第6話

「千春、やっぱり少し聞きたいことがあるんだ。君はどこまで昔のことを覚えている?」

 カレーを食べ終え食器をスポンジで洗いながら質問する。

 千春は隣で布巾で水滴のついた食器を拭っている。

「それが……ほとんど覚えていないんだ……」

 やはり自分のことを聞かれるのは居心地が悪いらしく歯切れの悪い言い方だった。

「前にも言ったけど私は事故で頭をうって病院につれていかれた。その時にすべてを忘れてしまったの。親のことも、友達のことも」

 だから亮のことも覚えていないの、と呟く。

「ごめんね。こんなに優しくしてもらってるのに覚えていないなんて」

「いや謝ることじゃないよ」

 亮が否定すると千春の表情はわずかに和らいだ。

「だから前みたいな私じゃないけどおかしいと思ったらすぐ言ってね」

「おかしいって」

 そんなことはないと言っても千春は首を横に振る。

「いいの。お母さんにはよく言われてるから」

 だから仲があまりよくないのか。

 普通なら家を離れることを怖がるはずだが生まれもった性格から外に飛び出してしまったようだ。

「君が帰りたがらない理由はよくわかった」

 これ以上強くは出れないので今晩も彼女を泊めることにする。

 昔自分を助けてくれた少女は今逃げ場を求めている。

 それが正しいことなのかわからないが手をさしのべたいと思ったのだ。

「明日はバイト休みだから買い物に行くぞ」

 昨晩雨で濡れていた彼女の衣服も洗濯して畳まれている。

 一組だけの服というのも不便なので新しい収納も必要になるだろう。


 懐は寒くなるができる限りのことをしよう。


「明日の朝はめしどうする?」

「うーん朝からカレーは重いからまたトーストで」


 洗いものを終えて狭い六条一間の部屋でテレビをつける。


 バラエティ番組を見ていると千春はお腹を抱えて笑っている。


「家だとお堅いものしか見れないからここは思いのまま好きな番組が見れるね」

「千春の家って真面目な番組しか見ないんだっけ?」


 亮自身はまったくテレビを見ないので完全にもて余していたのだが千春が喜んでくれるならいいかなと思う辺り現金だ。


「ねえ。昔の私の話をしてくれる?」

「昔かあ」


 亮が知っている彼女のことをおもむろに話し始める。


「君はとんだおてんば娘だったからな。ジャングルジムで高いところに上って降りられなくなったのをよく覚えているよ」

 それに泣き出して学校の先生にひどくしかられたことも。

「俺が君をつれて地面まで降りたときは周囲が騒いでたな」

 地元の名家の少女と名も知れぬ少年とが一緒にいるというのは端から見れば不自然だったのだろう。

 亮はそれを気にしていたが千春はまったく相手にしていなかった。

『言いたい人には言わせておけば大丈夫』

 その言葉に救われているのを覚えている。

「君は明るいけど正義感も強くて俺みたいなやつにも同じ態度で接してくれた」

 なにかと孤立しがちな亮をいつも気にかけてくれていた。

「へえ私って亮から見たらそんなだったんだ」

 彼女はまるで他人事のような感想を漏らす。

「俺はそんな君のことが好きだったんだ」

「愛されてたんだね。私って」

 からかいながら千春は亮を試す。

「いいなあ。私は昔のことは何一つ覚えていないから昔話を聞けてよかったよ」

 バラエティ番組から聞こえる笑い声が二人の間の緊張感を和らげる。

「でも亮のことを私は全然知らない。この二年だけでも何をしていたか教えてくれる?」

 二年で大きく変わるわけではないがそれでも周囲の人間関係が目まぐるしく変わっていった。

「俺は高校卒業して地元を離れてフリーターやっているよ」

 学校の成績は悪くなかったが大学進学するほどの熱意はなかった。ついでに金もなかった。

「今は気ままに生きているから毎日それなりに楽しいよ」

 意地を張っているわけではなく家を出てからは自由だった。

 自分の身の回りのことは一通りできたため苦労はしなかった。

 バイト先の店長は気むずかしいが仕事を真面目にやっている分には怒られない。

「へえ亮は私よりずっと先に大人になったんだね」

「もう二十歳だからな」

「うー。そういう意味じゃなくて」

 少し照れ臭くてごまかすと千春が頬を膨らませる。

「私は今は足踏みしている状態だけどみんな先に行ってしまうなあと思って」

 取り残されているという感覚に迷いを感じているようだ。

「今は休む時間なんだよ。思い出すのなんて徐々にでいいよ」

 事故で記憶を失ったというのだから地元では大騒ぎだったのだろう。

 田舎は噂が広まるのもはやい。

 それだったら地元を離れるという選択肢も悪いことではない。

「亮は私に甘いね」

 彼女はおかしそうに笑う。

「家にいるとお母さんによく怒られたし友達にも腫れ物に触れるような扱いだったからね。亮のもとに来て少し安心した」

 彼女はそういうと布団の準備をする。

「なにか思い出すのも怖いし、なにもわからないままでいるのはもっと怖いよ」

 まだ早い時間だが彼女は寝るつもりらしい。

 亮は近くに彼女の存在を感じながら畳で横になった。

「おやすみ」

 部屋を照らす証明の電源を切る。

 辺りは闇に包まれ静寂が訪れる。

 そして睡魔に瞼が重くなるのを感じる。


 気がつけば意識は闇のなかだった。

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