第9話

 飯田が去ってから亮と千春の間には気まずい空気が流れていた。二人は言葉少なに家路を急ぐ。


 先程までの胸が弾む空気は消え失せ千春は不安そうにこちらを見ている。


 昔付き合っていた男。彼が事故を起こした。

 その言葉だけで複雑な気持ちになる。


 千春は記憶を失っているとはいえどこまで知っているのだろう。亮はそれを聞けないでいた。


「夕飯はカレーの残りを食べるのも飽きるから外食にしようか」

「う、うん」


 亮が何気なさを装ってそう話しかける。

 答える彼女の方も戸惑っているようだった。


「じゃあ家の近くのファミレスでいいか?」


 答えは聞かずに勝手にそちらの方へと向かう。


「待って亮」


 彼女が手を伸ばしてくる。

 その手を受け止めるべきか迷った。


 千春には恋人がいる。

 その相手がろくでもない人間だったとしても。


 亮が間に入れる関係にはない。


「ごめん」


「どうして亮がすまなそうな顔するの?」


 彼女は寂しそうな表情で亮を見つめる。

 きれいな瞳だった。


 このきれいな存在に触れてみたいと思った過去の自分の気持ちがよみがえる。


 亮とちがって彼女は光の方を生きる人間なのだ。

 それを痛感させられた。


「亮あとで聞いてほしい話があるの」

「……わかった。家に帰ったら聞く」


 二人は近所のファミレスで食事をとることにする。

 いつもなら心が弾む食事の時間も不安と焦りから味がしなかった。


 普段ならデザートを食べたいと言う彼女も今日は遠慮してか口数は少なかった。


「俺の手料理より種類が色々あってファミレスもいいだろう。なによりお手頃価格だし」


 軽口を叩いて場の雰囲気を変えようとする。


 だが一度停滞した空気はなかなか変化しない。


「デザートどうする? 俺はティラミスを食べようかと思うけど一緒に食べるか?」


 いつもなら喜んでうなずくはずだったが千春は何か思い詰めた表情だった。


「元気が取り柄の君らしくないよ」


 気まずさをごまかすためにわざと笑顔でそう指摘する。


「あはは。亮に言われると返す言葉がないね」


 彼女もぎこちなく笑う。

 それがどこか痛々しく亮は失敗したと後悔するのだった。我ながら女々しいやつだと一人笑う。


「ティラミスじゃなくて私はプリンにしようかな」


 いつもみたいにシェアするとは言わなかった。

 これが二人の間にできた距離か。


「じゃあボタン押すな」


 ピンポンとベルが鳴り店員が注文を受けに来る。


「ティラミスとプリンをおねがいします」


 すると再び重い空気になる。


「あのさ飯田さんのことは覚えてる?」

「いいだ、さん?」

「さっき会った人のことだよ」


 すると千春は苦い顔をする。

「全然覚えてないんだ」

「俺たち中学の同級生だったんだ」


 そう説明するが彼女には実感がないようだ。


「飯田さんは学級委員でみんなのことを気にかけていた。君と同じ大学に通っていて仲はよかったよ」


 亮が知っている限りの説明をする。これで何かを思い出すきっかけになればと思う。


「ごめんね。全部覚えてないの」


 悲しげにそう答える姿に胸が痛む。


「事故のことも全然覚えていないの」


 だからと付け足す。


「付き合っていた人のこともわからない。家族には過去の自分のこと隠されていたから」


「ごめん。つらいこと言わせちゃったな」

「いいの。なにも知らないでいることよりずっといいから」


 どこか覚悟を持った表情だった。

 彼女も腹をくくったのだろうか。


 亮は彼女の強さを眩しく感じた。


「事故に遭ってからスマホも買い換えたし過去の友達ともあんまり連絡とってない。親が心配するからっていうのも理由のひとつだけれど本当は怖いの」


 自分の知らない自分がいるということが。


 彼女はぽつりと呟く。


「だから亮、あなたに会いに来たの」


 過去を知っているはずの人間がいる。

 それもかなり親しくしていた亮のことだ。


 彼女は亮の渡した葉書をたよりにひとりで乗り込んできた。


 信頼されているのだろうか。それよりももっとどろどろした感情のためか。


 昔の天真爛漫さは時おり見せるがやはりどこか不安げな表情が頭に残る。


 手元には溶け始めたティラミスが残っている。

 彼女の方もプリンには手をつけていない。


「あはは。そんなこと言うと誤解するよ」


 彼女の言葉に臆した亮は笑ってごまかす。

 その行為が彼女を傷つけるとわかっていても。


「誤解しても……いい」


 千春は亮の顔をまっすぐに見つめる。


「昔みたいに優しくなれないぞ」


 彼女が過去の記憶を失っているとわかりつつもそう確認してしまう。


「本気にされたら困るのは君の方だよ」

「そんなことない」

 千春はすぐに亮の言葉を否定する。

 本当にわかっているのだろうか。


「俺だって一人の男だよ。好きでもない相手に軽々しくそんなこと言っちゃいけないよ」


 子供の頃の好きとは次元が違うのだ。

 昔のように優しく包み込むような接し方はできない。


 それに今は付き合いがないとはいえ別に付き合っていた男もいるときいた。


 嫉妬するわけではないが亮の知らない間に彼女は変わってしまった。


 素直に受け入れられるには性格が歪みすぎている。

 これは生まれつきのものかもしれないが。


「……帰ろうか」


 亮は席をたち会計を済ませる。

 千円札を二枚出してお釣りを受け取った。


 街灯がぽつぽつと光を放ちながら帰宅までの間ゆっくりと歩く。


 二人の手は重なることはなかった。

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