第20話

 彼女が記憶を取り戻したのは明白だった。

 いつもの千春と違う顔つき、声色でこちらを向く。


「話がしたいって言ったけど……」


 亮はこの続きを言えないでいた。


「記憶が戻ったの。ごめんなさい」

「どうして謝るの」


 千春はどこか寂しそうに微笑んだ。


「だって私は亮が思うような人間じゃないから」

「俺が思う君ってどういうことだ」


 亮はその言葉に訝しげに尋ねる。


「あの日、事故を起こしたときのこと」

「それはあいつがしたことじゃないか」


 兄が悪いのであって千春が悪いことをしたわけではない。

 そう思っていたが。


「あの日事故を起こす一時間前かな。私が彼に運転を代わってもらったの」


 よくよく考えてみれば二人が一緒にいて片方だけが無実というのは虫がよすぎる話なのではないか。


「彼は煽り運転をはじめて止めようとしても止められなかった。いやそれは言い訳かな」


 だが神は二人を見放したようだ。


「私は事故で記憶を失って今まで実感がわかなかったけど取り返しのつかないことをしてしまったの」

「千春……」


 おそるおそる亮は彼女の肩に触れようとする。

 だが身を引かれそれは叶わなかった。


「その事故の相手は怪我をして仕事を続けられなくなった。でも私の両親は示談で解決しようとしたの」


 娘の犯した不祥事に辟易した様子だったのだろう。彼女は自分自身を抱き締め体は震えていた。


「そんなひどいことをしてしまったのに私だけなにも知らなかったのが怖いの」


 亮は言葉が出なかった。兄が煽り運転をしていたことも。それを止められなかった千春のことも。どうしていいのかわからない。


 兄の彰がそこまで屈折した男だったこともショックだったが一緒に彼女がいたというのも信じられなかった。


 いや今までのことから想像はついたはずだ。だけど考えようとしなかった。それが自分にとっての幸せだったから。


「私がなにも覚えていないのを相手方はよく思ってなくて家の前まで来ているのも何度も見ていたはずなのに……。頭を下げることもできなかった」


 ぽたりとカーペットに滴が落ちていく。それが彼女の涙だと気がついたのはしばらくしてからだった。


「なにも覚えていないのがここまで悪いことだって今になってようやく気がついた」


 おそらく事故の被害者は法的手段に出ようとしたのだろう。それを示談で解決されてもこころの奥底では納得いかなかったのだろう。


「私、なにもかも中途半端だね」


 自嘲するように笑う姿に亮は思わず抱き寄せた。


「もうなにも言わなくていいから」

「ごめん」


 うわ言のようにごめんごめんと繰り返す彼女に亮はかける言葉がなかった。

 下手に慰めてしまえば千春を傷つけてしまう気がしてただ無言で彼女を見守った。


「事故で打ち所が悪かったなんて嘘だって思われても仕方ないよね」


 おそらく両親にも信じてもらえなかったのだろう。


「警察の人にも何度も疑われて話をしたけど結局信じてもらえなかった」


 彰の方は怪我ひとつ負わなかったのだから世の中皮肉なものだ。


 だから彰は必死に千春を探していたのか。

 後になってから気がつくとは。


 自分でもおろかだと思う。


「辛うじて病院の先生だけは話を聞いてくれて診断書が下りて警察の人も深くは詮索しなくなったの」


 まさか加害者側の方が事故で記憶を失っているとは警察側もにわかには信じがたいのだろう。

 結局彰も事故を起こしたのが初めてだったということもあり事件は不起訴に終わった。


 そして示談ですべてが解決したと皆が思ったのだろう。


 だから千春のは母は彼女を外に出そうとはしなかったのだろう。

 地元で噂になっていたとなれば彼女の居場所がないから。


 でもそれが千春を追い詰めているとは気がつかなかったのだろう。


「私逃げてばかりだった。全部人任せにして肝心なところでなにもできなくて最悪だね」


 彼女にとっては苦しいことばかりだったのだろう。

 その気持ちはどこか覚えのある感覚で亮も人のことは言えない。


「このまま亮のそばにいてずっと甘えているわけにはいかないってやっぱり思ったの」


 彼女は何度も同じことを口にする。

 それが亮のためであれ彼女個人のためであれ。


「君が恐れているのは何? 」


 思わず口にしてしまった。


「怖い。何もかもが。わからないうちは見て見ぬふりをできたけどいざ思い出しちゃうと自分自身が怖いよ」


「自分自身? 」


 そう尋ねると彼女は口許を歪めた。


「だって亮がいなくなってからの私って最低だったから。亮の面影があるからって理由であの人に近づいていざ付き合い始めたら彼の恐ろしさに気がついて。それからは蟻地獄みたいにズルズルと引きずり込まれて何が正しいのかわからなくなった」


 本当ならすぐに別れればよかったのにね、と笑う。


「それができないこと自体がダメだってわかってたはずなのにね」


 そして事故を起こすまで兄と付き合っていたということか。


 そのことには嫉妬を覚えるよりも物悲しさを覚えた。

 自分がいなくなったということは最初は大したことないと思っていたが人一人にこれほどの影響を与えてしまった。


 兄のことだ。最初はまともなふりをして近づいたのだろう。

 徐々に束縛をして相手の思考を奪うなど難しいことではない。


 特に孤独を抱えた人間は簡単に引っ掛かりやすい。


「それだったら俺も君に謝らないといけないことになる」

「それは前に……」


 以前謝ったことを思い出したのだろう。


「どうしてだろう。私亮に会えたことが嬉しくて何も考えてなかった」


 記憶が戻った彼女はいつもの天真爛漫な様子ではなくどこか影のある表情をしていた。

 憂いげな瞳でこちらを見つめられると胸が締め付けられる。


「本当はどこかでわかっていたはずなのにね」


 あの明るかった彼女はどこにいったのだろう。

 そう思うほどに彼女は変わってしまった。


 これが千春の本当の姿か。


 どこか腑に落ちない気持ちだったのが納得した。


 胸の奥で感じていた違和感がなくなったのを感じる。


 記憶を失ったばかりの彼女に抱いていた猜疑心に近い感情は消えてなくなりただ心の中には千春が壊れてしまわないかという不安が訪れる。


「千春聞いてくれ」


 そういって無言で彼女を抱きしめる。


「君が自分のことをどう思っていても俺は千春のことが好きだよ」


 それだけは忘れないでほしい。


 そう耳元でささやく。


「確かに世の中どうしようもないこともあるけど君が前を向いて歩いていこうとしているのはわかるから」


 傍で見守るだけではなく共に生きていきたいと思った。


「うっうぅ」


 千春は顔を歪めただ泣き崩れていた。

 胸元で彼女の涙がこぼれるのを感じながら。


 辺りは夕焼けに包まれるのであった。

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