第25話 昭和20年3月上旬・浅草今戸
木枯らしが窓をがたがたと鳴らす。その耐えがたい音で平田は目を覚ました。
天井から垂れ下がった電球には黒い布の傘がかかり、国民服を着て足にゲートルを巻いたまま、薄い煎餅布団で寝ていたのだ。
昭和20年3月
もう暦の上では春だというのに、ここ数日東京の空は強い北風が吹いている。
そこに夜と言わず昼と言わず警戒警報が鳴るものだから、平田はここしばらく夜ゆっくり眠れたためしがない。
空襲警報が鳴れば、さっと跳び起きて近所に警報発令を大声で触れ回らなければならないし(それは町会での彼の役目だ)、消火活動の準備もしなければならない。
戦争がはじまり二年余り。昭和19年になると東京が空襲に見舞われるようになった。
ほぼ毎日、時には一日に何度も帝都の至る所に爆撃機の機影が走り、職場でも家でも安らぐときはなかった。そのたびにサーチライトが夜空を照らし、月島の高射砲が迎え撃つ。
だがまだどこかノンビリとしていた。
目標は工場や、軍の施設の近くや代々木の連隊の近くなど、主に山手が多かったからだ。
もちろん本所や滝野川、板橋など数十人の死者が出る空襲もあったが、平田の住む浅草の周辺は不思議と大規模な爆撃には見舞われてはいなかった。
「浅草寺の観音様のおかげだよ」
長屋のお年寄りはよくそう言った。
なんでも大震災でも観音様は崩れず火災からも免れたので、そこに避難して助かった人は多かったそうだ。
でも東郷神社や品川のお寺さんもアメ公の爆撃にやられたと、平田は小耳にはさんでいた。
でも彼は町でよく一緒になる老人の話をふんふんと聞いていた。
ただでさえ若い者の消えた街で、これ以上目立ちたくなかったからだ。
平田成典は25歳。
徴兵検査で不合格となっていた。
検査の時期にちょうどひどい風邪をひき、喉がゼロゼロと酷い音を立て、血の混じった痰が出る状態だった。
息が苦しく、ちょっとの刺激で咳こみ始めると息が吸えない程に激しく続き、酷い時は地面に転がってのたうち回るほどだった。
肺の異音が結核特有の症状であるラッセル音とみなされ、血痰もある事から肺湿潤(結核)。
そう結論を下した検査担当の陸軍軍医は顔をしかめ、早々に帰るように告げた。
時期を置いて再度検査を受けたが結果は同じだった。
熱は下がっていたが肺と気管支の音、激しい咳での体力消耗でがりがりに痩せた体、それも結核患者の症状とみなされた。
軍隊では性病や結核などの伝染病を特に嫌う。部隊全体に広まってしまう恐れがあるからだ。
平田は二度と軍役に及びのかからない、天下御免の不合格者となったのである。
街に若いものが消えていく中、職場の工場に通う途中も、防火演習でも建物疎開の作業の場でも、彼は生白く痩せた体で一生懸命働いた。
だが周囲からは「役立たず」とみなされていた。
彼は知らない事だが、結核ではないにしろ激しい呼吸の発作に襲われる症状は喘息、しかも咳に特化した咳ぜんそくと現代では名付けられるものだった。
一種のアレルギーであり、減感療法やステロイドしか治療の手立てはない。
もっとも昭和20年代にそんな知識も薬もないので、彼は軍が認めた肺病やみとして、罪悪感と無力感を抱えながら生きていた。
彼は浅草のはずれ、今戸と橋場の狭い木造家屋が密集する長屋街に住んでいた。
そこから江戸時代から続く渡し船に乗れば、対岸の向島に着く。そこも下町の中の下町で、小さな工場や職人の作業場が密集しており、川に沿ってメッキ工場もあった。
職場は花川戸で、軍人用の靴を作っていた。
貴重な革を使い軍に収めるわけだから、彼の勤める町工場は二十人ちょっとの規模と言えども立派な軍需工場と言えた。
浅草の中でも水が豊富な川辺の花川戸や今戸は皮なめしの盛んな地として知られ、また水路を利用して江戸時代から続く再生紙、浅草紙の産地でもあった。
書き物用の白い巻紙用と違い、鼻紙や厠で用いられるための、ごわごわと厚手で黒ずんだ灰色の紙である。
時折色紙の細かな破片の名残りの、赤や緑、黄色の色が混じっていた。
彼の父も紙漉き職人で、回収した使用済みの紙を細かく切って大鍋で煮て、ふのりを入れて粘性を出し、木枠に沿わせて漉く。
その情景を彼は覚えている。
平田の実家は川沿いにあったので隅田川を行き交う実に多くの種類の船を見て覚えた。
漁船や渡し船、優雅な屋形船も通れば、朝早く人目に着かない時間帯に、東京各所から回収して回った屎尿運搬船や、使用済みの紙を載せた船や、沖の貨物船から荷を載せて運搬する沖給仕の船もあった。豚や牛や馬の死体や生皮も運ばれてきた。
特に紙は、江戸の昔から𠮷原という紙の一大消費地があったので、豊富に入荷しては再生紙として漉かれた。
ただし庶民は「不浄の紙」として喜ばず、結局はまた吉原で使われるために戻って行くことになるのだが。
平田は自分も父の跡を継いで紙漉き職人になるものとばかり思っていた。
だが時代が下り、紙も大手の製紙工場で作られるようになったので、進路を変えて靴職人の修行をした。
そのままの流れで軍靴を作る工場で働いているのだが、少年の頃から勝手知ったる工場とは言え、時折発作で休んでしまうのに引け目を感じていた。
おまけに徴兵検査には不合格となり、がりがりに痩せた体にぶかぶかの服の姿は誰が見ても病人だった。
工場でも若い同僚がに召集令状が下り、工員一同、婦人部、町内会の万歳三唱で送りだされていった。
そのたびに
「お前は行かなくて済むんだね」
と言いたげな周囲の人々の視線が痛く、平田は細い体を益々ちぢこめて万歳をするのだった。
高等小学校を出てから15歳くらいまでの、少年の頃は楽しかった。
川原の子供と言われながらも、浅草寺の裏にあった花屋敷で動物の世話をして働いていた。
餌になる肉や残飯、藁を切ったり混ぜたり、動物の隙を見計らって小屋の中の糞を掃除する。
時に爪を立てられたりつつかれたり、ヒヤッとすることはあったが毎日好きな動物に囲まれて、充実した日々だった。
象なんかは気が荒く、人を襲って食うとされる猛獣も近寄らせてはもらえなかったが、毎日世話をしに来る若い自分に懐いてくると可愛いし、こちらが心を込めて世話してやればきちんとそれに応えてくれるのがなんとも愛らしく、疲れていても夜通し出産のお世話に付き合ったこともある。
だがその動物たちも、彼が15歳になる昭和10年にはいなくなった。
死んだのではなく、花やしき自体の経営難のため、仙台の動物園に売り払われたのだという。
こよなく愛した動物がいなくなってしまったので、少年の彼はわざわざ足を延ばして上野の恩賜公園まで行った。
上野の動物園まで通い、愛する動物たちの世話をした。
戦争が始まり、病気で徴兵検査に不合格になっても、彼はそのまま昭和18年まで働いた。
だが「都」となった東京の命令で、飼っていた動物の扼殺や餓死を行わなければならなくなった。
有事の際に動物が脱走したら危険だからという意図である。
可愛がった鳥も、サルも、象も虎も。
みんな飢えさせるか自分達の手で殺した。
そのたびに彼は自分が真っ黒になっていくのを感じた。
国のお役に立てないばかりか、動物たちの命を奪わなくてはならない。
また職を失った平田は浅草に戻り、軍の指導下に入った靴加工会社に勤めることになったのだ。
気管支と肺に爆弾を抱える彼にとって、冷たい風や砂埃、建物疎開で出る木くずや微細な粉末を吸い込むのは発作への引き金だった。
三月三日。
この日も浅草は川から吹き上げる北風が町を駆け巡っていた。
夕刻になると木枯らしは更に強く吹き付け、からからに乾いた町の砂塵や、学徒たちが壊した家々の木くずや壁土を巻き込んで、人々に浴びせた。
工場の仕事がひけて背を丸めて帰る途中の平田は、いきなり正面から強く吹きつける砂やガラスの粉塵を含んだ突風に巻かれた。
道行く人々も頭の先から国民服やもんぺの中まで埃にまみれた。
平田はとっさに腰の手ぬぐいで口と鼻を押さえたが間に合わず、塵芥を思いきり吸い込んだ。
たちまち喉がヒューヒューいいはじめ、胸の底から突き上げるような咳が後から後から湧いてくる。
余りの激しさに立っていられなくなりそうで、思わず家と家との間の細い路地に転がり込んだ。
もはやゴホゴホでもない、嘔吐のような音が腹の底から響き、道行く人は一斉に振り返ったが、その視線を振り切るように彼は路地の奥へ奥へと逃げ込む。
まるで泥棒か粗暴犯のようだ。
逃げ込んだ一角はだれも住んでいない空き家ばかり。
建物疎開で早々に取り壊しになる区画だったのだ。
だが人々の忌避する様な目が怖かった。
おい大丈夫かと声はかけるが、みな結核と分かると手は出さない。
遠巻きに眺めているだけだ。
そのうちに巡査を呼んでくるものもあるだろう。
まるで犯罪者のように警察に引っ立てられ、発作が収まるまで床や留置所に転がされる。
そんなことは今まで何度もあった。
激しすぎる咳で息が吸えず喉がぎゅうっとしまる。
窒息しそうになって空き家の軒先でのたうち回る平田に、小さな声がよびかけた。
「しっかりしてください。お医者さまを呼んできます」
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