第15話
帰宅すると二人でほっと息をつく。
「あいつももう来なくなるんだろうな」
千春のスマホに何度もついた彼の連絡先の記録を思い出す。
「うん、そうだね」
彼女は静かにこちらを見据えてうなずく。
怒っていたと思えば急におとなしくなってどうしたんだろう。
「千春、夕飯作るから手伝って」
「わかったよ」
今日は疲れていたので簡単な食事で済ませる予定だった。
作りおきのひじきやカボチャの煮物、それに塩鮭。
理由はないが和食に統一した。
そして冷凍ごはんを解凍する。
「鮭は任せたからな」
換気扇を回してグリルで焼くこと数分。
魚が焼ける匂いがして食欲をそそる。
亮の方もあらかた準備が整ったので食卓に料理を運んでいく。
食器は買いそろえたので以前と違って無理矢理二人で分ける必要はない。
「っておい。鮭焼きすぎじゃないか」
煙がもくもくと漂ってきて不穏なものを感じる。
彼女に注意すると申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん、亮」
それはどうやら今日の事件に対してのことだったようだ。
「千春が謝ることじゃないよ。それより食べ始めよう」
黒こげになった鮭を見ながら優しく笑いかける。
一度気絶したのが悪かったのか頭がくらくらした。
(今度病院行かないとな)
一人誓って千春を招き寄せる。
「じゃあいただきます」
「……いただきます」
二人で手を合わせ食事を始める。
レンジで暖めただけの食事だったがそれでもなかなか美味しかった。
おしむらくは黒こげになった鮭。
本来であればその塩気でご飯が進むはずだが焦げてしまっているので口にするのは憚られる。
「今日は災難だったな。でもこれから彰のやつも来なくなるだろうしこれでひと安心かな」
軽口を叩きながらごはんを口に運ぶ。
気分はあまりよくなかったが食べないよりはずっといい。
「千春、今日は心配かけて悪かったな」
「謝るのは亮じゃなくて私」
どうやら責任を感じているらしい。
確かに兄の彰がやってきたのはスマホに彼が連絡してきたからだ。
「そんなことない。俺が出たからだ」
居場所を知らせてしまったのは亮が電話に出てしまったからだ。
「君が心配するようなことはなにも起こらない。だから大丈夫だよ」
「でも……」
千春は目に涙を浮かべていた。
思い出すだけで不安がよみがえったようだ。
「そうだ。今度の休みは念のため病院にいくか」
万が一ということもある。
たぶん大事にはならないと思うが。
「病院なら私も付き添う」
千春は心配そうな顔でこちらを見つめる。
「俺のことなら大丈夫だよ」
彼女の不安を払拭するようにそう呟く。
「本当に?」
じわりと眦を濡らしてこちらを見上げる。
「だって私のせいだから。亮が傷ついたのも、あの人と付き合って問題を起こしたのも。本当にごめんなさい。私が謝ることで過去が変わるわけではないってわかっているけど」
申し訳なさそうな口ぶりでそう告げる。
「俺はかえってよかったと思っているよ。俺だって昔なにも考えずに逃げてしまった。それで君をおいてけぼりにしてしまった。悪かったよ」
記憶を失う前の彼女はきっとひどく寂しい思いをしたはずだ。
「それに彰のやつだってなにか考えてやっていたはずだし」
弟の幼馴染みを奪い取ったのはその優越感を得るためか、それともただほしかったのか。亮にはわからなかった。
「君は記憶を取り戻すのをゆっくり待っていればいい」
「その記憶が戻ったらどうなるの?」
急に鋭い口調でそう尋ねられる。
「やっぱり私家に戻ろうと思うの。だってこれ以上迷惑かけられないし」
「迷惑だなんて……」
さきほどの事件で彼女も責任を感じているようだ。
ただ彼女には知っていてほしい。
亮が彼女と暮らしているのは責任感だけではなくただ千春のことが好きだから。
今まではっきりとは自覚していなかったがかつての自分もきっと恋をしていたのだろう。
やはり彼女のことが好きだ。
改めてそう感じた。
「亮のことずっと振り回していたの私だったからなあ。ふふっわがままばっかりでごめんね」
湿っぽい空気が嫌なのか彼女は今度は明るく謝る。
「あのさ、言いたいことがあるんだけど」
「なに?」
少し不安そうにこちらを見つめる姿がたまらなく可愛らしかった。
「目をつぶって」
彼女は不思議そうな顔をするが素直に言うとおりにする。
「俺さ、もっと早くにいうべきだったけれど君のことが好きだよ」
そして彼女がきゅっと唇を引き結ぶのが目にはいる。
それをちゅっと音をたてて口づける。
甘い感触がした。
「ねえ君は?」
返事が来ないと急に不安になる。
この思いを伝えるのは間違いだったのではないかと。
本当はこっちこそ迷惑なのではないかと不安なのだ。
「……きです」
か細い声で千春が答える。
目を開けると彼女は目に涙を溜めていた。
「亮のことが好き。だから嫌われる前に早く別れないとって思ったの」
千春は鼻をすすりながらもそう告げる。
「だって亮が好きなのは記憶を失う前の私でしょう。記憶を失った私は亮に迷惑かけるってわかっていたのに」
「俺はそんなことで嫌いにならないよ。それに記憶を失おうが君は君だよ」
彼女を抱き寄せて再び口づける。
重ねるだけの優しいキスだった。
「……っ」
彼女が息を飲むのがわかる。
これ以上は迫るつもりはなかった。
彼女を怯えさせるのがわかるから。
代わりに千春の頬に軽くキスをする。
「これってべーゼっていうんだってさ」
「なにそれ」
「豆知識。一つ賢くなっただろう」
頬を赤くして目をつり上げる彼女がかわいくて再び抱き締める。
「ちょっと……。苦しいって」
どこか照れたような口調で横を向く千春だった。
「ごめん。離したくない」
身体の不調はあったが千春が自分から離れると考えたらそれだけでひどく寂しかった。
彼女がそれを決意したのであれば手放すべきだと自分に言い聞かせていたが千春の涙を見て気が変わった。
何があっても千春を離したくない。
それは彼女に記憶があろうとなかろうと関係なかった。
「もう……」
千春の困ったように亮を見上げていた。
目は赤いし顔は涙で濡れているしでお互い結構めちゃくちゃだ。
「私も好きだよ……」
彼女は背伸びをして亮の頬に口づける。
「あれ?ほっぺただけ」
「ベーゼっていうんでしょう」
意趣返しとばかりに千春は得意気になる。
「余計なこと言わなければよかったかも」
「残念でした」
ふふんと鼻を鳴らす姿はいつもの彼女のままだった。
その事に安心してほっと息をつく。
「って夕飯冷めちゃったな」
冷静になると急に現実感が帯びてくる。
「暖め直すか。千春、頼んだ」
「はーい。わかりました」
甘い空気は去ってしまったがこうして二人のやり取りが続けられるのは嬉しい。
今度病院行かないとなと一人考えるのであった。
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