第10話
亮に伝えたいことがあると千春は言った。
家に着き彼女は意を決したように口を開く。
「亮ずっと前から言えなかったことがあるの。だから聞いてほしいの」
千春は懐から大切そうに手帳を取り出す。
それは過去につけていた日記だった。
「昔の私が言えなかったこと、言うね」
彼女は静かにそれだけいうと日記をパラパラとめくり出す。そこには亮と千春の二人だけが知っている過去があった。
小学生の頃放課後に一緒に遊んだ時。中学までは下校も一緒にしていた。方向は反対だったから本当は二度手間だったけど亮はそれを楽しみにしていた。
だけど中学三年のあのとき亮は見てしまったのだ。
彼女が自分の兄になにかを話しているのを。
『お兄さん、どうか……してください。お願いします』
彼女は兄と何を話していたのだろう。今となってはたいしたことではなかったのだとわかるが当時は亮は兄とは折り合いが悪く、裏切られたような気がしていた。
それから次第に距離をおくようになった。
といってもたまに一緒に食事をとることもあったが。
「日記にはこう書かれていたの。『亮が私と距離をおきだした時はすごく寂しかった。どうして急に冷たくなったのかわからなくて』って」
日記に記された文面をたんたんと読み進める。
「それでね。『この気持ちは一体なんだろうって考えたらもやもやしてきた。今までは亮といると楽しいだけだったのに冷たくされてから亮のことばかりを考えている。どうしてだろう。考えれば考えるほどわからなくなる』って」
亮がどうして急に冷たくなったのか千春には見当がつかなかったのだろう。
「『でもなにかしないと亮は離れていってしまう。だから明日亮に伝えるって決めた、自分の本当の気持ちを』と。そう書かれていたの」
そしてあのときの気持ちを告白するのだ。
「ずっと寂しかった私に光を与えてくれたのは亮だよ。今もずっとあなたのことが大事だよ」
それは今の彼女とオーバーラップするようだった。
嬉しいと思うと同時にその幸せをつかむのが怖くなった。これは昔の彼女の気持ちだ。今の彼女が本当に自分を求めているのかはわからなかった。
「こういうやり方はずるいと思われても仕方ないよね」
彼女には最近まで付き合っていた男がいる。
その存在を無視して結ばれてもいいのだろうか。
一歩二歩と彼女が近づいてくる。
そして不意に抱き締められる。
千春の細い腕が背中に添えられ思わず息をのんだ。
「ねえ懐かしい?」
「懐かしいっていうか緊張している」
自分の腕のやり場がわからないままそうとだけ返事をする。
「こうすると暖かいね」
むしろ自分の体温が相手に伝わっているのかと思うとからだが熱くなる。
「さっき君は俺のことを光だって言ったけど、君の方が俺の光だよ」
ぽつりとそう告げる。
すると彼女は不思議そうな顔をする。
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
子供の頃は前を向いて生きるのが難しかった。家事全般をこなしていたことも災いしてか家族は厄介事を持ってくる人間でしかなかったし勝手に一人で憎んでいた。
そんな暗い子供時代に光を与えてくれたのが千春だった。
無邪気に笑ってくれればどんな疲れも一瞬で吹き飛んだ。嫌なこともすぐに忘れられた。
だからなぜ過去の彼女が亮を光だというのかわからなかった。
「こんな俺でも君は好きでいてくれるのか」
それは今の彼女に向かってなのか過去の彼女に向かって放った言葉なのかわからなかった。
「俺が急に君に冷たくしたのはただの嫉妬だよ。俺は君と兄とのことを誤解していたんだ。いやただ羨ましかったのかな。俺だけが君の特別だと思っていたのにそうじゃなかったのが」
自分でもかなり子供じみた理由なのが恥ずかしかったがはっきりと彼女に伝えた。
「私と亮のお兄さんが……?」
「そう。一緒にいるのを見てさ」
その日付を確認するとパラパラとページをめくる。
「その日はね。亮の誕生日だったの」
だから祝ってあげてほしいと伝えていたらしい。
「俺完全に見当違いなこと考えてたんだな」
男同士で誕生日を祝うことなんてあまりない。
だからそんな気を使ってもらう必要はなかったのだが。
「兄にはずっといびられていたからな。あんまりいい思い出はないよ」
あとから振りかえればなんてことはなかったのかもしれないがそれも今の生活があればこそだ。
当時にはそんな余裕はなかった。
「余計なお節介焼いちゃったね」
「今わかったからいいんだよ」
そのお陰で千春の言葉が聞けたのだからいい。
互いに体が重なっているせいか胸の鼓動が早くなる。
亮は何度かためらったあと自分の腕で千春を強く抱き締める。
「ありがとう」
すると不意に涙が溢れてきた。
どんなにつらいことがあっても泣かないと決めていたのに今日だけはダメだった。
「ちょっとタンマ。今俺の顔みられたらみっともなくて死ぬ」
涙が頬を伝いポタリと床に落ちる。
「こうすれば大丈夫」
彼女は亮の胸に顔を埋め、さらに強く抱き締める。
しばらくするとその力は緩んで、とんとんと優しく背を叩いてくれる。
「私は見てないから思う存分泣いてもいいよ」
「俺ってかなりカッコ悪いかも」
「大丈夫。それは日記読んで知ってるから」
それを聞いてははっと笑う。
「どんなこと書いてあるんだ?」
「秘密」
落ち着いたのかお互いの体は離してもとの向き合う形になる。
「隠されると余計気になるな」
「みたらダメです」
大事そうに日記を握りしめる千春だった。
それを一瞬の隙をついて奪い取る。
「ああっ。亮ズルい」
「ちょっとくらいいいだろう」
中身はあえてあまり確認せず彼女に返す。
それを知っていいのは千春だけだから。
ブブッ。
彼女のスマホが鳴る。
「誰からだろう?」
通話のボタンを押すとそこから男の声がした。
「おい千春、なんで俺の電話に出ないんだ」
乱暴そうな男の声だった。
「すみませんどなたですか?」
「俺のこと忘れたって本当か? 都合の悪いことを忘れたことにしても無駄だぞ」
男は意地悪い口調で続ける。
「俺はお前と付き合っていたんだよ。お前が忘れても俺が覚えている」
その言葉を聞いているだけで不愉快になった。
だってそれは。
自分の兄の声だったから。
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