」
「ありがとうございます!」
あんたたちもう、サッサと入っちまえ。
昭島和子は叫んだ。
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