第23話 生きて良い世界

 許された。

 何者かが自分に生きて良いと言ったのだ。

 ギリギリのところでこちらの世界に居る権利を認められた。

 平田はにわかには信じられず、部屋に持ち帰った新聞を何度も凝視した。

 紛うことなき自分の本名が、許されるもの1人として載っている。

 本当に自分はこの世界に留まっていいのだろうか。日の当たる世界に出ていいのだろうか。

 長いこと部屋の中に座っていた彼の耳には、いつもなら耳を覆いたくなる都電や道路工事の騒音も聞こえなかった。

 平田は立ち上がり、ふらふらと階段を降りた。


「あら、お出かけですか?」


 朝食の後片付けをしながら和子が振り向いた。

 彼は答えず無言で玄関から出て行った。


 路地から大通りに出て浅草の街を歩く。

 視線を上げて街を見渡すと、女性達は髪にパーマを当て、明るい色のスカートをはいて闊歩している。

 手に手にデパートの包みが下げられ、ずっしりと中身が詰まった綺麗な風呂敷包みが抱えている。

 今まで極力外に出なかった平田だが、帽子と襟巻と眼鏡で顔を隠しながら、人目を憚りこっそり歩いた所とは別の街かと見まがうばかりだった。

 しかも終戦後に山ほどいた、汚れたぼろぼろの衣服をまとった孤児たちや焼け出された大人、街娼たちの姿がない。

 建物も増え、街中は至る所で掘り返され、道路が新しく切られている。

 活気のある職人たちの声が響き、物売りの声も、食べ物を売る屋台も沢山出ている。

 しかも残飯交じりの食べ物ではなく、きちんと素材の分かる芋やうどんだ。

 いつの間に、街はこんなに明るくなったのだろう。

 自分が下ばかり向いて、世間から隠れて生きている間に、日本はすっかり「平和」とやらになっていたのか。

 ふらふらと春の色香に酔った気分になりながら、先日来たばかりの言問橋に足が向いた。


 この前は春の驟雨の中で、顔も上げられないほどの水鳥の大群に囲まれた中、暗い波立つ水面だけが冴え冴えと見えていた。

 だが今、鋼の欄干に手をかけて佇むと、彼の目の前を通り橋を渡っていくのは忙しげな会社員やそぞろ歩く女性達、遅刻したのか学校に急ぐ生徒たち、写生をする場所探して画板を抱えてうろつく美術学生など。

 皆晴れやかな顔だ。

 そして、眼下に広がる隅田河畔のあちこちに、おぼろに霞む薄桃色の房が風に舞っている。

 桜だ。

 空襲で焼けてしまった土手の桜が根元から芽を吹き、その若枝に花をつけているのだ。

 自分が世界から逃げ回っているうちに、世界は柔かい腕を広げて待っていてくれたのか。

 春の風が目にゴミを入れて行ったのか、涙があふれて柔かい世界の輪郭がさらにぼやけた。

 そのまま涙を流してしまうと世界も一緒に流れて行ってしまいそうな気がして、平田は慌てて手の甲で拭った。

 だが、ふと真面目な顔になると、手すりを掴む腕に力を入れて、片足をかけ勢いよく前にのりだした。


「やめておきなさい」


 通りかかった大八車の野菜売りが、軽く一瞥をくれながら呟いた。

 ハッとして足を引っ込めると、風のように走って来た人影が、彼をがっしりと抱きとめた。


「なんでそういう事をするんですか」

「はい?」

「もうあなた、身体も治って気分も晴れた様子だったじゃないですか。なぜ死のうとするんですか」


 なぜだろう。

 生きていて良いと、世界は自分に言ってくれた気がした。

 それは間違いではなかった気がする。

 でも自分は死ななければならない気がした。

 逃げ切れずに捕まって、戦犯として処刑されていった軍人・軍属たちが呼ぶからではない。

 それは多分……


「余りに色んな事があったんです」

「それは分かります。あなたを見ていれば」

「で、大きな心配事が一つ消えて、今がホッとしているからです」

「言ってることがよく分からないわ」


 和子は意志の強そうな、形のよい太い眉をきりりと釣り上げて吐き出した。

 そうだろう。貴女にはわからないと思うよ。言うつもりもない。

 先日書き置いた遺書には、死ぬつもりだという意思と本名は書いたが、自分の過去の所業は詳しく記さなかった。


「今がとても幸せだから、幸せなうちに死にたいと思ったんです」

「そんなのないわ。幸せだったら生きていかなきゃ。せっかく戦争を生き延びたのに」


 そうだね。普通の人はそう思うだろうね。

 でも幸せの「次」が怖いんだ。自分の人生に「この次」は無い気がするんだ。


「……そうですよね。多分死にませんよ」

「多分じゃなくて絶対です」

「絶対なんてないって、戦争で学んだんですよ」


 静かな平田の声に和子ははっと身体を引いた。


 彼らは並んで帰った。

 気まずそうに黙ってしまった平田を仲見世の大学芋屋に誘いながら、和子はつぶやいた。


「前にもこんなことがありましたね」

「そうですか?」

「なかったかしら」

「大家さんと外に出て一緒に歩くなんて、初めてですよ」

「そうかなあ……」


 経木に山盛りに包んでもらった大学芋を、平田は歩きながら口に放り込んだ。


「食欲旺盛なんですね。これが素の平田さんなんだ」

「……やっと、胸に詰まることなく物が食べられる気がして」

「食べられるってのは素晴らしいんですよ」


 和子は歩みを止めずに呟いた。


 戦争はやっと終わったのかもしれない。

 二人はそれぞれの思いを、言葉にすることなく歩いた。

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