第11話 show must go on

 エアコンがやけにうるさく音を立てる。部屋は生暖かい。

 思うにあなたは、と彼女は僕に指を指した。

「失敗してもすぐに立ち上がるタイプなのね」

「深く考えてないだけですよ」

「それでだいたいのことは好調な滑り出しになる」

「ありがたいことに」

「今のところ今度は失敗するように思えないけれど」

「ええ」

「でも今あなたがこの楽器屋にいるということは、なにか起きてしまうんでしょうね」

 妥当な推測だ。でも違う。

「いいえ、なにも起きないんです」

「え?」

 珍しく彼女は驚いた表情を浮かべた。一本取ったような気がして嬉しかった。

「僕の世界はそれでいっぱいだったんです。ソロ活動を始めてからしばらくして、僕は気づいたんですよ。なにも変わっていないということに」

「変わっていない?」

「それは僕にとって、いやミュージシャンにとって致命的でした」

 よく覚えている。なかなか忘れられそうにない強烈な記憶だ。その致命傷に僕は最初気づけなかった。やがて痛みがじわじわと広がってきてようやく、僕は理解することになる。

 チケットの売れ行きが横ばいだということ。

 ライブに来る客はいつも同じ顔ぶれということ。

 会場のキャパシティはいつまでも大きくならないということ。

 新しい曲をリリースしたところでダウンロード数は増えないということ。

 これらが示すのはつまり、新規のファンを獲得できていないということ。

 僕の音楽を聴きに来る人々は固定化されていて、それ以上増えやしない。

「思いつく手は打ったんですけどね」

 ネットを通じて知り合いに宣伝してもらったり、ラジオで流してもらったり、グッズに力を入れてみたり、曲にゲストを呼んでみたり。でもどれもが決定的なものにならず、瞬間的な盛り上がりを見せてもそれを続けることができなかった。

 今までのバンドが成功したのは、あるいは成功しかけたのは、僕の力じゃない。僕以外の誰かにどこかに魅力があった。僕はたまたまいっしょに乗っかっていただけの乗組員だ。二個目のバンドの、注目を集めたきっかけは確かに僕だったが、それは注目を集めただけだ。人気者にし、牽引してきたのは僕の力じゃない。


 僕には才能がないと、そこで思い知らされた。


 あると信じて疑わなかった才能はなかった。僕の人生はいいものなんかじゃなかった。僕という列車のレールを進んでいっても、どこにもたどり着けはしない。なにもない道がただ、延々と伸び続けているだけだった。

「自分を特別な人間だと思い込んでいた、そのなれの果てがこれですよ」

 それでもありがたいことにファンは一定数いるのだから活動自体は続けられたかもしれない。だけれど僕はそこに意味を見出すことができなかった。そんなもの、文化祭で披露する高校生と同じだ。身内が楽しいだけのもの。

 だから僕はギターを捨てた。とことん軽薄な奴だ。ベースもギターも、こんなにもあっさりと手放せる。

 そうしたらほら、なんにもない人間の出来上がりというわけだ。

「それでさっきちょっと登場した、ライブハウスで働いているひげ面で四十代に見える例のやつにここのオーナーを紹介してもらったんです」

 五十代だというオーナーは寡黙でいつも唇をとがらせているが、怖い人ではない。挨拶した僕を見て察することがあったのだろう、仕事内容だけを説明し、僕になにか質問してくることはなかった。「オレもお前みたいなもんだ」と僕の肩に手を置いて寂しげに自嘲気味に笑った。

「ま、明日から頼むよ。やることやってりゃすきにしていいから」

 すぐに穏やかな春の雲みたいな生活が始まった。リクガメみたいなと言い換えてもいい。この店だけ取り残されているんじゃないかと錯覚するほど時間の過ぎるのが遅かった。床を清掃し楽器を軽く拭いて、レジ金を用意し、店内にBGMを流してそれで店の開店準備は終わり。あとはやってくる客を相手するだけ。

「僕は楽器を弾く人間だと思っていました。でも実際は楽器を売る人間だったんです」

 特別楽器に詳しいわけではないけれど経験則からわかることもある。それを活かしながら客と会話をするのは思っていたより悪いものではなかった。楽器を購入した彼らが店を出るときは、決まって期待と興奮の混じった顔をしていく。僕は店の前まで見送りしてその背中が見えなくなるまで立っている。

 店に置いてある雑誌の表紙には僕の首を切ったバンドが載っていた。全国ツアーにドラマ主題歌、ニューアルバム制作についての記事だった。

 僕はセックスにも積極的じゃなくなった。抱いたとしても背中に快感が走る以前のような快楽は得られなくなっていた。それを否定しようと繰り返しても、そのたびに裏切られた気分になるばかりだった。

 一気に話して疲れた僕がパイプ椅子に思いきり寄りかかると、背もたれのあたりが軋んだ音を立てた。彼女はなにも言わず僕を見ている。

 しくじったな。

 剥がれていくのを自覚していた。彼女の前で演じていた僕のコーティングが、乾燥したペンキみたいに。タネを明かされたマジシャンには誰も興味を持たないと知っているのにどうして話してしまったのだろう。すっきりしたようなイラついているような妙な気分だった。

 やがて彼女は唇をひらいた。

「あなた今、幸せ?」

 問われると、すぐに答えられなかった。そんなことを聞かれるとも思っていなかったし、そういう物差しを持ち出す発想がなかった。確かに僕は、はたから見ると夢破れた愚かな男とか無鉄砲に突っ込んでいってあっさりくたばったバカなやつだとか評されるに違いない。はたから見なくたって、僕自身わかりきっている。

 幸せとはなにかなんて話をするつもりはないけど、精神的充実度とでも表現した場合、今の僕はそれほど悲観的な状態ではなかった。以前に身を置いていた環境とは大きく変化があった。仕事内容も接する人々も収入も。でも僕はそれを受け入れていた。地に足のついている感じが意外と性に合っていたのかもしれない。このまま平坦な道を進んでいく選択も良しとできる、自分を俯瞰的に見る成長さえしていた。

 僕は環境に適応するのに長けている。この生活にもすっかり馴染んでいた。

「胸を張って幸せといえるわけではありませんが、少なくとも不幸せでありません」

「ぬるま湯ね」

 彼女は僕の答えをすぐさま一刀両断にした。呆れているようだった。

「この状態を許せるなんて、あなた、大したものだわ」

「どういう意味です?」

「私の話を聞きたい?」

 質問に答えず彼女は聞いてきた。目つきがさっきのそれとは違うものになっていた。そこには怒りが感じられた。僕は譲った。当然だ。自分のことなんかより、よほど彼女のことを知りたかったのだから。

「人生は水のように流れてそれに身を任せているだけだと言ったけれど、私は今、その流れに逆らってその場に留まっているのよ」

 時折のぞかせる彼女のよくわからない言い回しだった。僕は先を待つ。

「私はね、今まで望んだものは手に入れてきた。でもじゃあさぞ幸せなんでしょうねって聞かれても、幸せなんかじゃ、全然ないのよ」

 怒りが落ち着いたのか彼女はおもむろにコートに手を突っ込んでタバコを取り出そうとした。しかしその直後に禁煙だということを思い出したらしい、動きを止めた。いいですよと言ってあげたいところだけど言えなかった。彼女に天井を目で示すと、「ああ」と納得したようだった。火災報知器がついている。

 僕は苦笑いした。僕も何度も同じように、吸おうとして気づいて止めるというのをやっていた。

「まったく喫煙者に優しくない店です」

「ルールは大切よ。楽器が燃えたら一大事ですものね」

 それよりも、と彼女は言葉を切った。吸えないことを気にしている様子はなかった。一息ついて彼女は話し始めた。

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