第12話 Now I'm Here

「あなたと出会った日のことはね、よく覚えているの。あの日私はあの地方で開催されたある競技ダンスの大会に出場していた」

 あの日、あの冬の日。僕の意識は途端に当時に向けられる。凍てつく寒さも輝く月も感じられるようだった。

 彼女はその大会で準優勝という成績を修めたのだが、内容としてはお粗末なもので納得できるものではなかったらしい。それだけでもうんざりした気分だというのに、そのとき限りで組んだというパートナーはしつこく彼女を誘ってきたのだそうだ。

「練習中もやたらめったら触ってきていたし最悪だった」

 彼女は衣装から着替えるとそのまま会場の外へ飛び出した。火照っていた身体が急激に冷えていくのを感じながら、このイラつきも冷えてくれるのを待った。街を早歩きで歩いているうちにいつの間にかあの細い通りにたどり着き、目に入ったのがグレープジャンキーだったということらしい。

「そこでも下手くそな演奏を聞かされてますます最低な気持ちになったけど、あなたが声をかけてきた」

 バーカウンター。つまらそうな顔でつまらなそうに酒をあおる彼女。

 僕はあのとき今となっては顔も思い出せないメンバーと演奏しながら、ステージの上から彼女のことを捉えていた。すぐに声をかけなければ、そう考えていた。

「運命的な出会いだったでしょう」

「どうかしらね」

「気分転換にはなりましたか」

「まあ、そうかもしれないわ。あなたがかわいらしくてね。遊んでみたくなったのよ」

「ありがたいことですね」

 不思議なものだ。あのとき僕たちはセックスして、それだけのはずだったのに、今こうして二人でいる。なんという繋がりだろう。

「それで、あなたとのことがあって少ししてからイギリスに行って向こうで生活したわ」

「結婚はそっちの男と?」

 僕の言葉にピクリと小さく反応し、彼女は少し間を置いてから「ええ」と答えた。無意識だろうか、薬指のそのリングをなぞるように触っていた。

「夫でありダンスのパートナーよ。一応ね」

「絵にかいたような物語ですね。順風満帆そのものじゃないですか」

 僕は素直に感心して言ったが、彼女は眉間にしわを寄せた。

「ここまでは前置きみたいなものよ」

「前置きですか」

「私、初めて会ったときから思ってたの。きっとあなたと私は似ているって」

「似ている?」

「さっきの話を聞いて確信したわ。間違っていなかったって」

 テーブルに手を伸ばした彼女は、ようやく持てるくらいの温度になったのか、コップを縦に挟むのをやめていた。傾けて口まで運ぶ。のどの鳴るのが聞こえた。

「私もね、切られたのよ」

「え?」

 さっきとは逆に今度は僕が驚いた。

「夫に」 

 にわかには信じられないことだった。彼女が切られたということはもちろん、切った相手が彼女の夫ということも、簡単に飲み込めることではない。

「どこにでも転がっている話よ。彼は私以外にも親しくしている女がいたってだけ」

「不倫ってことですか」

「そう。しかも一人じゃなくて何人も。笑えるでしょう」

 彼女を手にしてそんなことができる男がいるだろうか。いるだろう。自分のものになった女に男は興味を失くす。重要なのは手に入れるまでの過程だ。僕は経験としてそれを知っている。

 彼女は紙コップを勢いよく握りつぶした。飲み干していたのかコーヒーが飛び散ることはなかった。

 今まで彼女は貪欲に自分の理想を追い求めてきた。その理想を実現したとき、彼女は満足してしまった。それが油断となった。

「私にとっては最高のパートナーだったけれど、彼にとっては違っていたということね。まったく皮肉なことだわ」

 彼女はつぶしたコップをイスの後ろにあるゴミ箱に投げ捨てた。

「怒っているんですね」

「悲しみに暮れて泣くような女が好み?」

「まさか」

「あなたはそうよね。私もそう。そのまま黙っているなんてできるわけがない。そのとき私にあったのは純粋な怒りだった」

「それでじゃあ、なにをしたんですか?」

「寝ているときにトロフィーで思いきり足を殴ったの」

 最初から話をするつもりはなかったのだという。問い詰めてもはぐらかして逃げるだろうと考えた彼女は先手を打った。

「彼が寝起きと痛みで混乱している間に集めた証拠をたたきつけたわ。離婚するって言葉とともにね」

「わお、それは痛快ですね」

「そのとき私は流れに逆らったのを感じたわ。殴らなければかりそめでも、表向きは幸せに見えていたでしょう。でもそれを私は許せなかった」

 彼は痛みにうめきながら謝罪したそうだが彼女の気持ちは固まっていた。お情けで夫を入院させ、彼女は日本にやってきた。

「だってあんな私以外の女が出入りした家なんかにいられないでしょう」

 当然だというような態度を取ったあと、彼女は突然笑い出した。

「なんです?」

「数日前に雑誌のインタビューがあったけれど、後半はずいぶん適当なこと言っちゃったなっていう、思い出し笑いよ」

 幸せじゃないと言っていたけど幸せそうに見えた。いい笑顔だった。

 彼女は再び指輪を触っていた。なぞっているように見えていたけど実は外そうとしているようだった。僕の視線に気づいた彼女は言った。

「本当は外そうと思えば外せるのだけど、まだ外さない。彼の前で外さなければ意味がないのよ」

 イギリスでイギリス人と離婚するためには裁判が必要で、日本のように紙に記入して役所に提出すれば完了というわけにはいかないらしい。その全てが終わったときに外すつもりだと彼女は説明してくれた。

「それで今後はどうするんです?」

「どうしましょうね。イギリスの家には戻りたくないし、ダンスもパートナーがいないし。なにも決めてないわ。でもなにも決めなくていいのかもしれないわ。さっぱりした気分よ」

 したたかな人だ。

 家庭もダンスも失ったというのに、彼女のこの晴れやかさはどうしたことだろう。常人ならすっかりふさぎ込んでしまってもおかしくないこの状況に、彼女からは負のオーラをまったく感じない。美しく、気品があり、たおやかさを備えている。彼女はどこまでも彼女のままだった。

「お手洗いはあるかしら?」

「出て左の突き当りです」

「借りるわね」

 そう言って立ち上がった彼女は、だけどなかなか戻ってこなかった。僕が空っぽになったカップに二杯目のコーヒーを注いで、その中身が半分くらいになってもだ。人を待つということに対して僕は全く抵抗がない。相手が彼女ならなおさらのこと。しかしあるいはもしかしたら、裏口から出て行ってしまったのかもしれないなとも思った。彼女ならありうる。もしそうだとしたら、僕にとってはとても残念なことではあるけれど。

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