第27話

 緊張すること三十分ばかり亮たちは言葉少なだった。まもなくして弁護士の二人がやってきて広い客間には愛川家の家族と清水家の兄弟が揃いお互い様子をうかがい被害者の男性が来るのを待っていた。


「和田さんがいらっしゃいました」


 愛川家の運転手が被害者の男性こと和田氏を迎えにいっていたらしい。お手伝いさんの一人がそう告げた。


 その言葉に周囲の空気がさらに張り詰めたものに変わる。


「いらっしゃったようだな。千春、迎えに行きなさい」

「……うん」


 おそらく被害者の男性はからだの不自由があるからだという理由らしい。亮は僕もいいですかと尋ねると千春の父はうなずいた。彰の方はというと複雑そうな顔のまま身動きひとつとらない。


「お加減はいかがですか」

「あなた達がそれを言うのか皮肉なものだな」


 運転手と千春に支えられた男性はどこかくたびれた顔でそう答える。


「と、君は初めて見る顔だね。いったいどういう関係で? 」

「彰の弟といえばわかると思います」

「ああ。事故を起こした張本人か」


 ぽつりと呟く姿はどこか疲れていて彼の生活がうまくいっていないことを示す。


「清水だったか。彼は今どうしているのかい」

「客間で控えております」


 亮がそう答えると男性はははっと笑いノロノロと玄関に上がる。


「進めそうですか」

「もうちょっと力をいれて持ち上げてくれ」


 どうやら足を怪我しているらしく事故の後遺症でうまく動かせないようだった。


 たしか仕事も続けられなくなったそうだと聞いている。


 事故を起こした兄の彰、それを止められなかった千春、示談で揉み消した千春の両親はどういう気持ちでいるのだろう。


 事件の当事者たちが揃って謝罪する。それで本当にすべてが解決するのだろうか。


「ありがとう。客間はこの奥だったかな」

「はい。一緒に行きましょう」


 男性を支えながら歩くとゆっくりとだが前に進んでいく。


 一歩二歩と客間に近づく瞬間、千春も緊張しているのが目に入った。

 彼女はなにか声をかけようとしたがなにかを躊躇って黙りこんだ。


 彼女の背を優しくポンポンと叩くと少しだけ安心した息づかいが聞こえる。


「和田さんがいらっしゃいました」

「どうぞお掛けください」


 どっしりと構えた千春の父が立ち上がり席まで連れていこうとする。

 だが。


「どうぞお構い無く。あなたのお嬢さんと彼がしてくれるので」


 さしのべた手をにべもなく跳ね返されてしまった。

 これは手強い相手になりそうだと内心思ったが男性が座りやすいように角度を調整する。


「ありがとう」


 男性は努めて冷静に振る舞っていたがやはり事件の当事者を前にして平静を保つのは難しかったらしい。からだが震えていた。


「それで私をわざわざ呼んでまで何がしたいのですか。示談金は支払ってもらいましたし私からは文句を言うことはあってもあなた達からなにか動くと言うことは今までなかったので」


「その件に関してですが本当に私の不徳の致す限りでございます。申し訳ありませんでした」


 プライドの高そうな千春の父が頭を下げている。その様子に周囲は驚いていた。特に愛川家の一同が。


「今謝られたってなにも戻っては来ません。あなた達の気分がよくなるだけでしょう」


 男性は嫌みっぽくそう呟く。おそらく事故から時間が過ぎ遅すぎた謝罪に心のそこから受け入れられる気分ではないのだろう。


「それに私がほしいのはそんな上っ面の謝罪ではありません。誠意を見せるなら他にやることがあるでしょう」


 語気を荒げきっと彰をにらむ。


「そこにいる事件の犯人ですよ。ぼんやり座ってるだけであとは他の人が解決してくれるとでも思ってるんですか。私はあなたのその態度が気にくわないんですよ」


 その言葉に彰の顔が苦しげに歪む。


「最初のうちは全く悪びれもなく反省もせずへらへらしていたのもずいぶんと腹が立ったが、初犯だったから見逃されて納得なんていってませんよ。それに同乗していた方は記憶がないなんて下手な嘘をつくのもやめていただきたかった。特に彼女のせいで事件の立件が難しくなったんですよ」


 弁護士達は彼が今にも殴りかかろうという勢いで話しているのをじっと様子をうかがっている。


「和田さん、それは示談で言わない約束だったはずです」

「はっ。金で解決か。本当にそれでいいのか私にはわかりませんね」


 我慢ならず愛川家の雇った弁護士が口を挟む。だがそれは男性の怒りを余計に買っただけのようだった。


「私はこんな身体になって仕事も続けられなくなった。まだ保険が降りているうちはマシだがこれから金も尽き仕事も探せないと来れば家族も養っていけないんですよ」


 つまり彼の生活は行き詰まっているということだった。改めて事件の大きさを実感させられた。


「和田さん、本当に申し訳のないことをしました……」


 たまりかねて千春が男性に謝罪する。


「あなたは記憶がないんじゃなかったのか? 」


 その言葉に千春はぐっと堪える。本当に記憶が戻ったことを正直に言うことがいいのかはわからなかった。


「医者の診断では記憶がないとのことでしたが……ごく最近記憶を取り戻しました」

「そうか」


 震えながらそう答える千春に男性は複雑そうな顔をした。


「皮肉なものだな。あなたが記憶を取り戻してようやく言いたいことが言えるようになったとは」


 それは事件の当事者が全員揃ったことだろうか。千春が勇気を出して始めたことだというのはなんとなく男性にもわかっているらしい。


「なにも言わない人間相手には何をいっても無駄か」


 暗に彰が黙っていることを指摘する。彼にとっては一番許せない相手だろう。


「……事件を起こし取り返しのつかないことをしてしまったこと心よりお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした」


「私が聞きたいのはそんな言葉じゃない」


 男性はテーブルを叩き怒りを露にする。


「あの日あなたはどんな思いで事件を起こしたんだ。面白半分か。それともなんだ。ムシャクシャしてやったとでも言うのか。なあはっきり言うんだ」


「あのときは申し訳ないことをいたしました。許してくださいとは言いません。ただ……」

「ただなんだ」


 低い声で男性は彰に怒鳴る。だが彰はいつものいい加減で捨て鉢な態度ではなく真面目表情で男性を見つめていた。


「あなたに謝罪する方法をこれ以外知りません。誠意というならお金くらいしかありません。それも愛川家ほどの額も持ち合わせていません」


 まるで人が変わったような口ぶりで周囲は驚いていた。


「申し訳……ありませんでした」


 彰は額を床に擦り付け土下座していた。それを見て愛川家の人間も千春も亮も頭を下げる。


「……なぜ今それなんだ」


 どこか納得のいかない表情だったが男性は悔しそうに唇を噛む。


「それをもっと早くやっていれば私だってこんなみっともない真似しなかったさ。どうしてこんなあとになってあんた達が頭を下げるんだ。恨まれてないとでも思っていたんですか」


 私の人生めちゃくちゃだとため息をつく。


「事故を起こした相手は無罪放免、同乗者の証言も得られず、その家族からは示談を押し付けられる。それをなんとも思っていないと信じていたはずなのに」


 どうして今になって謝るのかと彼は涙をこぼす。


「これから私はどうやって生きればいいんだ。家族からは遠巻きにされるし酒に逃げようとすれば疎んじられる。なあどうすればいいんだよ」


 歯を喰いしばり恨みがましい目で見上げられる。


「くそ動かないんだ。この脚が」


 自分で自分の脚を叩きはじめる。


「くそっくそっ」

「やめてくださいっ」


 必死になって亮が彼を止める。これ以上は見ていられない。


「どうして。君が? 」

「もうやめてください。これ以上やったら傷に障ります」

「でも、君は彼らと無関係だろう」


 どこか戸惑ったような表情だった。


「僕も完全に無関係とは言えません。ただこのような悲しい事態になってしまったことを黙って見ていられなくて」

「そうか……」


 亮に止められて男性は落ち着きを取り戻した様子だった。


「君も清水の弟だから来ていたのかと思っていた。でもよく考えれば兄弟だからといって責任をとるのも違う話だな」


 彼は乾いた笑いを浮かべる。その姿が痛々しく一人でその苦しさに耐えていたのがわかる。


「ありがとう。なんだか救われた気がしたよ」


 止めてくれてありがとうと言われた。どういうことだろう。亮が男性の表情を見ようとするとその前に答えられた。


「ここまで来て謝罪されなかったら刺し違える覚悟で来たんだ。踏みとどまれたのは……どうしてだろうな」


 ずいぶんバカなことを考えたものだと男性は笑った。


「私には家族がいるしまだ働いて生きないといけない。子供もまだてのかかる頃だし立派に成人するのを待たないと」

「和田さん……」


 愛川家の両親が口を開く。


「今回の件で和田さんをひどく傷つけてしまったことを後悔しています。少しばかりの援助させてもらえないでしょうか。今はお金くらいでしかあなたを助けられませんが」


「……考えさせてください」


 そう答える男性はどこか吹っ切れた様子でもあった。


「少しずつですが慰謝料払いたいと思っています」


 彰もそうやって申し出る。あんなに強がっていた男が心を入れ換えるとは思っても見なかった。


 裁判はしない代わりに弁護士を通して支払いをすることが決まった。


 これで千春の望み通り被害者の男性に謝ることができた。その事にほっとしているのは亮だけではなかった。

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