第3話
その夜は一人で出歩くと危ないので千春を泊めることにした。
本当なら帰ってもらう予定だったが駅までの見送りを申し出ると彼女は首を横に振った。
もう二十歳を越えて子供じゃないのだから外泊くらい問題ないだろうというのが彼女の主張だった。
だが記憶がないという特別な事情があるのだから両親は心配するだろう。
いやがられるとわかって電話を掛けた。
案の定電話に出たのは彼女の母だった。
十年前は一緒にいるのも咎められたのだから母親が喜ばないのも当然だった。
「清水くん、明日には千春を返してね」
まるで亮が彼女を引き留めているみたいな口ぶりだった。
そして電話が千春にかわると何度も念を押しているのが耳に入った。
「心配しなくても大丈夫だよ。亮は親切だし。今日もチャーハン作ってくれた」
子供のような声でそう報告すると母親はガミガミと説教を始める。
最後には千春が電話を切ってしまった。
「千春、勝手に電話切ったらダメだろう。お母さんだって心配しているんだから」
「おかあさんはいつも私の心配してるふりして文句いいたいだけだよ」
そういう姿は昔と変わらず少しだけ安心した。
亮が知っている彼女は明るくて天真爛漫でまるで太陽のような人だった。
だけど好き嫌いが激しくその子供っぽさが魅力だった。
「亮、ぼんやりしてる」
「悪い。昔を思い出していた」
あまり楽しくなかった幼少期。一緒にいてくれたのは千春でそのことに救われていた。
時には恋人のように手を繋いで歩いたこともあった。
それは喧嘩で負けたとき。兄にやられて悔しがった亮を慰めようと彼女が考え出したことだ。
「こうすればいたくないね」
実際は全然いたくないどころか翌日熱を出して寝込んだくらいだった。
それでも千春との思い出は心暖まるものだった。
「昔の私ってどんなひとだった?」
「俺にとってのウェンディーみたいな存在だったよ」
子供の世界に生きるピーターパンは必死にウェンディーを引き留めた。
だけど彼女はもとの世界に戻らないといけない。
「いつも後ろ髪引かれながら別れてた。翌日まで会えないのを寂しく思ってたよ」
まるで自分が彼女を好きだと告白するようで少し気恥ずかしかった。
「君は覚えてないだろうけど何度も公園で遊んだんだよ」
タコの滑り台がある地元では有名な公園で二人で約束して待ち合わせをした。
そして二人だけの秘密の場所で日頃思っていることをダラダラとしゃべっていた。
主に学校の七不思議やら同じクラスの子のませた恋愛事情とか。
亮にとってはどこか遠くに感じていたことだった。
「君は明るくていつも俺を笑わせてくれた。それが楽しくてね」
過去の話をしてなにかを思い出すかもしれない。だけどなにも変わらないかもしれない。
自分でもよくわからなかった。
「俺ばっかりしゃべってるな。君はなにか気になることはある?」
「ううん。ただあなたと一緒にいられればいいの」
それはどういうことだろう。
「私は両親のことも友達のこともすっかり忘れてしまった。まるで心にぽっかりと穴が空いたみたいになにもないの。それが怖い」
だから自分を知っている誰かと逃げていたいだけだと笑う。
それがたまたま亮だったという話なのだろうか。
彼女と再会して抱いた感情は複雑なものだった。
会えば自然と昔を思い出す。
それが楽しい思い出でも。裏に苦しい記憶があったとしても。
まるで試されているみたいだ。
彼女に信用されうる人間かどうか。
過去を取り戻すために必要なものかどうか。
「お願い教えて。私はこれからどうやって生きればいいの?」
夜も遅い。周囲は寝静まっている。
その静謐とした空気のなかで二人がただ見つめあう。
だが彼女の問いは簡単に答えられるものではなかった。
もしかりにこのまま生活して支障がないのならそのままにすることだって可能だ。
だけど彼女には将来がある。
そして夢もあった。
それは学校のカウンセラーになって亮のように困っている子供を助けたいというものだった。
そのために心理学部のある大学に入学した。
だけど今はすっかり忘れてしまっている。
それに学校も休学しているのだろう。
これでは彼女の未来が危うい。
自分を助けてくれた当の本人が今度は自分に救いを求めている。
亮は逃れられない現実を感じた。
「君も疲れているんだろう。早く寝よう」
適当な言葉でごまかした。
彼女は傷ついた顔をしたが時すでに遅し。慰めように亮はどういう言葉をかけてやっていいのかわからなかった。
こういうとき自分が情けなく感じる。
もっとうまい言葉があれば。
そうすれば彼女も傷つかなくて済んだのかもしれない。
自分の不器用さを恨むのだった。
「ごめんなさい。急にやってきてこんなのってないよね」
急に彼女が頭を下げる。
「ごめんね。亮。私自分でも自分のことがわからなくて……」
「きっと混乱してるだけだろう。明日になれば忘れるよ」
「そうだね」
千春は小さく笑った。
笑うとえくぼができるのは子供の頃から変わらない。
そうして言葉をひとつ二つ交わしていくと次第にまぶたが重くなる。
気がついた頃には夜が更けていた。
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