第31話

「おめでとう千春」

 千春が大学を卒業して大学院に入学することが決定した。これからスクールカウンセラーになるために臨床心理士の資格がとれるところを志望したのだ。

 対する亮はというと。仕事はつらいこともあるが比較的順調で彼女の進学を喜んでいた。

「これで一区切りつくことになるな」

「亮誉めてくれるの? こんなこと久しぶりね。嬉しい」

 働き始めたころから同棲を続けていたが彼女への思いが変わることはない。日々愛しい千春のそばにいられることはつらいことを乗り越えた今だからこそありがたい。

「そういえばお母さんから差し入れがあったの」

「いつも悪いな。気を使わせて」

 彼女は厳しい両親との仲も戻りつつあった。少しばかり距離をおいたことで互いの感情の行き違いもなくなったようだ。ただこればかりは本当にうまくいくか不安もあった。亮のことを千春の相手として本当に認めてもらうには自分が頼りになる人間であることを証明しないと、と思いがむしゃらに働いた。

「あのさ、そろそろ真面目な話をしようと思うんだけど」

「なに? 」

 嬉しそうにほほえむ彼女が眩しくて思わず目を眇める。桜の花びらがはらりと落ちていき彼女の方に一枚花弁が残ったのが目に入った。

「千春も無事に大学卒業できたし、あと二年で臨床心理士の資格をとるだろう」

「うん」

「だから俺たち結婚しないか」

 本当ならプロポーズは高級なホテルで優雅にディナーをしてからと考えていたが不意に思いがけないタイミングで言いたくなった。卒業式の袴姿も、入学のスーツも見て安堵したのだろうか。自分でもわからなかった。

 二人はまだ二十三歳とまだ若い。だけれどももうお互い以外の相手は考えられないでいた。

「なんでこんなときに言うかなあ」

 千春は困ったように笑う。それも少しはにかみながら。

「私だって一人立ちしてから告白するつもりだったのに」

「だってこれが一つの節目だろう」

 大学院卒業まで待つのは少しばかり長い。もうすでに二年以上同棲しているのだから。

「お義父さん、お義母さんには俺から話をするつもりだから」

 これでも待ったつもりだと亮は笑う。

「本当ならすぐにでも結婚したかった。だって俺は千春のそばにいたいから」

「今でもそばにいるじゃない」

「そういう意味じゃなくて」

 本当の意味で一緒になるということを言いたいのだが言葉がうまく見つからない。

「わかってるよ。私だって亮の隣が一番いい」

 彼女はふふっと笑って桜並木を駆け出す。

「ちょっと待ってくれよ」

「待たないよお」

 ヒールで走り出すと転ばないか心配だったが彼女は器用に足を進める。

「今日は最高の一日」

「なんで」

「だって私たち結婚するんだよ」

 結婚。ずっと意識していたものが近づいていく気がしてくる。

 あの日。千春の両親に頭を下げてから。

「まさか俺もこんな日が来るとは思わなかった」

 自分自身の不運をずっと嘆いている日々に比べずっと前向きになれた気がする。幸せというものが実感をもって目の前にあるのがわかる。

 あのとき大人になったとは名ばかりで実際はなにも考えていないただの子供だったころ。記憶を失った彼女がやってきた。最初は疑っていてばかりだったけど二人で過ごす日々は楽しくてずっと続けばいいのにと思うようになった。その後兄の彰と喧嘩をして怪我をして自分の身になにが起きるかわからないことを実感してなげやりだった自分の人生を考えるようになった。

「俺は幸せ者だよ。ありがとう千春」

 少しばかり涙ぐむのが目に入って慌てて駆け寄る。

「大丈夫か? どこかいたいのか」

「違うよ亮。ちょっと嬉しくて泣いてた。嬉し泣きってあるんだね」

 ほんの一足先を歩いていると思った彼女が立ち止まった。

「私こんなに幸せでいいのかな」

 それは怪我を負わせてしまった男性に対する後悔の念だった。

 兄の彰と二人で自動車を運転している最中に起きた事件だった。犯人は兄の彰とはいえ彼女も責任を感じていた。

 だから今でも彼女はバイトをして少しずつではあるが見舞金として納めている。

 兄の彰も支払い続けているらしい。兄とは相変わらずで顔を合わせれば喧嘩ばかりだが前よりは歩み寄れた気もしている。それが彼なりの譲歩なのかもしれないが。

「和田さんももういいと言ってくれてるんだろう? 」

 被害者の男性である彼も再就職を果たし見舞金はいいと言っている。彼なりに折り合いがついたということだろう。

 あのとき謝罪をしたことで最初は受け入れがたい様子だったが徐々に気持ちの変化が現れたようだ。

「そういってもらえると救われるよ」

 心に引っ掛かっていたものがなくなったのか彼女はほっとした様子だった。

「和田さんも新しい生活が始まったって言ってたから。家族ともうまくいっているみたいだしもういいってさ」

 事件に関係ない自分がしゃしゃり出るのもいけないかと思っていたがそうではなかったようだ。

 彼はどういう訳か亮のことを気に入ってくれた。

 そのことがきっかけでたまに酒を酌み交わすようになった。

 亮自身は父とは不仲なので年上の和田と話すのは新鮮で楽しいこともあり式には参加しないが祝電を送らせてもらってもいいかと冗談半分に聞かれた。

「結婚するなら俺も職場の上司に相談しないとな」

「亮、早速私より早く準備してる……」

 ちょっと呆れたような、でも少し嬉しそうな声色で千春はぼやく。

「もういきなりすぎるよ」

「でも俺たちだって早く認めてもらいたいだろう」

「そうだけど。それとこれとは違うかも……」

 スーツ姿の彼女の手を引き駅までの道を二人で歩く。こうしてこの桜並木を見れるのもあと数回だ。亮は心のうちでこの情景を忘れないように目に焼き付けるように誓った。

「じゃあ行こうか」

 勢いづいてすぐさま彼女の実家に向かう。近いようで遠い家はたまにいくと緊張するが改めて顔を合わせるとならば乗り越えなければと思うのだ。

「もう急いだって今さら変わらないよ」

 今まで彼女に引っ張ってもらった分、今度は自分が彼女を支えられるような人間にならなければと思うがたまに主導権を握らせてもらってもいいだろう。

 春めいた街に二人の男女が仲睦まじく会話をしているのはほほえましいのか笑顔を向けられる。

 その笑顔に対して笑い返すと気恥ずかしそうに千春がうつむく。

「もう……最近堂々としているよね」

 照れ隠しなのかポカポカと叩かれるがあまり痛くはない。手加減しているのだろう。

「そうだよ。俺はもう負けたくないから」

 結婚するとなれば新しい家庭を築くことになる。いずれは自分の子供も。

 それは楽しみであり、同時に不安もあった。

 果たして自分が真っ当な夫として親として生きていけるのだろうかと。

 だけど千春のそばにいると大丈夫な気がしてくるから不思議だ。

「亮はもう十分強いよ。覚悟をしなきゃいけないのは私の方」

 両親の好意に甘えて今の生活があるのだと感じているのだろう。大学院まで行くことにも経済的な負担もあったはずだ。

 彼女なりに頭を下げてアルバイト代も稼いで勉強もして。決して楽な時間ではなかっただろう。

 それでも千春が前に進んでいるのは嬉しかった。

「そうだな。俺たち二人で生きていくってことだからな」

 結婚するという夢のような現実が訪れることに亮は一人うなずく。

「私たち二人なら大丈夫。そう信じてるから」

 ぎゅっと強く手を握り返される。それが答えなのだろう。

「挨拶、失敗しないといいけどな」

「急に弱気になってどうしたの? 」

 二度目の告白は上手くいくだろうか。不安はあれど一度経験したことだ。二度めもきっと上手くいくだろう。

「ほら行くよっ」

 駅のホームまで駆け上がると電車がちょうどやって来る。

「今から行って話したら、明日院のガイダンスがあるから」

「少し気が早かったかも」

「でも男に二言はないんでしょ? 」

 楽しそうに彼女は聞いてくる。

「確かに」

 そうして二人の春は始まった。

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