観音裏の迷宮
南 伽耶子
第1話 2019年4月 浅草六区の劇場で
「あのさあ平田君さあ」
ぶっきらぼうな、だが妙に間延びした劇場スタッフの口調が耳につく。こういう時は自覚する以上に苛々しているのだ。
「はい……」
平田成典は立ち稽古で流した汗を拭きながら、振り返った。
楽屋と通路の間に置いてある鏡に、足早に舞台裏に戻っていく若者たちが写っている。
自分と同じ、汗で体に張り付いたTシャツに、高校生のようなジャージのズボン、スニーカーや地下足袋履きの者もいる。
舞台上での足さばきがより良いのだというのがそいつの主張だ。
なるほど一理ある。
役者は舞台上での立ち位置を掴み、自分が何者で何をしたいのか、主演のスターさんとの関わりは何か、短時間で客に分からせる必要がある。
だが今、所属する劇団のマネージャーは、自分を袖の隅っこに呼んでいる。
なんだろう、大体見当はつくけど。
「平田君、今度の公演のチケットの件なんだけど……」
ほらきた。
「はい……」
「もうちょっと、もう一息も二息も頑張ってもらえないかなあ。大々的にメディアで宣伝してるわけじゃないから、どうしても出演者の動員力に頼らないといけないのよ。それは分かってるよね」
「はい」
「だよね。もう若手ってわけじゃないんだから。だから頑張って。人より何倍も頑張って売って。バイト先とか、家族親戚とか友達とか」
「はい……」
「はっきり言って平田君だけチケットの売り上げがダントツ悪いのよ。結構足を引っ張ってるっちゃ引っ張ってるから、そこの所ちゃんと認識して。じゃそれだけ。明日も頑張って」
お疲れーと言いながら、マネージャーは他の若手役者が集う楽屋に入って行った。
平田は、続いて入ったものかどうかためらいながら、結局トイレで顔を洗い、手と頸筋の汗を拭き、自販機の脇で一息つくことにした。
やれやれ……
平田成典は一応若手の範疇に入る役者だ。そうは言っても、高校生も在籍している事務所の中、とりたててフレッシュというわけではない。
年齢的には中堅に入るが、芝居のプログラムの席次は、その他大勢の段の最後尾から4・5人目という、微妙に「ともしび」的な立ち位置だ。
「家族や親戚って言ってもなあ……」
もう楽屋の皆も帰っただろう。そう踏んだ彼は20分後、楽屋で着替え軽く掃除をしたあと、警備のおっちゃんに鍵を返した。
「まだ残ってたの。他の子達と一緒にマネージャーさんも帰っちゃったよ」
「ああ、いいっす。分かってます。自分用事があって残ってたんで」
それじゃ失礼します。
平田成典は軽く頭を下げて警備員に挨拶をした。
「今日も例の店でバイト? 給料出たから、俺も後で行くかもしんねえわ」
「お、いいっすね。お待ちしてまーす」
平田に東京の知り合いはいない。実家は長野県の伊那谷だし、役者になるために大学を中退した息子を快く思っていない。彼自身もそれはよく分かっている。
だから家の敷居はとてつもなく高く、もう3年は帰っていないし、電話もメールもラインもしていない。
たまに、事前連絡なく、家で作った米や味噌や野菜が送りつけられるが、公演準備や稽古でくたくたになって荷ほどきを怠けていると、母手作りのタッパーに入ったおかずや保存食・野菜は腐ってしまう。そんな状況なのだ。
バイト先の仲間と言っても、自分は一番下っ端だし、初めのうちこそ義理で一番安いチケットを買ってきてくれたが、そう何度もは頼めない。
彼のバイト先は、劇場兼稽古場から歩いて5分もかからない、言問通りに面したステーキ屋だ。
オーナーは元プロレスラーで、鉄条網電流爆破流血無制限デスマッチとか、随分無茶な興業をこなしてきたらしく、常駐する墨田区の本店には今も当時のファンたちが大挙して来る。
平田が勤める浅草六区店も、店員がほぼ全員元格闘家やボディービルダー、アスリートだし、来店する客も近くのボディービルジムのスタッフや客で、総員マッチョ状態だ。
壁にはプロレスや空手、テコンドーの試合の告知ポスター、ボディービルジムの宣伝が貼られ、まずその体形で「肉を食え」と圧をかけてくる。
賄いの食事つきというのが決め手で、劇場にほど近いこの店にバイト先を決めた平田だが、筋肉アップアップ状態のステーキ屋において、身長175センチ、体重55キロ、体脂肪率8パーセントでがりがりの彼は明らかに浮いていた。
常連客からはモヤシくんとかゴボウくんと呼ばれているが、それは仕方のない事だ。
初めは重いカレーソースの鍋や、ハンバーグ用のひき肉満載ボウル、スープ用の巨大寸胴鍋を持つたびに、ふらついて床にぶちまけそうになったが、勤め続けているうち、次第に腰も座り力もつき、重いものを持っても体の芯がぶれないようになってきた。
自分達の指導と賄いで食わせる赤身肉とハンバーグの成果だと、マッチョな店員たちは喜んで褒めてくれる。
良好な人間関係と言える。
だがその好意に甘えて舞台のノルマチケットを押し付け、関係を壊したくはない。
せめて芝居のポスターを貼らせてもらい、一枚か二枚、よくて三枚、ささやかにチケットを買ってもらえば御の字だ。
『この店で鍛えた足腰が、いつか芝居に役立てばいいな』
自分の所属する劇団の芝居には、殺陣や軽業、舞台から降りて客席を走り回るなど、素早く腰の入った動きを要求されるのだ。
劇団の最年少は15歳の高校一年生の少年。しかもその他にも、ストリートダンスの大会で優勝したり、新体操で中学優勝の記録を持っていたりと優秀な子達ばかりが集まっている。
フレッシュで身体能力の高い後輩たちと対抗するには、自分は大人の演技、深みのある表現で勝負するしかない。
そう思ってはいても今イチ『大根』が抜けず、時に舞台上で目が泳いでしまい、共演のスターさんのタイミングに合わせられず、皮肉を言われたり出番を減らされたりしてしまう。
テレビや映画、モデルなど仕事のオーディションも落ち続けだ。
『才能ないから、努力も空回りなのかな、俺……』
そんな考えを打ち消すように頭を振りながら、平田はバイト先の店めがけて走った。
旧公園区の中でもひときわ人通りの少ない花屋敷の裏、そして観音裏の外国人観光客向けホステル、地元で働く男達や、売れない喜劇人しか来ないようなスナックや居酒屋、お好み焼き屋を横目に見て走る。
ひさご通りから脇に伸びる小路との十字路で、彼は路に転がる大きなものに躓いて転びそうになった。
危ねえ。
初めは業務用の黒いごみ袋かと思ったが、薄墨色の夕闇の間から、それはズタボロの上着を何枚もまとった浮浪者だと分かった。
しかも埃か乾いた泥か、地の色か区別もつかないほど汚れた鼠色の服を着た、生きるごみのような姿の老婆だ。
「あぶねえじゃん、婆さん」
いつもなら無視して通り過ぎるところだが、全力で走ってきたため入店予定時間まで余裕がある。平田は珍しく浮浪者の老婆に声をかけた。
「言問通り渡ってさ、土手沿いの公園に行くとボランティア団体が炊き出ししてるよ。アンタみたいな年寄りや病気のアーバンをシェルターに入れてくれる団体もあるっていうから、そんなとこ寝てないで行ってみなよ」
そろそろ開店準備にかかる店の主人や女将さんが暖簾を掛けに外に出て、迷惑そうに老婆を睨みつける。
夜の繁華街の中では浮浪者は視界にあってはならない存在なのだ。
閉店後の、ネオンが消え闇が支配する時間まで、どこかへ身を隠していなければならない。
それが、終戦後の孤児や家のない者が辿ってきた浅草の倣いだ。
老婆は低い呪詛のようなうめき声をあげて、ごろりと転がった。
「……」
「え、何? 俺もうバイト行くんだけど」
「……同じだよ」
「なに?」
いい加減面倒になったので走り去ろうとする平田を、老婆は妖怪のような鋭い目で見つめていた。
皺だらけ、泥と垢の混じった黒いものがこびり付いた顔の中で、垂れ下がった瞼の下から鋭い目が睨みつけている。
「あんたも同じだよ」
「あ?」
「あんたもあたしと同じ道を辿ることになるんだよ」
平田はカチンときた。こんな婆は毎日何人も目にする。この街だけでなく東京の風物詩と言える、大勢の浮浪者の一人にすぎない。
たまたま自分がつまずいて蹴ってしまったので、痛かったろうと情をかけてやっただけだ。
それ以上でもそれ以下でもない。袖も擦り合うも、というがそんな御縁も無い。
臭えなあもう、と今さら気づいたようにつぶやくと、平田は急いで走り出した。
バイト先のステーキ屋まではもう目と鼻の先だ。
目の前にバスの行き交う広い言問通りと、その対面の演芸場『雷5656会館』が見える。
そして信号のある横断歩道の手前、コンビニ隣に電飾とポスターと看板で賑やかな外観の店に、「おはようございます」と飛び込もう。
そして怒涛のアルバイトタイムをこなすのだ。
その時、うなりを上げて言問通りを疾走する集団があった。
白と黒の、何台ものパトカーだ。赤灯を回しながら、けたたましいサイレンの音と共に集団で疾走していく。
夕方の歩道を行き交う人びとも、何事かと目をむいて見送る。
ところがパトカーは言問橋の向こうから、何台も何台も続けてやって来ては、全力で通り過ぎていく。
何か事件かね。
殺人事件とか?
いや、立てこもりとかあるんじゃね?
人々のざわめきを聞きながら、平田は幻惑するように眩く回転する赤灯の光線と、近付いては遠ざかる大音量のサイレンとで頭がくらくらとした。
俺、疲れてるのかな。これから夜中までバイトなのに。
平田は再び頭を振って店に入ろうとした。
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