第1話
天高く馬肥ゆる秋。晴天の空の元、少年少女たちがトラックを走る。生き物のように蛇行する行列はそのまま校外へと流れていった。
今日は毎年恒例の持久走大会だった。一年生の全員がトラックから捌けると、次に走る二年の私は、先生の号令を受けてスタートラインに向かった。
「おはよ。
自分を呼ぶ声に振り向くと、一人の女生徒が私の隣に並んできた。
別のクラスの
「おはよ」
挨拶を返すと玉井は笑顔を浮かべた。
「ねぇ、一緒に行かない?
玉井が後ろを人差し指で指す。そちらも、顔なじみの友達だった。少し考えて、彼女達と行く状況を想像する。
「遠慮しとく。歩くのも嫌だし」
嫌味のない笑みで答えた。
「えーつれないなー」
玉井は目に見えて肩を落とした。
その様子を見て、苦笑交じりに提案する。
「こんなとこで話さなくても、今度普通に遊ぼうよ」
「うん。分かった。……また今度ね」
玉井はそう言って手を振り、歩調を緩めた。
話しが終わって、前を向く。すると何か言い忘れていたのか、玉井がまた隣に並んできた。何だろうと思って顔を向けると、玉井は悪戯っぽい上目遣いで私を見ていた。
「真央ってさ、絶妙な感じだよね」
「? ……何が?」
「褒めてるのっ」
玉井は嬉しそうに笑って、今度こそ後ろの二人の元へ戻った。
言葉の意味が分からなかった。でもまあ、褒めてるならいいかと、考えるのを止めた。
そのままスタート位置に並ぶ。運動部が前列に並び、私は先頭から四列目あたりで待った。全員が並び終えると、教師が声を上げる。ピストルの音が鳴った。二年生が一斉に走り出す。
持久走大会は皆、あまりやる気がなかった。そのやる気のなさは二年、一年、三年の順になる。一年生は初めてだから少しやる気を見せる。三年生は順位を気にしている様子は無いけれど思い出作りの感覚で楽しむ。二年生は疲れることに辟易して一部の運動部以外はまともに走らない。二年の私も歩きはしないものの、順位を気にする感情は無かった。
トラックを一周して校外へ出る。そこで、全体の真ん中ぐらいの位置に付いた。運動神経は良い方だ。普通に走っているとこういう位置に付く。余力を残しながら、健康目的のジョギングの感覚で足を動かした。
そこから学校の外周を回って田園へ入る。吹き抜ける風が熱くなった体を通って心地よく冷ましてくれる。耳触りのいい葉のこすれる音が耳に届いて、首の裏側をくすぐられるような涼しさを感じた。
視線を横に向けると、収穫前の稲穂が金色の波を作っていた。さっきの音の正体。朝に見る濃い金色とは違い、昼近くの日光に照らされた稲穂は明るく輝いている。
持久走大会を楽しいと思える程ではないけれど、普段は見られない景色を見て、少し贅沢な気分になる。
非日常を満喫しながら、もうすぐコースの折り返し地点というところで、前方に綺麗な黒髪が揺れるのが見えた。
北溟和だ。私は一定のペースで走っているから、彼女は失速したのだろう。普段運動が得意なイメージもないし、頑張っているのかな、と思う。
次第に距離は縮まり、北溟さんの真後ろまで来た。
会話をするならいい機会かな、と思う。北溟さんのことは前から気になっていたから。でも、真面目に走っている子に話しかけるのも申し訳ないな、とも思った。
でも、一言ぐらいなら、そう思って隣に並び、思い切って声をかけた。
「おはよう、北溟さん。頑張ってるね」
私の声に反応して、北溟さんがこちらを向く。北溟さんは初めて話しかける私に驚くことなく、受け入れた様子だった。対する私は、少し緊張している。
「おはよう。吉原さんも、頑張ってるのね」
少し息を切らせながら、微笑んで、北溟さんは言った。おっとりと滑らかな声。今はそこに荒い息遣いが加わって、普段のイメージとは違う、健気で可愛らしい印象を抱いた。
返答を貰ったことで気が楽になった。そのまま砕けた調子で話をする。
「私は全然。運動得意な方だし、きつくない程度に流してるよ」
私が言うと、北溟さんは笑みに親しげなものを混ぜた。
「そう。ならせっかくですし、お話ししながら走りましょうか」
そう言うと、和は駆け足を早歩きぐらいのスピードまで落とした。
私は急な変速に追い抜いてしまって、少し足踏みして隣に並ぶ。
「いいの? 結構頑張ってたみたいだけど、目標とかあったんじゃないの?」
「ないわ。疲れちゃったから、ちょうどいいの」
北溟さんは大きく息をついて呼吸を整えた。肩が大きく上下している。本当に頑張っていたんだ。改めて、健気だなと思った。
「北溟さんって真面目だよね。持久走なんて歩いてる奴もいるのに」
横を見ると遠くの方、まだ学校の外周あたりで、北溟さんより明らかに体力があるはずの男子たちが歩いていた。
「キャラ的にサボれないだけよ」
北溟さんが答えた。その内容に、私は驚く。彼女のイメージに合わない『キャラ』という言葉に親近感と興味が沸いた。
「キャラって、北溟さんは自分を何キャラだと思ってるの?」
「お母さんキャラよ」
「分かる!」
『お母さんキャラ』という言葉に笑う。人から言われたらあまりいい気はしなさそうだけれど。言葉から自虐や悲壮感は感じない。北溟さんへの興味が一層強くなった。
「因みにお母さんキャラだとどうしてサボれないの?」
「あの子でもサボるんだってなったら、皆のやる気がなくなっちゃうじゃない? あと、先生を悲しませるわ」
確かに。的を射ていると思った。皆やる気のない中、北溟さんまでサボっていたら、準備してくれた先生は悲しむかもしれない。
「そうだね。北溟さんの揺れるおっぱいが見れないのは先生達も悲しみそう」
ちょっとボケてみた。北溟さんの顔を見てみる。
「わたし、そう言う視線、苦手だわ」
北溟さんは赤面しながら腕で胸を抑えた。胸の変形が分かる。おぉ。
いやらしい言葉に堪える彼女はすごく艶っぽい。長い睫、涙を溜めた弱気な瞳、白い肌に映える朱、走っていることによる荒い息。綺麗で、かわいい。女の私でもドキドキしてしまう。
「ねぇ。先生を悲しませるっていうと、そっちが思いついちゃうの?」
「あー、いや……」
冗談のつもりが傷つけてしまったみたいだ。何と言おうか、あれこれ考えていると、
「わたしも吉原さんみたいなぺったんこが良かったわ。あれ、吉原さん。まさか、下まで生えてるなんて言わないわよね? 怒るわよ」
「怒るのは私だよ!」
キッとこちらを睨みながら敵意を向けてきた北溟さんに、私は返した。酷いカウンターだ! 泣きたい!
「あ、ごめんなさい。ほら、最近流行ってるじゃない? ジェンダーレス男子って、それかと思ったの」
「ごめんなさいから下いらないから。傷口に塩塗ってるから!」
「今どき男の子か女の子かはおっぱい見ないと分からないのがいけないわね。世直しが必要だわ」
「脱げばいいですか!? 下半身見てもらっていいですか!?」
体操着に手をかけると北溟さんは片手で制止した。
「大丈夫よ。さすがに一緒のクラスにいて男の子だと思ってみたことはないから」
それはつまりパッと見だと疑うってことかな? いいのかな。もう考えない!
「わたしたち、ちゃんと話すのは初めてよね? どうして声をかけてくれたの?」
北溟さんが話の余韻を切るように質問してきた。私も頭を切り替えて話す。
「北溟さんってどんな人なのかなって、前から気になってた。今日は前走ってたから、いい機会かなって」
「そう。興味を持ってくれて嬉しいわ」
北溟さんは屈託なくなく笑った。
「それで、どうだった? わたし、気にした甲斐はあったかしら」
「あった。予想以上」
「そう。良かったわ」
北溟さんは花のように笑った。
そこからは二人、並んで走った。私はもっと早く走れたけれど、北溟さんの隣を並走する。短い会話の中でも太く繋がる物があって、離れがたい気持ちがあった。
北溟さんの顔を見てみる。その横顔は純粋にこの行事に取り組んでいて、視線に気付くと笑ってくれた。
その笑顔を見ると、何か満たされる感覚があった。友達からは貰ったことのない、不思議な感情。それはとても、尊いもののように感じた。
「ねぇ、北溟さん」
出た声は上ずっていた。
「何?」
返す彼女の声は友好的で温かかった。それでも何故か、緊張してしまう。
「私たち、友達にならない?」
彼女は一瞬意外そうな顔をして、
「そうね。友達になりましょう」
もう、そのつもりだったとでも言うように笑った。
答えを聞いて、思わず笑みが零れた。客観的に見て、今のは驚くことでも可能性が低かったわけでもないのに、今までに感じたことのないような嬉しさが湧きあがった。
「わたしのことは和って呼んで」
「え?」
「長くない? 北溟って」
北溟さんから要求されて、その内容が名前呼びで、友達として歩み寄ってくれたことがわかる。そのことに、嬉しさと少しの気恥ずかしさを感じる。
「そ、そうだね。……じゃあ、私も真央で」
「よろしく、真央」
「よろしく、和」
互いに呼び合うと、和は笑った。変なところあったかな。と心配になる。
「真央と和って母音が同じね。面白いわ」
和の笑う姿に私の胸の奥がキュッと締まる。そんなささやかな共通項で笑ってくれた。
そして、そんなささやかな共通項が尊く想えた。自分の名前が、今までで一番好きになれた。
「さあ真央、あともう少しよ。ここからは競争しましょう」
和は一転、視線を前方に据え、やる気を見せる。あと数十メートルで校内に入り、トラック半周でゴールとなる。
「あ、うん。…………負けないよ」
一瞬呆気にとられたけれど、和に応じて、私もやる気を見せた。
「よーい、どん!」
和の掛け声で、同時に速度を上げる。
私は和と並走する。本当はもっと速く走れたけど、気持ちが拒んだ。校内に入り、トラックを駆ける。いよいよ最後の五メートルぐらいという所で、ちょっとだけ、前に出た。
順位は私、和の順になった。
ゴールすると、和は大きく深呼吸して、膝に手を置いて休んだ。私はあまり息が上がっていなかったけれど、すぐにゴールした人達の列には並ばず、和の隣に行った。
和の目の前に来ると、和は荒い息を吐きながら、上目遣いで見上げてきた。
「真央、手抜いてたでしょ」
指摘されて、思わず目を逸らしてしまう。
「え、あーうん」
「馬鹿にしているの?」
「え、あ、ちが」
和の責めるような言葉に、激しく狼狽える。
二人で走りたかったとか、負けたら不誠実だと思ったとか、理由があるけど口に出せない。なんか変な意味になりそうだ。
「冗談よ。真央」
泣きそうになりながら言い訳を考えていた私に、和は悪戯を詫びるような表情で言った。
でも、私の中にはまだ不安が抜けきっていなかった。行いとして、あまりいい事ではなかっただろう。それを、和は優しさで流してくれただけかもしれない。印象の悪さは残ってしまったかもしれない。弁明しようと口を開く、でも適切な言葉はやっぱり浮かばなかった。
困った様子で棒立ちになる私を見て、和は少し反省するように笑った。
「最後まで一緒に走ってくれて嬉しかったわ。最後置いてかれたら、寂しかったもの」
「…………うん」
なんだか、手のひらの上で転がされているような感じがした。でも、構ってくれていると認識すると、それだけで、私は嬉しくなってしまった。
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