第2話  2019年4月30日からバブルの残滓へ

 数日後。平田はまたもやふらふらと、旧六区の路地裏を歩いていた。

 冴え冴えとした月が、ロックスビルや浅草ビューホテルの高層階よりさらに高く上っている。


「俺だって、やれるだけやってはいるんだよ……」


 劇場兼稽古場を出るとすぐ、花屋敷の裏手の壁にぶち当たる。

 そこを真っ直ぐ壁沿いに歩けばホッピー通り。

 昼から煮込みや串揚げの匂いが立ち込め、競馬の開催日ともなれば、近くの場外馬券売り場から押し寄せたおっさんたちが歩けないほどに詰めかけて、一本キュウリや煮込み、ホッピーで、夢を見ては失っている通りだ。

 だがこの平日の夜も、観光客のほぼ来ない浅草寺の裏~国際通りにかけては、地元民や近所で働く人たちの縄張りになる。

 ちょっと飲んで帰ろうか。

 でも庶民的な顔をして、このへんの古びた店は、表の観光客のひしめく雷門通りや浅草通りのチェーン店よりずっと高いと、ニューカマーではない平田は知っていた。

 さらに歩いて地下鉄線の改札に通じる浅草松屋の地下、浅草地下商店街の本当に地元民のための居酒屋群の方がずっと安くて気楽だ。

 だが六区に構えた事務所経営の劇場は、奥浅草の振興のために貢献すると鳴り物入りで建てたカフェ、舞台、ホテルの複合施設である。

 出演者の末席を汚す身として平田にもささやかなプライドはあった。

 地元の人間でも浅草芸人でもないが、そっちには行かねぇ。

 集団ダンスでの体のキレの悪さを演出から叱られ、ついでに来期の契約更新の打ち切りをも劇場プロデューサーからほのめかされ、平田はくさくさした気分だった。


 煮込み、馬刺し、鯨のハリハリ鍋。粉もんは出汁の効いたもんじゃにお好み焼き、広島人の前で「広島焼き」というと叱られる、キャベツと焼きそばのたっぷり入ったタイプに明石焼き。

 様々な匂いが、心身ともに疲れ切り、泥の中を両手でかいて進んでいるような平田の気分を誘った。

 確かに感情が麻痺してしまう程に空腹ではある。


「たこ焼きでも食ってくか……お好み焼きでもいいや」


 様々な食べ物の匂いが、店から出てきた客の背広からもコートからも立ち上り、程よく酒が回り機嫌よくしゃべる口許からは、ビールやらホッピーやらサワーやら、そして熱燗の焼酎や日本酒の匂いが放たれて、平田の空腹感を揺さぶった。

 何か食べれば、お腹の中から温まれば気分も変わるに違いない。こんなに暗い気分で、もう俺は駄目だと言問橋から飛び込みたくなるほどに滅入っているのは、空腹のためにも違いない。


 劇場から一番近いのは、同じひさご通り商店街の中にある、たこ焼居酒屋 taco.44(たこよし)だ。

 商店街がひさご通りの前身、山九通りと呼ばれていた頃からある、親子三代にわたって営業している老舗だし、とにかく地元の子供や若者相手なので安い。

 大きなタコ入りが6個で500円だし、さっぱり好み向けのポン酢味もある。大阪醤油味は400円。大阪チューハイや東京サワーも400円だ。


「あ……」


 平田は思い出した。さっき演出家とプロデューサーが、若手の劇団員を『たこよし』で奢ると誘っていたのを思い出したのだ。

 いつもおなかをすかせている少年たちは喜んでついていった。

 今頃は気まぐれな劇場の『上の人たち』に奢ってもらい、たこ焼きやサワーでいい気分になって「頑張れよ」などと背中を叩いてもらっているに違いない。

 自分が誘われなかったのは、ほぼ毎日入っているステーキ屋でのバイトで、誘っても無理だろうと思われたからだ。そう思いたい。

 今日は珍しくバイトのない日だし、予定を劇場に提出してはいたが、そんなものは上の人は見ないに決まっている。

 仮にフリーだと把握されていても、誘われたかどうかなんてわからない。

 平田は違う店に行くことにした。


 外国人客も多い観光客向けの店だが、値段も手ごろで味もしっかりした「タコまる」に行こうか。わざと古い作りにリニューアルした建物で、ローマ字メニューもある。

 外国人向けの観光案内にも載っている有名店だから、入れるかどうかわからないが、おでんもあるし、テイクアウトの受け取り口の前に、ずらっとベンチを並べたイートインコーナーもある。

 店の中が満員の時は、そこに座り込んで食べている観光客の姿をよく見る。

 だが今日は材料切れとの札がかかり、閉店のシャッターが閉まっていた。

 もう帰って、下宿の近くのコンビニでなんか買うことにしようかな。

 平田がそう諦めかけて、六区のいっぷく通りを通り角を曲がったところで、見慣れない暖簾のかかった粉もん屋を見つけた。

 いい具合に煤け、上がり待ちも格子戸も昭和の高度成長期に建てられたような、そのくらいの年代を感じさせる燻され具合だ。

 一瞬、歩きに歩いて菊水通りの老舗『染太郎』に来てしまったのかと思ったが、そんなはずはない。


「おい、何をぼっと立ってるんだ。ぶつかりそうになったじゃないか」

「いくぞ。色々あるのは分かるが、嫌なことは飲んで忘れよう」


 コートに背広の中年の男が両側から平田の肩を叩き、からからと格子を開けて店に入って行った。

 中からラードとソースと、だしとおかかの匂いがする。


「いらっしゃいませ」


 艶やかな女将の低い声がとんできた。

 平田は自分も、仕立ての良いウールの三つ揃いに磨き上げた靴、ワックスですっきりと整えた短髪のサラリーマンになっているのに気がついた。

 だがそれに何の違和感も感じず


「すまんすまん。部長にガツンと言われたのがまだ尾を引いているんだな、情けない」


 と苦笑しながら店に入って行った。


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