薄い壁
樹一和宏
薄い壁
窓が震える。一月の冷えた空気が、不気味な悲鳴を上げていた。
時計を見ると、十二時半を回っていた。
そろそろだ。
部屋の明かりを消し、夜の暗闇と同化する。息を殺すと、六畳間の小さな部屋に時計の針が響いた。
存在を図られぬように慣れた足捌きで壁際まで移動すると、その時を待った。
鉄扉が開き、閉まる音。
……帰ってきた。
高鳴る心臓。用意していたグラスを取り出すと、そっと壁に当て、耳を澄ます。
すり足、照明のスイッチ、コートを脱ぎ、ハンガーに掛ける。
音だけのはずなのに一つ一つの動作が鮮明に見えるようだった。生唾を呑むのは、音を懸念して控えることにした。
隣人の音はいつものように移動すると、やがて風呂場に行き、シャワーを浴びだした。
頭に広がるのは、当然彼女が体を洗う姿だ。
潤い光出す黒髪、熱で高揚し出す頬、白い柔肌を撫でまわし落ちていく雫。
そこで僕は口いっぱいに広がっていた唾液をごくりと呑み込んだ。
隣人の生活音を盗み聞くなんて、気色悪い変態行為だと思う。だが僕は、それを分かっていながら辞められず、かれこれ三ヶ月が経とうとしている。
蛇口を占め、風呂場を出て、下着を履く。
その姿を想像するだけで、堪らなく興奮していた。だがまだだ、まだその時ではない。
隣人のルーティンワークを完璧に覚えている僕はこの後、何が行われるのか知っていた。
パブロフの犬が如く、その時が近づくにつれ、僕の興奮度も高まっていく。
ドライヤーの音が止むと、僕は待っていましたと言わんばかりに、されど粛々とズボンを脱いだ。
さて、そろそろ本番が始まる。
耳を澄ましていると微かに聞こえ始めてくる男女の声。女性が甘く鳴き出す。押し殺そうにも溢れ出てしまうのだろうか。甘美で、いやらしく、艶めかしいその声に僕は虜になっていく。交じり合う男女の声。声は次第に激しさを増していき、人であることを忘れ、獣へと変わっていく。そして、悲鳴にも似た声が一瞬、声は途切れ、尾を引くように荒くなった息だけが残る。
こんな事、辞めないと。
この後悔にも似た強固な決意は、翌日には綺麗サッパリ忘れ、僕は猿のように毎日同じことを繰り返す。
僕はこんな変態じゃなかったはずなのに。
万年布団に倒れ込むと、脱力した体はそのまま眠りへと落ちていく。消えゆく僅かな意識の中で、僕は隣人さんのことを考えていた。
※
それを目撃したのは、それこそ三ヶ月前のことになる。
雨が続き、洗濯物が干せない日が続いていた。僕は傘を片手にコンビニで昼食用の弁当を買い、自宅アパートへの帰路についていた。
アパート前に到着すると、何となしに顔を上げ、アパートの窓を見上げた。二階、普段は閉まりっぱなしの隣の部屋のカーテンが開いていた。ガラス越しに真っ赤な下着が干されていた。憂鬱な雲、気怠けな空気、暗雲を映したアスファルト。モノクロの世界に映る真っ赤なそれは異彩を放ち、妖美な力で僕を惹きつけた。
女性の下着は見たことがなかったわけではない。母親の下着や、デパートの売り場でだって見たことがある。だけど、他人が使用してヨレた下着というのは、また一段と違った魅力を持っていた。
あれ、でも隣の人って男だったような……
興味がないので正確には覚えていないが、たまにベランダに干されていた洗濯物や聞こえてくる話し声は男性のものだった気がする。
……彼女でもできたのだろうか。
下着を見て以来、僕は隣人を気にするようになった。
物音に耳を澄ませ、聞き耳を立てる。そうして見えてきたのは、やはり女性の姿だった。
以前は聞こえなかった髪乾かす音や、ヒールの足音が聞こえるようになったのだ。
何より決定打になったのは、夜な夜な聞こえ出した男女の声だった。映像で見るそれにはないリアルさと生っぽさは、そういった経験のない僕には堪らなく魅力的だった。
時には激しく、時には優しく。
隣人の彼女は一緒に住んでいるのか、通っているのか分からないが、週に三、四日。多い時には毎日。十二時半の終電に乗ってやってきているようだった。
顔も見たことないし、ハッキリとした声だって一度も聞いたことがない。それなのに、僕には彼女の姿が鮮明に見えていた。
長い黒髪に薄化粧、控えめな性格から隠し切れない清楚さが滲み出て、内包した気高さが身に付ける物に現れる。しかし触れれば壊れてしまいそうな繊細さは、装飾ガラスのように脆く美しい。正に僕の好みの結晶だった。
※
意識して隣の音を聞き始めてから一ヶ月が経った頃だった。
友人と終電近くまで飲み、僕は宙を滑るように帰宅した。沸々と湧いたような頭がハッとしたのはアパートの階段を登りきった時だ。
一瞬だが、隣の部屋に女性が入っていくのが見えた。さらりと流れる黒髪と精練された横顔。一秒にも満たないが、僕が恋に落ちるまでには充分過ぎる時間だった。
それから僕は駄目だと分かっていつつも壁に耳を当てるようになり始めた。外に出れば必ず窓を見上げ、終電が近くなると居ても立っても居られなくなる。終電の時間に合わせ、コンビニに行き、偶然を装って会おうかとも考えた。
だけどその度に、彼女には彼氏がいることを思い出す。煮えたぎる嫉妬と、実る当てもない恋心が幾重にも重なり、物音一つ一つに一喜一憂を繰り返す。
仕事している時も、友達と談笑している時も、頭の片隅にはいつも彼女がいた。
ふとした瞬間、もう一度彼女を見たいと思った。一度それを思い立ってしまうと、振り払えない霧のようにいつまでも纏わりついてしまう。
あんな一瞬の横顔ではなく、ちゃんと真正面から。
終電の時間に合わせ、コンビニに行くようにした。日に日に増えるレジ袋とは裏腹に、彼女の顔を拝めることは一度もなかった。
燻ぶった気持ちを晴らすのに、一服することにした。寒くなってからは換気扇の下で吸っていたが、たまには頭を冷やすことにしよう。
ベランダに出ると、十一月の冷気が気持ち良かった。大分体が火照っていたようだ。
煙草をゆっくりと吸い、吐き出すと、吐息の白と煙草の灰色が混ざることなく消えていく。同じ煙のように見えるのに、相反して二つは交じらい。人間みたいだ。
隣の部屋を見ると、電気は点いていたが、カーテンが閉め切られ、中の様子は分からなかった。……と思いきや、よく見ると左右のカーテンの間に隙間が出来ていた。
時刻は深夜の一時近く、ベランダが見える範囲に人通りは一切なく、辺りは闇で静まりかえっている。
『……少しぐらい覗いてもバレないのでは?』と耳元で悪魔が囁いた。
直後、『そんなことをしてはいけません』と天使が反論する。
魔が差した、というのはこういうことを言うのだろう。僕は引力に引っ張られるように、柵から身を乗り出した。
『駄目です。バレたらどうするんですか!』
『うるさい! 喋ったらバレるだろ! 静かにしろ!』
時期外れのうるさい小バエを手で追い払う。
足を柵の外に出す。下を見ると、たったの二階だというのに中々の高さに感じた。体を凍らせようとしてくる冷気のせいか、肝まで冷え切ってしまう。外灯でぼんやりと光るコンクリートが、不気味に呼んでいるようだった。
一メートルもない距離なのに、恐怖心も相まってたった一歩が踏み出せない。宙を掻く右足をジリジリと隣のベランダへと伸ばしていく。
あとちょっと。あと数センチ。
指先を伸ばすと、サンダルが足から取れかかった。駄目だ、良くない。サンダルが落ちないように指先で工夫を凝らすと、今度は太腿がつりそうになる。
それはもっと駄目だ。
サンダルと太腿。足場の悪い場所で絶妙なバランスを取っていく。ゆっくりと足を戻していく。が、サンダルはつま先へとズレ込んでしまった。
やばいやばいやばいやばいやばい。
このままでは落としてしまう。サンダルを元の位置まで戻そうと足を延ばせば太腿が、太腿を守ろうとするとサンダルが。前へ後ろへ、上へ下へ。
真夜中のベランダで、男が一人そうする姿は実に奇妙な絵面だろう。
太腿が悲鳴を上げ、ピクリと足が跳ねたその瞬間、遂にサンダルがつま先から外れた。
「あっ!」
無意識に漏れた声と、一階のベランダに落ちたサンダルの音が閑静な住宅街で大きく響いた。
そこからはもう太腿とか気にしている余裕さえなく、一目散に自分の部屋へと避難した。
少しの間を置き、カラカラと隣と一階の窓が開く音がした。
部屋に転がった僕はというと、目撃されなかった安心感よりも結局つってしまった太腿に悶絶していた。
※
二ヶ月が経った。風が吹いたり止んだりを繰り返し、窓が時折強く叩かれていた。そんな音に紛れ、ベランダの方からガタンと何かが落ちる音がした。良くない音に釣られてベランダを覗く。
ハンガーと一緒に、白い無地のTシャツが落ちていた。
今日は洗濯をしていないから僕のではない。となると……
案の定、隣のベランダを見ると似たような洗濯物がずらりと並んでいた。
どうしよう。
選択肢は三つあった。一つ、素直に届ける。二つ、見て見ぬふりをする。三つ、隣のベランダに放り投げる。
雀の涙程度だが、正義心を持つ僕には見て見ぬふりをするのは出来なかった。だが、かと言って素直に届けるほどの度量は持ち合わせてもいない。最も気楽に出来るのは三つ目の隣のベランダに放り投げることだ。
深く考えることなく、ヒョイと投げようとする。その時、天才的なひらめきが頭過った。
ここで直に届けに行けば、彼女の姿が拝めるかもしれない。
偽善だが、建前を持ってしまうと気持ちが楽になった。咎められる言われがないのだ。
奇しくも今日は日曜日。彼女が来ていることが多い日だ。
僕は休日だからと放っておいた髭を剃り、コンビニに行く以上に気を使った外行きの服を着た。頭の中では既に仲良くなるためのイメージ会話が出来つつあった。
「こんにちは、隣のものです。洗濯物がウチに転がって来ていましたよ」
「あらそれはすみません。ありがとうございます。あなたお優しいのね、丁度今、彼外出しているの、中でお茶でもどうですか?」
なーーーーーーーんて。
三十分掛けて準備を終えると、僕は隣の部屋のドアの前に立った。
小学生の時、好きな子の家のインターホンを押した時のことを思い出した。緊張で喉が渇く。あの時は確か、お母さんが出てきたんだっけか。
えっと、その後はどうなったんだっけ……
震える指先でインターホンを鳴らす。ドキリとする電子音が鳴った。
しばらくして「はい」と無愛想な男の声が聞こえた。
え、えっと、何だっけ、何て言うんだっけ。
頭が真っ白になっていた。取り繕うように反射的に言葉を出す。自分でも何を言っているか分からなかった。
やれやれと言った具合に、足音が近づいてきた。鍵が外される音が鳴り、ドアが開いた。
「お隣さん? 何ですか?」
スウェット姿の男性が、さも今起きましたと言わんばかりに出てきた。
「あ、洗濯物……すみません、ありがとうございます」
ひったくられるように洗濯物を持っていかれると、早々に扉は閉まった。
呆然としてしまっていた。駆け抜ける空気が僕を嘲笑っていく。
十秒も掛からなかったのでは?
少しだけ見えた部屋の奥にも彼女の姿はなかった。
溜息が、風に吹かれて飛んでいった。
※
一方的な片想いをしたまま、三ヶ月が経ち、今に至る。昨夜の盗み聞ぎの後悔も忘れて、僕は今日も虚しさを抱えたまま生きていた。
すれ違う女性の顔をチラリと覗き、この人ではないと期待と失望を繰り返す。曲がり角にも、信号待ちの向こうにも、行き交う人混みの中にも、彼女はいないと分かっている。それなのにもしかしたら、偶然にも、奇跡的に、と有り得ない期待を抱いてしまう。
彼女の顔だって一度だけ、しかも一瞬だけしか見たことないのに、どうしてこんなにも求めてしまうのか。彼氏がいることだって分かっている。なのに、何故こうも彼女のことばかりを考えてしまうのか。
以前は可愛いと思っていた同僚の女性でさえ、今では一ミリ足りとも可愛いと思えない。
仕事帰りにコンビニで晩御飯を買い、死人のような足取りで帰路につく。
人一人好きなっただけで、世界は色を変えてしまった。届くはずのない恋は、否応にもなく僕を苦しめていく。
踏切が鳴り、僕は足を止めた。頭に響く赤い音。時刻は八時半。冬の闇夜に点滅する赤が、口から漏れる白い息さえも染めていく。
カンカンカンカン。
亀みたいにコートの中に首を引っ込める。誰かが僕の横に立った。
何んとなしに横目で見た瞬間、時間が止まったような錯覚に陥った。
そんな馬鹿な。ありえるはずがない。こんなことがあるはずがない。
電車が駆け抜け、横顔を隠していた髪を僅かに退ける。
彼女だった。
凛とした表情は前だけを見据え、白い肌に乗った赤い光が綺麗に反射する。
唖然とした。バーが上がると、彼女はヒールを鳴らして歩き出した。何かの見間違いかもしれない。未だに信じられずにいた僕は歩く速度を落として、彼女の後ろについていくことにした。
彼女が曲がれば僕も曲がる。決してストーカーをしているわけではない。偶然にも帰り道が同じなのだ。それにしてもさっきから良い匂いがするのだが、気のせいだろうか。
期待と不安に煽られながら遂に僕のアパートの目の前までやってくる。通り過ぎるのか、階段を上るのか。
少し遠目で見ていると、彼女はアパートの階段を上がった。
「……うっそだろ……」
更にそのまま見ていると、隣の部屋の電気が点いた。
堪らなく嬉しかった。喋ったわけでもないのに心の距離が縮まったような気がしたのだ。
その日の夜もいつものように盗み聞きをした。いつにも増して、今日は格別な気がした。
※
二月になった。休日にやることもなく、隣からも物音一つなく、やることがなかった。
ここ連日エアコンを点けっぱなしにしていてそろそろ電気代が怖くなってきた僕は、朝から文庫を三冊持って近所の純喫茶へと足を運んだ。
おかわり自由のコーヒーを一杯頼み、窓際の席に着くとここでしばらく根を張ることにする。
小洒落たジャズが店内に流れていた。
最初に読み始めることにした小説は、ついこの間映画化した有名なものだ。所謂恋愛小説というもので、主人公が病気のヒロインのために一夏の思い出を作ろうとする話だ。
あらすじから読み取れるように、物語の合間に泣かせようとする文章が入ってくる。だけど、捻くれた僕には残念ながら胸に突き刺さるものはなく、淡々とページを捲った。
姿勢も段々と悪くなり、いつの間にかテーブルに凭れて本を読んでしまっていた。少し飽きたな、とあくびを一つ掻く。本から目を離すと、雨が降っていた。
予報では雨はなかったはずだ。通り雨だろうか。歩道を行く人々は皆駆け足で、傘を持っている人はいなかった。
そういえば、初めて下着を見た時も雨が降っていたっけ。
物思いに耽っていると、出入り口の鈴がノスタルジックな音を鳴らした。
「いらっしゃいませ」
年季の入った店長の声。振り向くと、出入り口には真っ赤なワンピースの女性がいた。
そうそう、丁度あんな感じの色の……
彼女だった。
花の刺繍が入った上品なハンカチで濡れた腕を拭いていた。
「タオルをお持ちしましょうか?」という店長に首を横に振る。
まさか真っ昼間からこんな所で出くわすと思わなかった。神様の存在は信じてはいないが、こんな偶然があると、流石に運命の存在ぐらいは信じてしまいそうになる。
ヒールを鳴らし、彼女は僕の三つ隣の席に着いた。水を運んできた店長に、メニューを指差す。次に運ばれてきたのは、甘い匂いのする飲み物とスコーンだった。彼女はぼんやりと外を眺めながらそれを少しずつ口に運んでいく。
目で文字を追い掛けるも、内容は一切頭に入ってこなかった。こんな状態でまともに本が読めるはずがない。何度も横目で彼女の姿を確認し、一挙手一投足に見入ってしまう。
話し掛けたかった。今は部屋の薄い壁も、夜の暗闇だって存在しない。声を出せば、振り向いてくれるはず。
話し掛けろ。話し掛けろ。
鼓舞するも、その一言が声に出せない。心臓の音が大きく、早くなっていくのが分かる。
早くしないと、彼女は行ってしまう。
「あ、あの」
彼女の首がこちらを向く気配。今、顔を向ければ彼女と目が合う。念願にして、夢にまで見た、その瞬間を迎えることが出来る。
止まるな、躊躇うな、勇気を出せ。そして僕は「店長、おかわり」と言った。
「はい、ただいま」
言えなかった。言えるはずがなかった。この二十数年間で一度だって告白をしたことがないのだ。そんな勇気を今更持てるはずがない。
白いカップにコーヒーが注がれ、スティックシュガーが一本置かれた。
なんて意気地なしなんだ僕は。このままでは彼女を振り向かせるどころか、一生彼女なんてできっこない。
砂糖と一緒に陰鬱な溜息がコーヒーに注がれる。
視線を感じ、顔を横に向けた。目が合った。彼女がこちらを見ていたのだ。心を盗まれた、と表現しても過言ではなかった。
雨が止み、雲の切れ間から光が差す。憂鬱とした空模様が一転、窓に付く雫が七色に輝き出した。
止まっていた僕と彼女の時間が動き出す。先に動いたのは彼女だった。まるで知人に見られたくない所を見られたかのように、彼女は赤面し、顔を隠すように俯いて正面へと向き直る。
なんだ今の可愛い動作は。
彼女の食べるスピードは途端に早くなった。スコーンを食べ終え、飲み物を飲み干すと、足早に逃げるようにして彼女はお店を出て行った。
どうしたのだろうか。思い当たることが何もなかった。僕は一方的に彼女を知っているが、彼女が僕のことを知っているはずがないのだ。
胸一杯に広がる不安。結局その日は一冊も本を読み終えることが出来なかった。
※
あれからまた一ヶ月が経ち、三月になった。
卒業シーズンなのか、電車には袴を来た女性や、花束を持った人達をチラホラと見掛けるようになり、夜の居酒屋からは大学生の最後の雄叫びを見掛けることが度々あった。
通勤途中に顔を上げれば、並木道が色鮮やかな桜を咲かせ、ふと風が吹けば、ひらひらとピンク色の花びらが目の前で優雅に踊った。
春を出会いと別れの季節と言うなれば、僕もそろそろ目の向き所を変えなければいけないのかもしれない。叶う当てもない恋をいつまでもしていても時間の無駄だ。
来月からは新入も入ってくる。もしかしたらその中に恋人候補が見つかる可能性だって無きにしも非ずだ。
一人で勝手に恋をし、一人で勝手に別れを決めた僕は、最後に一目見たいと街中を散歩することにした。
最初は部屋に入る瞬間、その次は踏切の待ち時間、最後は喫茶店で、と僕の恋は全て偶然の上で成り立っている。こうして街を歩けば、またも偶然に会えるのではと思っていた。
だが当然、道行く人々の中に彼女の姿はない。
思い返せば、終電の時間に合わせてコンビニ通った時も、ベランダから覗こうとした時も、洗濯物を届けに行った時も、僕から行動した時には一度も彼女を目にすることは出来なかった。
いつだってそうだ。求めている時に、求めるものはない。
こりゃ失敗したな。
僕は今、彼女に会いたがっている。ならば、会えるはずがない。
生き生きとした桜のトンネルを僕は歩く。葉擦れの音が、顔を上げろと僕に呼び掛けてくるが、そんな気分ではない。
うじうじとした僕を慰めるように、包み込むような追い風が吹いた。足元を転がる花びら。転がっていく様を追って顔を上げると、そこには彼女がいた。
奇跡かと思った。いや、実際に奇跡だったのかもしれない。
歩いてくる彼女と、僕の距離が縮まっていく。
声を掛けよう。
自然と思った。元々叶わぬ恋、駄目で元々、何もしないで終わるより、何百倍もマシだ。
彼女との距離はもう数メートル。駆け出せば一瞬の内に手が届く。
その瞬間、ピンク色の観客達が僕を応援するように一際大きな歓声を上げた。葉擦れ音。一瞬遅れて、一際大きな風が吹く。
桜が散り、彼女の髪が揺れ、そして、髪が落ちた。
彼女の長い黒髪がコロコロと転がり、僕の足元へとやってくる。
僕と彼女の間の時間が再び止まった。永遠にも似た一瞬。先に動いたのは僕だった。
黒髪を拾い、彼女だった彼に差し出す。
「あの、落としましたよ、これ」
その顔は正しく隣人の男性だった。顔を真っ赤に染めた隣人はひったくるようにカツラを手に取ると「ありがとうございます」と顔を伏せたままヒールを鳴らし、足早に僕の前から去っていった。
春の風が僕に、奇跡を運んできた瞬間だった。
薄い壁 樹一和宏 @hitobasira1129
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