第30話

千春の父から餞別だ、とワインのボトルを手渡された。

「安いやつだが今日は感謝の気持ちを伝えたいと思ってな」

「ありがとうございます」

 安いといってもそれなりの値段がするものだろう。亮は頭を下げつつ彼に感謝した。

「それってお父さんが大事にしていたものでしょう」

千春はなにかに気がついたように呟く。

「二人はもう二十歳だろう。たまには酒を酌み交わすのもいいだろう」

 今日の一件でお互い成長できた気がした。謝罪するだけではなく一歩前に進めた、そんな気がした。

「お父さん、お母さん今までありがとう」

「急にどうした。私たちのことならもう気にしなくていい」

 ただこれから大学に復学することを考えないとな、と告げる。

「そうだね。私の夢だったもんね。これから頑張らなきゃ」

 心理カウンセラーになることを目標にしていた彼女のことだ。なるべく早く復帰したいだろう。確かに噂は残っているだろうが時間がたてば忘れられてしまうだろう。

 それに彼女のことだ。それより勉強に集中していくことだろう。

「亮、今日はアパートに戻ろうか」

「ああそうだな」

 あのアパートで過ごす時間も残りあとわずかだ。就職先を探して地元に戻る。以前の自分なら信じられないことだったが周囲の人々の言葉があって今があるのだと実感した。

「千春さんと一緒にいること、許してもらってありがとうございます」

「いや、感謝をするのは私の方だ」

 今まで子供の気持ちをないがしろにして厳しくしていたからなと呟く。

「清水君がいなければ私たちも平行線だっただろう。相手の気持ちも思いやられずに」

 それは事件の被害者に対しても、自分の身内に対してもということだろう。

 お互い変われたのならよかった。

「と長く引き留めすぎたな。今晩はこのワインでも飲んでくれ。少しばかりの気持ちだ」

 千春の父がそう告げると玄関に向かう。

「この娘を頼みます」

 千春の母も同じように笑う。彼女もどこか落ち着きを取り戻していて以前の様子とはまったく違っていた。

「こちらこそよろしくお願いします」

 ずっと反対されてきたから千春の母にこうして頼まれるのは意外だった。改めて自分達の関係が認められて少しだけほっとした。

「ではお邪魔しました」

「また戻ってくるから」

 玄関で別れを告げ、そのまま駅に向かう。片手にはずっしりと重いワインの入った袋がある。

「今日は亮がいてくれてよかった。私一人だったら怖じ気づいてなにもできなかったはずだから」

「そんなことないよ。君が勇気を出したからこうして話ができたんだ」

 すべて千春が言い出したことだ。それを思うだけでなく行動に移すことができたのは彼女の強さだ。

「ねえ手、繋いでもいい? 」

 そういうとそっと手を重ねる。小さくて白い手を握るとどこか暖かい気持ちになる。

「家に帰ったらワイン開けよう」

 普段立派な酒を飲むことはなかなかないので少しだけ背伸びした気分になる。安酒ではないことから千春の父の気持ちを察することができる。

「そういえばワイングラスうちにあるんだ」

 なぜだか貰い物のグラスがあった。質素な暮らしをしている亮には不釣り合いなものだと思っていたが今日という日にはありがたい。

「うん。一緒に飲もう。なんだか眠たくなってきた」

「疲れたんだろう」

 皆が緊張していた。空気が張り詰めて誰が何をするかわからない状況でよくやってくれたと思う。

 こくんこくんと舟をこぎ始めた彼女がかわいくて頭をそっと撫でる。

 緊張がとれて今までの疲れが出てきたのだろう。

「ってもう聞いてないか」

 あのアパートの戻れば、いつもの日常が戻ってくるかもしれない。だけどこれから引っ越しや就職活動がある。それを考えるといつも通りにできる時間は残りあとわずかになってくるだろう。その一瞬一瞬を大事にしていきたいと思った。


***


「ただいま。亮、灯りつけて」

「はいはい」

 寝ぼけ眼の千春はそのあともふらふらしながら家路についた。それを横で支えながら歩くのは一苦労だった。

「もう練るか? 」

「ワイン飲みたい」

 せっかく千春の父からいただいたワインがあるのだから開けないのももったいない。つまみは冷蔵庫にあるのでそれを出して二人で飲むことにした。

「このワインはね、私が生まれた年に買ったものなんだって」

「そんな大切なものもらってよかったのか」

 年代物とはわかっていたがそこまでのものだと思うと少しばかり気が引けた。

「亮、私とワインどっちが大事なの? 」

「なんで比較対象がワインなんだ」

 そう突っ込むと千春は楽しそうに笑った。

「いいんだよ。お父さんも亮だから任せてくれたんだよ」

 これからのことも含め、信用してくれたのだと思うと素直に嬉しい。

「じゃあ飲もうか」

 ボトルの栓を開けきれいに洗ったグラスにワインを注ぐ。

 そしてグラスを千春に捧げる。

「急にどうしたの亮? 」

「こうできるのも最後かもしれないから」

「大袈裟だよ」

 そして捧げたワイングラスを彼女が受けとる。その瞬間胸が高鳴った。

「乾杯。こうしてお酒飲むのって久しぶり」

「俺も」

 口一杯に豊かなぶどう酒の香りと大人っぽい渋みが広がる。二十歳になったばかりの頃にはバカのように飲んで織いたがこうして少しずつ楽しむ感覚も悪くない。

「お父さんもお母さんも私たちのこと認めてくれたね」

「ああ。本当によかった」

 謝罪するために行ったとはいえ最終的に自分達の関係を認めてくれたのはよかった。

「これから俺は就職活動、君は復学か」

 ここ数ヵ月のことだがあっという間に感じられた。記憶喪失といわれたの時は驚いたが記憶が戻り事件の全容がわかった時はさらに驚いた。そのことに兄の彰がかかわっていたのは心苦しかったが彼も償いをしていく気持ちはあるのだろう。

「忙しくなるけど大事な時期になるだろうからな」

 なんとなく就職活動もうまくいく気がした。アルバイトの生活に満足していたこともあったが不規則で不安定な職場だという自覚もあった。地元での生活がうまくいくように願うばかりだ。

「亮、今までありがとう。私一人だったらここまで来られなかったから」

 彼女と視線が絡み合い思わず息を飲む。一秒、二秒と時間がたつのがわかり彼女の額に口付ける。

「そんな泣きそうな顔されると困る」

「これは嬉し泣きです」

 眦に涙を浮かべている彼女がきれいで亮は困ったように笑う。

「これからのこと不安もあるだろうけど一緒に頑張っていこう」

「うん」

 今までの不安がなくなったことに千春も気が緩んだのだろう。ぽたりと涙が落ちてくる。

 再びグラスにワインを注ぐ。

「本当は俺の方が感謝したいくらいだ。今までありがとな」

 彼女の頭を撫でてそっと抱き寄せる。うでのなかの彼女は華奢で折れてしまいそうなほどだった。

 だけど彼女だって弱い人間ではない。一人の強い意思を持った女性だ。


「俺は君のそばにいたい。ずっとずっと」


 そうやって夜は更けるのであった。


***


 千春が復学した頃、亮は会社の研修に参加していた。就職活動は想定通りというか色々と大変で最後までうまく行かないのではないかという不安はあった。


 だが最終的にOA機器の販売会社に採用された。そして今に至るのだ。


 千春の方は飯田と楽しくやってるらしい。授業の遅れはあるが彼女はついていけているので問題はないらしい。

 ただ卒業にはプラス一年必要ということもあり追い込みすぎないほうがいいだろう。


 兄の彰は時おり連絡を寄越したまに顔を合わせる程度だ。どうやら飯田に気があるらしくどう誘うか考えあぐねているらしい。通りでおとなしかったのかと一人合点した。


 愛川家のところにも変化があったらしく父と母の力関係が知らず知らずのうちに変わっていた。母親も思い悩んだ姿はなく吹っ切れたようでてきぱきと家を切り盛りしている。


 そんな母を父は静かに受け止めていて喧嘩にはならないようだった。


「清水、考え事か? 」


 グループワークの仲間たちが気遣わしげにこちらに視線を送ってくる。


「あっ今彼女のこと考えてただろう」

「違うって」


 本当はそうだったがあとでからかわれるのが嫌でごまかしていると周囲が笑う。


「かわいい彼女のことで頭が一杯なのはいいけど作業に手を貸してくれ」

「悪いな」


 亮は笑みをこぼしていることに気がつかなかったが周囲はそれを指摘しなかった。

 相変わらず恋愛しているな、というのが彼らの感想だったからだ。


 春の穏やかな風が吹いてくる。

 それぞれの新たな一歩を祝福しながら。

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