第2話
朝、アラームの音に目を覚ます。
携帯に手を伸ばしている時、頭に浮かんだのは和の姿だった。そして、目がばっちり覚める。
「っ!」
アラームを止めつつ上半身を起こして、しばし固まる。さっきの感覚は、今までにない不思議な感覚だった。
と言っても、改まって考えている時間はない。朝だ。布団を剥いで、いつもの行動に移行する。
カーテンを開けて日の光で体を覚ます。布団をたたむ。携帯を持って階段を下り、食卓に向かった。
「おはよー」
「おはよー」「おはよう」
私が言うと、父と母が返した。
「今日は元気ね」
「……そうかな」
母の言葉に頬を掻く。いつもはもっと眠そうなのだろう。違う自覚はある。来た道を少し戻り、洗面台へ入った。
口を濯いで、顔を洗って、鏡を見る。
いつになく視界はクリアで、髪の跳ねが気になる。いつもは家を出る前にする髪のセットを最初にやってしまった。
洗面所を出て食卓に着く。
今日の朝ごはんはトーストとハムエッグだった。
「いただきまーす」
「真央」
「ん?」
神妙な母の声に、口を一旦止める。
「露骨なのは止めなさい。お父さん仕事できなくなっちゃうでしょ」
「ぶっ!」
父がコーヒーに噎せた。
「ほら!」
母が糾弾する目で見てくる。噎せさせたのはあんただろう。
「そんなんじゃないよ。気にしなくていいから」
「娘が気を使ってくれてるわよ。降格なんてしたら許さないんだから!」
「お、おう」
なんなんだこの親は。聞いているのも話すのも面倒なので以降無視する。
頭を和とのことに切り替えた。
今日、和と話せるかな? ……話せたら、何の話をしよう。趣味とか特技? 嫌いなこととかもしりたいし……。
和のこと、たくさん知りたい。もっと早いうちに、喋れば良かった。
「私も十七の頃は……」「貴方と出会う三年前……」と機嫌よく饒舌に語る母の明るさと衰弱していく父親の空気だけ感じながら、私は残りの朝食を食べきった。
***
登校し、教室に入る。和はまだ来ていなかった。
自分の席について、ぼーっとする。いつもは突っ伏して寝ているけれど、今日はまず、和と話したかった。
まだ一回しか話していないし、日曜日を挟んだから、遠くなってしまったような気がしている。関係の更新をするなら、朝が良かった。
教室の引き戸が開けられるたび、そちらに視線を向ける。何回か繰り返していると、和は現れた。
心臓が、ドキンと跳ね上がる。
今日も美人だ。関係を持つとより魅力的に見える。色眼鏡なのだろうけれど。
一度前を向く。和の席は私の席の隣から三つ後ろにある。直接は見えないけれど、音で着席を感じ取る。
積極的過ぎるのも良くない。だからすぐには行かない。攻められすぎると引いてしまうかもしれないから。――実際に、私はそうだった。
三十秒ぐらい何の素振りも見せずに待って、和の方を見た。和は鞄から荷物を机に移し替えているところで、私が振り向くとすぐに視線が合った。
笑って、手を振ってくれる。
心が高揚する。全てが許された気持になった。余計な考えを取り払って、席を立つ。
「おはよう」
「おはよう」
和の声を聞くと、ふわふわした物が期待通りの形に固まって、安心した。
「今日も綺麗だね」
点数上げか、舞い上がってか、よく分からないけどそんな言葉が出てくる。まあ美人だし、褒めるのはいいだろう。
和はくすくすと笑った。好感触で、嬉しい。
「真央も、いつにも増してかわいいわ」
聞いた瞬間、びりびりと甘酸っぱいものが肌の上を駆け巡った。他の人から言われるのと、何か違う。
「あら? 自分で言う割に言われると弱いのかしら? かわいい」
和は楽しそうに笑った。
「う、ぁ……言わないで……なんか、変」
スカートを摘まんで、指でこすって、変な気持ちに耐える。
「そういう反応をされると言いたくなっちゃうわよ?」
和は悪戯っぽい笑みで詰め寄る。そのことに今までに感じたことのない感情が湧く。――苛められたい? 嘘でしょ。
ふと頭に浮かんだ感情の型に青ざめる。和がなんか言っていたけれど、頭に入らない。
和の表情が変わるのを見て、我に返る。
「真央。聞いてるの?」
ちょっと責めるような顔。
「ああ、うん。いや、ごめん」
「もう」
和は不機嫌そうに言った。でも、本当に不機嫌そうではない。それを感じて、逆に少し、嬉しくなる。
そう言えば、和と話したいことがたくさんあったのだ。朝食を食べながら、いろいろ考えていた。
「和ってさ……」
聞こうとしたところで、教室の扉が開いた。先生が教室に入ってきてしまった。和に視線を戻して、口元がふにゃふにゃと空回りする。消化不良で具合が悪かった。私の様子を見て、和は困ったように笑った。
全然話せなかったけど、しょうがない。でも、最後に、
「昼さ、一緒に食べない?」
ちょっと緊張した声音だった。それでも、先生が来なかったらすぐに言葉にできなかったかもしれない。追い詰められたからこそ、勢いで言う事が出来た。
私の言葉に、和は柔らかく微笑む。
「ええ。そうしましょう」
応えてくれて、胸の中が温かくなる。消化不良のモヤモヤも空いた。
「じゃあ、またお昼に」
「うん」
弾むような調子で言って、和の答えに幸せな気持ちになる。自分の席に戻った後、昼が楽しみで、気付けばずっと笑顔だった。
***
四時限目終了の鐘が鳴り、昼休みに入る。
待ちわびた時間だ。鞄から弁当を取り出して、和の元へ向かおうとする。その時、
「和、お昼一緒に食べない?」
思わず、足を止めた。心臓がキュッと締まり、視界が暗くぼやけた。
声をかけていたのはクラスメイトの女子だった。女子四人グループの中心にいて、たまに和も入れて昼食を取っているのを見る。顔を上げた和は私が見ていることに気付いて、優しく微笑んでから誘っていた女子の方を向いた。
「ごめんなさい。今日は真央と一緒に過ごすわ」
ぶわーっと、引いていた血が戻る。全身が脱力し、倒れそうになった。
「珍しいね。朝も一緒だったけど、二人って仲良かったっけ?」
「持久走大会の時に仲良くなったの」
誘っていた女子がこっちを見て、和も続いて目を向ける。私は頷いて肯定した。
「そうなんだ。じゃ、また今度ね」
その女子は和に言うと自分のグループに戻った。
私は和の前に来て、前の席から椅子を借りて座る。
「迷惑だったかな、私」
「どうして?」
「誘われてたから」
和の顔を見られなくて、視線を逸らした。
和を誘っていた子は、このクラスになってからずっと和と親交があった。一方の私は友達になってから二日目。歴史が浅いから、不安になる。
「約束したんだから、真央が気に病むことはないわ」
不安がる私に、和は他意のない真っ直ぐな調子で言った。
私はその言葉を聞いて、少し落ち着く。でも、安心には至らない。先を聞いたら傷つくかもしれない。そう思いながらも安心が欲しくて、恐る恐る聞いてしまう。
「約束してなかったら、あっちに行きたかった?」
重くない感じで言えたと思う。でも、雰囲気で伝わってしまったかもしれない。あれこれ考えそうになる前に、和から答えが返る。
「そんなことないわよ? 私も真央のこと、もっと知りたいもの」
和は相変わらず、全てを気にしていない調子で答えた。
ほっとして、首の力が抜ける。和の顔を見ると弁当の包みに手をかけながら、楽しそうな微笑みを浮かべていた。
「そ、そう? なら……良かった」
今度は少し、こそばゆい。
「真央の方は? 色々な人と食事してるのを見るけど、良かったの?」
和が聞いてくる。私のことを気にする言葉に、勝手に微笑みが浮かんだ。
「うん。私の人間関係、広く浅くだし」
「そう?」
確認するように和が言い、私の顔に含みが無いと分かると納得したようだった。
私はクラスの皆と仲よくやっていけていると思う。でも、特定のグループに属するのはあまり好きではなかった。縛られる感じが、好きじゃない。人嫌いとかコミュ症とかではないけれど、相手が自分を思ってくれるくらい、自分が相手を思える自信がない。自分の中でも好きの優先順位はつけるし、私のそれが表に出ると、グループ内がごちゃっとなる。
和に続いて、私も弁当を広げる。和の弁当箱を見ると、私のよりも小さかった。
「量、少ないね」
和の身長は私よりも少しだけ大きい。足りるのかな、と少し心配になった。
「栄養バランスは考えてあるし、十分生きていけるわ」
弁当で生死を語られた。変わった感覚だけど、最低限に抑えたいって意味かな、と勘繰る。
「ダイエットとか?」
「いいえ。……理由を上げるなら、命を頂いている意識を持って食べているから、かしら」
和は「皆はそういう事を考えて食べていないわよね?」と加えて言った。
私は予想外の解答に面食らった。
「変わってるね。……でも偉いと思う」
普通、食べることで気にするのは美味しさと体型への影響ぐらいだけど、本来、一番気にすべきは和の言う通り、命を貰っているってことだろう。
「なら、ダイエットとかしたことないの?」
乙女の密かな悩みだ。私も、結構意識して生活している。和は呆れたように答える。
「考えたこともないわ。生きていくために食べて補充しているのに、補充したものを捨てるために不健康になるなんておかしいじゃない」
「まあ、ごもっとも。やっぱり和って考え方変わってる」
「そうかしら。おかしなことは言ってないと思うけれど」
思わず、笑みが出る。和と話していると面白い。考え方が人とずれているけれど、物事の本質に向き合った行動をしていた。
「でも、それしか食べないのにそんなに育つなんて、不公平だなー」
和の胸を見つめながら言う。
「これ、そんなにいいの?」
和は両手で下から抱え上げた。下から持てるのか! おぉ。
「おっきくたって男の人にエッチな目で見られて揉まれたり吸われたり挟んだりするだけでしょ? 嫌だわ。わたし」
「ちょいちょいちょい下品だよ止めようよ!」
この子は何てこと言い出すのか。羞恥心までずれていると私が恥ずかしい。
野郎がこっちを見ていないか視線を巡らせる。
「ごめんなさい。わたしたまにアダルトビデオとか見るから、自然に話してしまったわ」
「アダルトビデオとか自然に言わないように!」
私が言ってしまった!
「あら、ごめんなさい」
和はくすくす笑うが、私はそんな気分じゃない。顔を赤くして、仏頂面を浮かべた。
でも、今の話で気になっていたことを思い出した。気を取り直して話題を変える。
「和って彼氏とかいるの?」
和ほどの美人なら引く手数多だろう。校内で和が告白された噂は聞かないけれど、思いを秘めた男子が密かに告白していることは結構あるんじゃないかと妄想していた。
それというのも、和に対しては一緒にいると楽しいから付き合おうみたいなノリが嵌らない感じがするからだ。端的に言えば母性がある。先生の人気が高いのも、一緒に生活している姿をイメージした時、隣にいて欲しい人の理想像なのかなと考えていた。
「いないわ」
こっちのめくるめく想像に対し、答えは一言で終わってしまった。
表情も事実を淡々と語るもので、隠している様子はない。
いやでも、和の価値観とか、そういうのを知りたい。話題を変えず、引っ張る。
「作らないの?」
「うん」
「いたことは?」
「ないわ」
「もしかして、男嫌い?」
「人として見れば皆好きよ。でも異性の目で見るなら苦手ね」
その言葉に、少し緊張する。昔、何かあったのだろうか。
触れていい事か分からないけれど、聞きたい。意識的に喉を広げて、なんでもない風を装う。
「なんか、理由とかあるの?」
内心緊張して聞いた私に、和の言葉は思いのほか早く帰ってきた。
「男の人って自分の生殖器を女性の生殖器以外に入れようとするでしょ? 自分の子供を他人の胃や腸に放つの。嫌だわ、わたし。そんな人」
「突っ込みも躊躇するレベルだよ!」
この子はっ! 本当にこの子はっ!
聞いてる私が恥ずかしくて泣きそうだった。でも穿って聞いたのは私だから、和を責められない。ところでその知識はアダルトビデオから得たものだろうか。どうでもいいけど。
「わたしの操は決まった穴にしか入れないって誓約書を書いてくれる人にしかあげないわ」
高飛車に言う和に、私は疲れた笑みを返した。
掘ると変なものは出てくるけれど、和との話は価値観が洗われる感じがあって面白かった。好奇心が刺激されて、もっと話を聞きたい気持ちがある。……下ネタは、ちょっと嫌だけど。
「でも、恋とかしたら変わるんじゃないの? なんかしてあげたいとか。彼だけに許せることをしたいとか。特別を求めて色々したくなるのかなって、思うけど」
「恋ってどういう風になったら恋なの?」
和が朴訥な問いをぶつけてくる。私は言葉に詰まった。
改めて聞かれると、分からなかった。恋の定義。
「えー、うーん、温かい気持ち? ……一緒にいたいって思ったり、何かして幸せだなって思えば、恋なんじゃない?」
なんとなくのイメージを考えながら口にした。良かったかな?
和の反応を窺う。私の答えを聞いた和はぼーっと考え始めて、ふと思いついたように私の手を握った。
「ふぇ!? な、なに……?」
急に触られてドキッとする。温かくて、すべすべだった。視線が和の手と顔を行ったり来たりする。
「……なに?」
何か確かめるような顔をしている和に私は再度問いかけた。すると、和は私の顔を見て微笑んだ。
「真央の言ったことはこれで感じられるんだけど、わたしは真央に恋をしているの?」
その言葉で、私の顔が一気に熱くなる。背中がびりびりとして本当に電流が流れたように、固まった。
「え、あー、いや、あの、あの」
そんな私を見て、和は笑った。
「真央、真っ赤よ? 真央もわたしに恋してる?」
「う、うぅ」
言葉が出ない。そんなことおかしいのに、否定したくなかった。
「真央かわいい」
愛おしげに微笑む和の顔を見て、私はもうそれだけで、すべてが満たされてしまうのだった。
***
夕食を食べ終えて自分の部屋に戻る。
身を投げ出すようにベッドへ横たわった。
ベッドに身を沈めた時、心に溜まったものがすべて落ちて、何もない静寂が訪れた。心地のいい至福の時間だったけれど、望みに反して一瞬で終わってしまう。静寂を破るのは、外ではなく内側だった。
頭の中が、和でいっぱいだった。
和と初めて話した時から今日までのことが、何度も脳内で再生される。一幕終わってもまた別の幕が雪崩れこんできて、終わった幕も順番待ちに並ぶ。和以外の入る隙間がなく、何も手に付かない。
山積したものが煩わしく、息を吐いてリセットする。無防備な心と今日の昼の一幕がぶつかると、目の奥、喉の手前辺りがキュッとなった。纏まらない感情がつらくて、具体性をもたせることで制御を試みる。
手を見て、感覚を探るように軽く握ったり、開いたりする。
和に手を握られた時、恋してる? と言われた時、胸の奥がじゅわっとなった。布が液体を吸って重みを得るように、幸せな温かい感覚が形を成して、それでも足りず、液体が滴るような、そんな明確で、謎めいた感覚だった。それは今も、胸の奥に留まっている。
和、和――和、和、和――和和――――
頭の中で和が暴走を始め、壊れそうになる。もがいて、うつ伏せの状態で落ち着く。毛布を引っ掻くように握った。
「 なんだよぅ 」
内側の安定と共に、あぶれた思いが口から捨てられる。責めるような、甘えるような、変な声が出た。
そこから、ぐっぐっと、和への気持ちを圧縮して安定させる。うつ伏せの状態から顔だけ横に向いて大きく息を吐く。呼吸を整えて体の力を抜いた。
――和って名前、かわいすぎだし。
優しい和の笑顔がぽんっと浮かぶ。つられて、私も笑った。
正直に、認めてしまおう。
和のことが愛おしい。女の子にこんな感情を抱くなんて、思いもしなかった。
エッチなことをしたいとか、そういうのは無い。ただ、彼女の特別になりたかった。
触られたい、触りたい、呼んでほしい、笑ってほしい。
毛布を掻き取って口元に当てる。寂しくて、抱きしめる。
「早く会いたいよ……和……」
伝う涙を毛布に吸わせ、早く明日が来ることを願った。
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