浅はかな中に

樹一和宏

浅はかな中に

 行きたい場所でなく、自分なら行ける場所を書いた進路希望調査票。第一、第二希望まで埋めたが、第三希望までは書けず、私は空欄と睨めっこをした。でも結局根負けして、文字が見えないように折り畳むと机の中に放り込んだ。

 日々積もる『ここじゃないどこかへ行きたい』という乾きは、いつしか、死ねばここにいなくて済むというものへと変わっていた。

 埃が溜まるような隅にいても、クラス中の遊園地のような喧騒と廊下からのショッピングモールのような賑わいが聞こえてくる。

 それがうるさくて、うるさくて、全て、壊してやりたかった。

 例えば、あの机に立って騒いでいる奴を殴ってやるとする。きっと周りの連中は冷水をぶっかけられたみたいに大人しくなるに違いないし。

 あの廊下の窓から校庭に向かって叫んでいる女子の背中を押してやれば、きっとこの耳障りな金切り声が一瞬で止むに違いない。

 でも、当然そんなことが出来るはずがない。そんな勇気や力は何一つ持ち合わせてない。私は何も持ってない下の下の人間なんだから。こうして教室の片隅で、寝ているフリして昼休みをやり過ごすしか出来ない。

 毎日が苦痛で堪らなかった。他の人が毎日平然と生きていることが不思議で堪らなかった。同時に、いつも馬鹿にみたいにふざけて笑って能天気に過ごす奴らが、哀れで仕方がなかった。

 教師に怒られて反抗する男子も、イチイチ泣いて同情を買おうとする女子も、幼稚に思えてならない。中学生にもなって、世間を知らなすぎる。生意気な小学生がそのまま背伸びしているみたいだ。

 そんな奴らと同類に思われているのも嫌だし、同じ場所にいることさえ恥ずかしかった。

 だからと言って、私には何も出来なかった。私は自分の非力さを知ってしまっている。机に立っている奴を殴ろうものなら返り討ちにあうだろうし、廊下の女子を突き落とそうものならクラス中の人間を敵に回すことになるだろう。

 ここは酷く自由がないように感じる。目に見えない壁に取り囲まれているようで、息苦しい。だから、ここじゃないどこかへ行きたかった。

 どこかへ行きたいという願望があるくせに、口と態度で不満を表現するだけで、何もしなかった。親はきっとそれを反抗期だと捉えているのかもしれない。そんな親の腫物を触るような視線を気にして、毎日学校へと足を運ぶ。

 どうすれば他の所に行けるだろう。そんなことを取り留めもなく日がな一日考え続けた。

 家出する度胸もない。遠くへ行くお金もない。鳥みたいに飛んでいける翼もない。

 何も持っていない私が見つけたのは、死んだコガネムシを運ぶ、蟻の群れだった。

 唯一他人と同等に持ち合わせているもの。


「そっか、命か」


 どこかへ行きたいのならいっそのこと、死んでしまえばいいじゃないか、他界とも言うし、と心の中の何番目か分からない私が両手を叩いた。その考えはすぐさま脳内会議に回され、満場一致で賛成という結論に至った。

 きっと私の考えを親が知ったら、間違いなく説教をしてくるだろう。命を粗末にするなとか、中学生のくせにとか、そんな月並の言葉を借りて。でも私はもう知ってしまっている。死にたいというのは、『辛いしんどい逃げたい』みたいなドン底にいる人のものじゃない。あぁ、お腹減ったなーと等価値で、誰の後ろにも常に潜んでいるのだ。私はただ、後ろを振り向く機会があって、偶然その存在に気付いてしまっただけに過ぎない。

 じゃあ死ねば? って当然なるけど、自殺するのは何か負けた気がして嫌だし、流石に自殺するほどまでの勇気は持ち合わせていない。

 だからよく考えるのは、誰か殺してくれないかな、っていうことだ。言い訳も責任も全部押し付けてしまいたい。死んでしまったことを「仕方がなかった」と言われたかった。

 金魚のフンみたいにどこまでもついてくるこの糞みたいな気持ち。別にイジメられているとか、家で暴力を振るわれているとか、そんな特別な理由じゃない。ある日急に、夢から覚めたみたいに、ふと気付いたのだ。

 だからいまだ夢の国の中で踊っているクラスの連中を見ると、滑稽で、哀れで、馬鹿みたいで、羨ましかった。

 伏せていた顔をチラリと上げる。対角線上の教室の隅にいる転入生は今日も誰とも関わろうとせず、一人で小説を読んでいた。またページを捲る。

 彼を見る度に溜息をついてしまう癖は、一体いつからだろう。



「トマトさんって絵上手だよねー」


 そんな何気なくて、何気なくない言葉が始まりだった。


「そ、そんなこと……ない……」


 私は自由帳に覆いかぶさって絵を隠した。


「えー隠さなくていいじゃーん」


 昼休み、いつもみたいに好きな魔法少女の絵を描いていると三人のクラスメイトが私を囲んだ。何を言われるかビクビクしていた分、嬉しかったけど、誰かに見せるために書いていたわけじゃなかったから顔から火が出るんじゃないかと思うぐらい恥ずかしかった。


「将来漫画家とかになるのー?」

「漫画家? ……な、何で?」

「だって絵超上手いじゃん! それって朝のアニメのあれでしょ?」

「私達もそのアニメ好きなんだ! ねぇ、他のキャラも書いてよ!」


 そんな会話が、私が漫画家を目指したきっかけだった。豚もおだてりゃ木に登る。

 当時小学三年生だった私は一度も褒められたことがなかった絵が褒められて、凄く嬉しかったのだ。

 家でも床に自由帳を広げて、あれよあれよと絵を描き、お兄ちゃんの部屋から漫画を引っ張り出して見よう見真似で絵を描いた。

 絵を描くのは楽しかった。一日中描いていられる。お母さんの買い物についていく時も自由帳とペンを持っていき、車の中で絵を描いた。

 スーパーでお母さんが会計をしている時、申し訳程度に設けられた雑誌コーナーが目に入った。私が好きなアニメのキャラクターが宝石箱のようにぎっしりと詰め込まれた表紙が目に入り、私は駆け寄った。

『これで君も漫画家デビュー!』という謳い文句と一緒に、漫画家セットなるものの写真が載っていた。雑誌の膨らみを見ると、写真のものと同一のものが袋詰めにされて、はみ出していた。

 一目惚れだった。すぐに欲しいと思ったが、今日は既におもちゃ付きのお菓子を買ってもらってしまっていた。


「トマ、どうしたの?」


 お母さんに、私は「何でもない」と言って、何度も振り返りながらそのスーパーをあとにした。

 家に帰ってもあの雑誌のことが忘れられなかった私は、翌日の学校が終わると一目散に家に帰り、なけなしのお小遣いを手に、スーパーへと向かった。

 丁度貯めていたお小遣い分だった。全財産を使い果たし、私は本格的に漫画になることに決めた。

 最初は知っているキャラで、見切り発車で漫画を描き始めたが、一年、二年と書き続けていく内に、自分が考えたキャラクターで漫画を描き始めるようになった。

 その頃にはクラスの仲の良い子達が「凄い凄い」といつも言ってくれて、その内他の子も「私も描いてみようかな」と、私を中心にクラス内で漫画ブームが起きた。

 小学校六年生になると、将来何になりたいかを真面目に考えるように先生に言われた。当然私は漫画家で揺るぎなかったし、先生も特に否定的なことを言うこともなく「トマトさんならなれるわ」とだけ言った。

 その頃には構図とかパースとかコマ割りを気にして書くようになり、遊びの延長だった絵は、本物の漫画と引きを取らない上手さへとなっていた。

 ある日、いつものように家で買ってきた漫画雑誌を眺めていると、新人賞の佳作の欄に『芋丸ポテト:12歳』という名前があった。

 喚起された。同い年で既に佳作に入っている人がいることに、驚き、ただただ悔しかった。何で自分はこんな所でポテチなんか食べてるんだ。そんな暇ないはずだと。

 その瞬間「中学になったら出版社に持ち込もう」と心に決めた。声に出して。

 小学六年生の夏休み、初めてオリジナルの読み切り漫画を描くことにした。持ち込む出版社は当然、あの雑誌の所だ。

 漫画をキチンと清書までしたのは初めてで、完成までに約半年を費やした。その頃には既に、中学一年の春になっていた。

 ストーリーはとてもシンプルで、同じ日に転入してきた男女が互いに一目惚れする、という内容だ。33ページ。一から自分で作った完成原稿。その厚みを見ると、正に努力の結晶で、何度ページを捲っても頬がニヤけてしまった。ボタンみたいなのにヒモをぐるぐるする封筒に原稿を入れると、気分はもう漫画家になったようだった。


「ほら、待たせていた原稿持ってきてやったぞ。ははー、トマト先生ありがとうございます」

「トマ、お前何やってんだ……」

「やめてお兄ちゃん、常識的な目で私を見ないで」


 これならいける。私なら絶対に漫画家になれる。そんなどこから出来てきたのかも分からない得体の知れない自信が私の中を埋め尽くしていた。

 震える声で出版社に電話をし、アポを取った。

 約束の日まで、教室の風景はいつもと全然違うように見えた。どいつもこいつもガキンチョで、私はお前らより何歩も先に行ってんだぞ、と。

 約束の日。当日、雨。憂鬱な雲。灰色めいた視界。漫画と同じ白黒なのに、どうしてこうも気分を下げるような色をしているのだろう。

 リュックに入れた原稿が濡れないか心配だった。親から貰った電車賃とお昼代をポケットの中で握りしめ、人生で初めて一人で東京に行った。

 片道二時間。あまりの長い移動に、本当にこの電車で大丈夫なのかとか、道に迷ったらどうしようとか、色々な不安が揺れ続けた。

 いざ東京に着いても観光地のような人の数、空を隠すほどの建物に不安はより一層大きくなっていった。

 事前にメモした道順に従い、ギリギリ泣かない所で、目的の出版社に辿り着いた。

 受付でアポの確認をとり、色々な用紙に記入し、別室に案内された。テーブルに原稿を出し、羽鳥さんという人が来るのを待った。手汗でベチョベチョだった。

 十分ぐらい待つと「ごめんね、お待たせ」と少し小太りの男性が入ってきた。私を見るや否や「あ、ホントに十二歳なんだ」と嘲笑を含んだ言い方をした。

 席に着くと「じゃあ早速見せて」と原稿を手に取った。少しぐらい世間話でもあるのかと思っていた私は、状況についていくだけで精一杯で、声も出せず、頷くことしか出来なかった。

 羽鳥さんの読む速度は異様に早かった。私が普段漫画を読む速度の百倍ぐらい早いと言っても過言ではなかった。次々と捲られていくページ。半年掛けて描いた渾身の一作。それがちゃんと読まれてないのでは、と思えるほど早く、半年はものの五分で片付けられた。

 ゴトっと原稿がテーブルで整えられる。乾いた喉。上手く呑み込めない唾。耳にまで聞こえる鼓動。

 緊張と期待の第一声は「うん、全然駄目」という味気ない言葉だった。

 肝が冷えた。胃が一気に収縮して、背筋が粟立つ。


「まずね、絵が駄目。これじゃギャグ漫画。君の話はどちらかと言うと真剣な恋愛を描いたシリアスものだから絵と全然合ってない。純粋に画力が足りてないんだと思う。コマ割りも駄目、面白みがない。構図はどれも似たり寄ったり。パース取ってないでしょ、これ。ネットでいいから調べてもっと絵を描いて練習した方がいいよ。人物だけじゃなくて背景もね。で、ストーリーなんだけど、結局これ何がしたかったの? 別に起承転結にこだわって書く必要はないんだけど、いくら何でも中身がなさ過ぎる。オチも印象的じゃなければ情緒的でもないし。一緒に帰るって終わり方にするぐらいなら、王道に告白して終わりってした方がいい。転校生同士が一目惚れしたって話を書くにしても、最初の二ページでこの漫画は完結してしまっている。転校生である意味を感じない。残りの数十ページが蛇足に感じる。二人とも転校生っていう運命的なものを表現したいなら、もっと転校生である設定を生かした話を作らないと。これじゃあ新人賞に出しても一次も通過しないよ」


 呼吸の仕方さえも忘れてしまっていた。頭が真っ白に、相手が何を言っているのか理解が追い付かなかった。


「これ、どれぐらいで描いたの?」

「あ、え、えっと……半年、ぐらい……」

「あー……この程度に半年は掛かり過ぎかなー」


 全てが否定されたようだった。半年間の努力を、これまで漫画に掛けてきた数年間を。たかが五分で。

 その後、羽鳥さんは何か私のフォローになるようなことを色々言っていたが、どれも焼け石に水で、耳より奥に入ってくる言葉は何一つなかった。

 魂を抜かれたみたいな足取りで家に帰ると、お兄ちゃんが「どうだった?」と訊いてきた。だけど、その言葉は穴だらけになった私を通り抜けていき、部屋に着くと体を支えていた体裁が一気に抜けて、ベッドへと倒れ込んだ。

 どん底にいた。ここよりも下はなく、一筋の明かりさえ見えない。こんな苦しみが続くなら消えてしまいたかった。


「明日出版社に持ち込みに行くんだ!」


 仲の良い友達に大見得を張った。友達も「トマトなら良い反応もらえるんじゃない?」と持ち上げてくれて、まるで今日の持ち込みで漫画家になるのが決まっているみたいだった。それなのに結果はこれだ。友達にも家族にも、見せる顔がなかった。

 何て言い訳しよう。そんなことを考えて、夕陽も沈んだ部屋の中でスマホで持ち込みの体験談の話などを調べた。

『ボロカスに言われた』『俺も昔はよく持ち込んだ』『編集にイケるって言われたけど二次で落ちたわ』

 先駆者達の心が折れた時のエピソードを読んでいくと、私だけじゃない、と苦しみが紛れたりもしたが、私よりも努力して結果を出した人さえも漫画家になれなかった話など、読んでいて辛くなるものもあった。

 休み明けの学校。当然友達が「どうだった?」と訊いてくる。自分が塗り散らかしていた自信の跡。直視することさえ恥ずかしかった。


「ま、まぁ、それなり、かな? やっぱプロの編集さんは厳しいよー。そんなことよりさ」と私は東京で見た数々の広告の話をした。漫画の話をして、自分の情けなさが出てしまうのが、怖かったのだ。


 それからの日々はただの言い訳探しの連続だった。漫画の話になりそうになると別の話題を探し、本屋に行くことも避け、机に出しっぱなしの画材も直視するのが嫌で、埃が積もっていく様を見ないフリをし続けた。

 次第にそうやって現実逃避することも、棘に刺さるような痛みを持ち出した。家にも学校にも居たくなくなった。どこにも居たくない。私と少しでも関わりを持った場所にいたくない。どこか私と全く関係ない場所に行きたい。

 それが、誰かに殺されたいと思い始めた、最初だった。



「芋葉丸井です。親の都合で半年間だけこっちで暮らすことになりました。短い間ですがよろしくお願いします」


 中学二年の夏休み終わりに、彼は転校してきた。普通の青少年という感じだった。先生との受け答えも普通で、ユーモアがある人そうにも見えなかった。女子の賑わいも落胆もなく、『優』『良』『可』の三段判定で無事、四段目の『枠外』に入ったのだろう。

 彼はクラスの誰とも仲良くしようしなかった。一番前のドア前の席でいつも小説を読んでいた。転校は慣れている、一人は慣れている。そんなことを口にしそうで、クラスの皆も感じ取っているのか誰も無理に関わろうとしなかった。友達と喋らなくなっていた私はいつも彼の死角からその姿を見つめていた。別に好意があるとかじゃない。好きとかよく分かんないし。ただ、一人であることを恥ずかしいと感じる私にとったら、気にも留めない姿は羨ましくもあった。きっと周りの言葉一つ一つに浮き沈みしないのだろう。私もそうであれたらどれだけ楽だったか。

 見るだけで関わることはなかった。偶然昇降口で鉢合わせしても無視したし、授業の一環で同じグループになっても、やっぱり一言も言葉を交わさなかった。私はきっと彼の目の中に入っていない。なのに私の目には入っていることが何か、嫌だった。負けたみたいだし、恥ずかしいし。

 憧れの存在であることを壊したくなかったのかもしれない。喋ってみたらめっちゃ面白い人だったら嫌だし、友達になったら意外にもしつこくねっとりした連絡を寄こすような人だったら嫌だし。

 だから私は彼を見るだけで、この距離を縮めることはしなかった。

 ただ、殺されたくはあった。どうして彼がいいのかって、そんなの理由はないし、分からないし、ただ何となく、何となく、彼がいいなって、ただそれだけ。



 中二の終わりが近くなって、卒業式の練習が始まった。喋ったこともない一個上にいたっだきます未満の感謝を込め、歌うフリをする。

 面倒くさい。何でこんな練習をしないといけないんだろう。義務教育ってホントに謎。

 彼はどうしているだろうと、横目で見ると、明後日の方向を見て歌っていた。視線を追って天井を見ると、鉄骨にバスケットボールが挟まっていた。

 クラスに戻ると、先生が「来年度からお前らが最上級生だ。後輩に先輩面する前にまずは自分の進路について考えろよー」と進路希望調査票が配られた。

 漫画家への未練が「こっちを見ろ」と言っているようで、寒気がした。

 提出期限は春休み前までで、教室の前方に張られたカレンダーを見ると、あと二週間もあった。いつものプリントなら提出期限は一日とか今週中なので、その間にゆっくりと適当なことを考えよう。ボケーっとそのまま、先生の話を聞いていると、私はふと思い出した。そういえば、彼も、いなくなるんじゃないのか。

 カレンダーを見返す。何度数え直しても、あと、二週間しかなかった。



 気付いていしまって以来、常に焦燥感に焼かれているようだった。自分でも何でこんな気持ちになっているのか分からなかった。どうすればこの気持ちから解放されるのか、その当てすらも見当たらない。

 ただ、彼がもうすぐいなくなってしまうと考えると、居ても立っても居られなかった。枕を振り回しても、誰もいない道路を全力で走っても、湯舟の中で叫んでも、何一つスッキリしない。

 私の答えは出ていないのに、時間だけが、どんどん先に行ってしまう。一秒ってこんなに早かったっけ。時計の電池を抜いても、翌日遅刻しただけだった。

 その翌日、「トマ、今日も遅刻する気か」とお兄ちゃんが私の部屋にノックもせず入ってきた。カーテンも開けず、ベッドでだらだらとしている私に「まだ春休みじゃないだろ」とカーテンを開けに、部屋の奥へと入ってくる。

 ノックしなかったことも、勝手に部屋に入ってくることも怒る気になれなかった。「そだねー」と返事すると「何かあったの?」とお兄ちゃんは首を傾げてきた。

 たまにこいつはシスコンなんじゃないかと疑う。まぁ、嫌じゃないからいいんだけど。


「……何か最近さー、何て言うの、変なんだよね。こー……ハッキリしないんだけど、モヤモヤするっていうか……イライラするっていうか……」

「え、好きな人でもできたの?」

「え? どうしてそうなんの? イライラしてんだよ? 好きなはずないじゃん」

「自分の想い通りにならないからイライラするんだよ。中二にもなってまだ恋を知らないのか」


 口を膨らませることしか出来なかった。お兄ちゃんには何人目か知らない彼女がいるし、私はこれまで好きな人が出来たこともなかったから。


「きっとお前の中ではやりたいことがとっくに決まってるんだよ。でもそれが駄目なことだって分かってるからイライラするんだよ」


 反論できず、私は黙ってお兄ちゃんに背を向けた。


「トマトが恋するなら、相手は芋かもなー」


 お兄ちゃんは軽口を叩いて部屋を出て行った。お兄ちゃんの言葉を胸の中で何度も繰り返したが、やっぱりこれが恋というのは納得出来なかった。

 一週間近くお兄ちゃんの言葉に悩まされ、春休み三日前になった。やらない後悔よりやる後悔、ということで私は意を決して手紙を書き、芋葉くんの下駄箱に入れた。


『明日、学校が終わったら体育館裏まで来てください。 トマト』


 この短い文章を書くのに一時間を費やし、下駄箱に入れるのに半日を費やした。緊張と不安のせめぎ合いで死にそうだった。いやいっそ死にたい。

 その日はろくに寝ることも出来ず、日の出を見ることになった。

 学校にいる間は顔を上げることも恥ずかしくてずっと床を見ていた。帰りのホームルームが始まると、怖気づいてきて、冷や汗が出てきた。

 あー、あの時計の電池も引っこ抜いてやろうか……

 ホームルームが終わると、皆の賑やかな声の中、芋葉くんは早々に教室から出て行った。私も行かなくちゃと思いつつも、トイレに行ったり、念入りに手を洗ったり、忘れ物はないかとロッカーと机を何度も行き来して、無駄に時間を潰した。

 学校の人気も部活動に励む生徒だけになった頃、私はようやく観念して体育館裏へと足を運んだ。もう帰ったかな、と角から覗くと、待ちぼうけて空を見上げている彼がいた。

 深呼吸。


「ご、ごめん……お待たせ……」


 彼の元へと歩み寄る。

 芋葉くんは緊張も何もしていないようで「大丈夫」といつもの澄ました顔をしていた。


「それで何の用?」


 言葉が詰まる。三日前は言おうと決めたのに、今は緊張が喉に詰まってしまっている。

 言おう。言おうと決めた。言うためにここまで来た。吐き出すように言葉を口にする。


「そ、その……芋葉くん、は……進路希望何て書いたの?」


 違う違う違う違う違う。そんな世間話をしようと思って呼び出したんじゃない。緊張のあまり関係ないことを口走ってしまうって本当にあるんだな、なんて思っていると、耳を疑うような返事が返ってきた。


「作家って書いた」


 脳裏に過る漫画家という言葉。私を狂わせて、苦しませる呪いの言葉。瞬時に思い起こされるのは『うん、全然駄目』と淡々と言われる現実の厳しさの数々。

 きっとこの人は他のクラスメイトと一緒でまだ夢を見ている最中なんだ。覚まさせてあげなきゃ。喉から手を出した私は、彼の足を掴もうとする。


「……作家って……狭き門って聞くよ? なれないかもしれないんだよ?」

「いや、なるよ」

「え……だから、なれないかもしれないって……」

「きっとなれるとか、努力すればとか、他人を気にするなとか、そんな月並の言葉を求めているなら先生にでも相談するといいよ。僕は君のために言葉を選んでいるわけじゃない。訊かれたから自分の考えを話しただけ」


 怯んでしまった。その力強い信念にあてられ、眩暈さえ起こしてしまいそうだった。用意していた言葉も落としてしまい、私は呆然としてしまう。


「呼び出したのって、進路が聞きたかっただけ?」

「……あ……うん」

「そっか。じゃあ引っ越しの準備があるから、じゃあね」


 そう言うと芋葉くんは後腐れなく、私の前から姿を消した。残された私は、落としてしまった言葉を拾い集めるためにしばらくその場にいた。

 一つ一つ拾って、確かめて、私の中にしまっていく。どうやら落ちたのは手元に用意していたものだけじゃなくて、私の中にしまっていたはずの言葉もあった。

 芋葉くんのさっきの台詞や、ネットで見た挫折の言葉、出版社、家族、友人達の声。

 最後に拾ったのは、今日言おうと思っていた「私を殺してください」という言葉だった。

 なんて恥ずかしいものを恥ずかしげもなく、私は披露しようとしていたのだろう。

 胸に抱えると、棘が突き刺さって、痛くて、泣きそうになった。



 中学二年生、最後の日。芋葉くんは引っ越しするということで顔を出さなかった。悲しむ所か、それを気に掛ける人は私を除いて、誰一人いないようだった。

 修了式を終え、空席になった角を見つめていると、「進路希望今日までだからなー」と先生が言って、私は我に返った。

 机の奥から引っ張りだすと、第三希望が空欄のままのプリントが出てきた。

 やばい忘れてた。全然調べてない。高校分からない。どうしよう。と、今学期一の頭の回転をさせていると、最後の挨拶が行われ、先生が教室を出ていこうとする。


「ま、待って」


 私はすぐに思い浮かんだ、いや、ずっとそこにあり続けた言葉、『マンガカ』と殴り書きをし、先生を追いかけた。

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浅はかな中に 樹一和宏 @hitobasira1129

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