第24話 戦争が終わって僕らは出会った
4月28日。月曜日。
数日続いた初夏の陽気の後。
早朝の屋根を打つ久しぶりの雨音に、昭島和子は目を覚ました。
おぼろに霞んだ春の「くすみ」が洗い流されている。
ただそれだけのことなのに、道路や工場の塵で紗がかったような空の色が、一段澄んだものになり、世界の空気が入れ替わった気がした。
昼前、職場同僚の大勝が、再び和子のもとを訪れた。
事務職ではあるがデパート勤務の彼らは、平日が休みなのである。
「お天気もいいですし、駒込の六義園にでも行きませんか?」
そう言って恥ずかしそうに玄関先に佇む大勝の身なりは、庭園散策というにはあまりにもきちんとし過ぎている。
いつも仕立ての良い背広を着ているのだが、今日はそれに輪をかけて、真っ白な洗いたてのワイシャツに良く磨かれた黒い革靴。
手土産に、近所に住む伯母が作ってくれたという、さつまいもの角切りの入った『いきなり饅頭』とやらを持ってきてくれた。
「これ、下宿人氏にも食べさせてあげてください。美味しいよ」
白いサロンエプロンを着けた和子は、彼の明るく快い勢いに押され、返事もそこそこ身支度をしようと一度奥に引っ込んだ。
だが思い直して戻り、玄関先のたたきに正座した。
「大勝さん」
当然支度をして出て来たものと思っていた大勝は驚いた様子で、こちらも正座せんばかりにたたきに膝をつく。
「ごめんなさい。私、これ以上黙ってあなたの優しさに浸っていられないから、はっきり言おうと思って」
「……それはつまり……」
拒否の言葉が浴びせられるかと、大勝は一瞬身構えた。
「死んだ父だけが知っていることだけど、私ね、六年前に子供を一人おろしているの。多分生まれていたら、その子供の目は青くて、髪は赤かった」
男の息をのむ音が聞こえた。
「私は幸せに男の人と暮らすなんてできない女なの。だから……ごめんなさい。デパートももうすぐ辞めるわ。先日辞表を出してきたところよ」
「それでも、それでも僕は全然構わないよ」
つっかえながらも大勝は毅然とした声を上げた。
「誰も傷つかなかった人なんていないよ、あの戦争で」
いい『男』だ。本当にいい男だけど、あなたが思っているほど私はその記憶を克服しているわけではない。
和子は大勝の善意に怯えた。
「私が、無理なの」
「じゃあ僕は待つよ。これは自分の意思だから。戦争中は自分の意思なんか持てなかった。だから今くらい、自分の思った通りに振る舞わせてほしい。それでともかく、僕は待ちたいんだ」
正座の和子は頭垂れたまま、黙っていた。
階段の上では、仕事を探しに出かけようとしていた平田が、困った顔で座り込んでいた。
「呑もう、大家さん。これからきゅっと」
大勝が帰った後、平田が階段上の二階から声をかけた。
「どこから声をかけているのよ。さてはさっきの話を聞いていた?」
「何のことかなあ。僕には大勝さんの素晴らしい男ぶりしか聞こえなかったけど」
「呑みに行こうって言っても、まだお昼間よ」
降りて来た平田は荷物を背中に背負い、学生服を着ている。
「いいじゃないですか。日の高いうちから呑んじゃだめだと言う法はない」
「その恰好……旅にでも出られるの?」
平田は恥ずかしそうに笑った。
「ええ。大きな懸案が解決したんで、一度田舎に帰ろうと思って」
「じゃお祝いということね……軽くならいいかな」
和子はようやく安心したように、身支度をしに部屋に戻った。
「なんならさっきの方も、一緒に飲もうって呼びに行きましょう。いい人じゃないですか」
平田は靴を履きながら、一階奥の和子の私室に向かって怒鳴った。
「本気で言ってるの?」
「本気ですよ。我ながらいい提案だと思うなあ」
学生服姿の平田、ワイシャツにネクタイ、仕立ての良い背広姿の大勝、明るい空色のブラウスにベージュのスカート、緑色のカーディガンの和子は、浅草一丁目の神谷バーに入った。
職場のデパートの近くなのにいつも人でごった返していて、仕事の後に入ったことはなかった。
今日は月曜日だし開店とほぼ同時なので、さすがに夜ほどには混んでいない。
だが浅草見物に来た人達や、もうすぐ本国に帰る米兵と家族などで既にテーブル席はほぼいっぱいだ。
三人は席を詰め合って無理にテーブル席に着くよりも、壁際のカウンターで立ったまま呑むことにした。
煮込み、常夜どうふ、きゅうりもみに、相模湾の桜エビのおろしあえ。
大勝と平田は電気ブランをグラスで注文し、そこまで酒に強くない和子はハチブドー酒の赤だ。
「あら、甘くておいしい」
乾杯の声と共にグラスに口を付けた和子は歓声を上げた。
「そいつは厄介だ。口当たりが良いから呑み過ぎると足がとられるよ」
という大勝は、アルコール度数の高い電気ブランを、手慣れた様子でちびちびと呑んでいる。
若い平田は加減が分からず、ぐっと一息で飲んでしまい、むせた。
酒など、出征前に村の壮行会で飲まされた時以来である。
「おいおい学生さん、呑み方の勉強もしないと体を壊すぞ」
「平田さん、案外あわてん坊なのね」
「酒なんてほとんど飲んだことなかったもんで」
早くも耳たぶを赤く染めた平田は、目の前の二人の大人を見返した。
和子も大勝も、グラスに二杯目なのに顔色一つ変えない。
「平田君の若さと、これからの未来に乾杯」
三人はかちりとグラスを合わせた。
「大勝さんと昭島さん、お似合いの二人に乾杯」
早くもほろ酔いの平田の声に、え? と年長の二人は顔を見合わせた。
「僕、知ってるんですよ。下宿人のためにって言って、色々と大家さんを気にかけて差し入れしてくれてたの。そんな優しい大勝さんの未来と、昭島さんのために乾杯」
和子と大勝はグラスを上げていいものか迷ったが、平田は機嫌よく、グラスを高く掲げた。
「じゃあたしも。みんな元気に、バリバリ働いて、素敵な家庭を持って、それが巡り巡って全体に広がって、優しい人達の国になりますように、乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
三人は、かちりとグラスを合わせた。
夕方早くの汽車で九州に帰るという平田を、大勝と和子は東京駅で見送ることにした。
寝台車などという洒落たものではない。一般車の客席で、長い道中を寝て行こうというのだ。
「また東京に戻ってきます?」
「うーん、両親と実家の様子によります。散々心配をかけたので……家に着いて落ち着いたら電話しますよ。もっとも戻ってきても僕のいる余地はないかもしれませんがね」
「自分は早々焦るタイプじゃないから、ゆっくりノンビリいくさ」
「何か言ってるわ、男の人同士で」
じゃあ元気で、と東京駅で平田と和子、大勝は別れた。
「せっかく宮城の近くまで来たんだ。日比谷公園にでも寄っていくといいですよ。新緑が綺麗でしょうから」
平田はその時、二人に投げかけた言葉を後々まで後悔した。
その日。昭和27年5月1日。
メーデーのデモを繰り広げた労働者、学生、左翼系団体の若者たちは、暴徒と化して車を破壊し、放火を繰り返しながら日比谷公園に集結し、皇居前広場に突入した。
警官隊はデモ隊に発砲、警官隊とデモ隊双方に死傷者が出た。
後世『血のメーデー』と称される事件である。
GHQによる日本占領が解除された3日後の出来事だった。
その日以来、和子と大勝に会った者はなかった。
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