第13話 keep yourself alive①

 店の表側から音が聞こえた。スネアを叩く音だ。僕は驚いて、慌てて音の鳴るほうに行った。彼女がドラムセットの前に座っていた。どこかに行ってしまったのかもというのは杞憂だったらしい。

「裏から出て、また表から入ってきたんですか」

 僕を一瞥し小さく余裕たっぷりにうなずいた。そのまま出て行ってしまうということより、よほど突拍子もない行動だった。どうしてそんなことを。

 彼女は一呼吸置いたあと、手に持ったスティックをでたらめに振り回し、同じくでたらめにハイハットやタムを叩き始めた。おもちゃを手に入れた子供のような無邪気さだった。


 だんだんたたたたちーんどんばんぱーんたーんとことこちーんだんだんぱん


 ほかの楽器に囲まれて響くその音はひどく間抜けだ。シュールなコントのように思える。彼女はなおも腕をとめようとしない。僕は呆れているような笑ってしまうような気持ちでいた。最後にペダルを踏んでバスドラムの重たい音を鳴らすと、彼女の演奏――と表現していいものか――は終わった。

「残念だけど、ドラムの才能はなさそうですね」

 冗談を言うと、彼女は立っている僕を見上げて唇の端を釣り上げた。満足げな表情をしている。なにかスポーツをした後みたいな、疲れと爽快さの両方を感じさせるような顔だ。その表情を僕は知っているような気がした。初めて見るはずなのに。

「あなた、なにか弾いてみて」

 彼女は壁にかけてあるギターを指さして、突然そんな要求をしてきた。「なにかは弾けるでしょう」

 僕は戸惑い気味に答えた。彼女の意図をつかみ損ねていた。

「そりゃ、弾けますけど。いったいどうして」

「私、実のところあなたの演奏って一度しか聞いたことないから。聞いてみたいの。いいでしょう?」

 出会ったときのライブのことだ。

 正直なところ、あまり気乗りしなかった。だって僕はもうアーティストじゃない、楽器を捨てた人間だ。楽器を触っている時間より、レジで金を数えている時間のほうが長い。最後に人前で演奏をしたのがいつだったかも思い出せないほどだ。

「弾かなくちゃいけませんか」

「なにか問題が?」

「なにか試されてます?」

「いいえ、なにも」

 僕は諦めた。近くにあったアコースティックギターを手に取る。こんなのただの戯れだ。軽く流してさえすればいい。客が試奏する前にこちらでチューニングをするみたいなもの。

 ネックを持つと違和感を覚えた。こんな感覚だったろうか。慣れた手触りのはずなのに、どうにも妙な感じがする。彼女の前だから?

 僕は頭に瞬間的に浮かんだある有名な洋楽を弾いた。簡単なコードで構成されていて、日本人でも誰でも耳にしたことのある曲だ。

 サビに差しかかると彼女が歌いだした。透明感のある声だった。僕は彼女が表紙になっていた雑誌を思い出した。あの写真の力強い彼女とはまた別の美しさがあった。

 寒い店内のはずなのに、僕ははっきり身体の熱くなっているのを感じた。緊張と高揚の入り混じった独特の状態だ。熱いのに、そのくせ指先は冷たい。だけどそれぞれの指はしっかり動いて弦を押さえている。二番までを弾き終えて、特徴的なソロパートがやってくる。今まで何億人がそのメロディーに心を打たれてきたのだろう。偉大なフレーズだ。

 ギターの音と彼女の声がシンクロし増幅して、この狭い店を満たしていく。僕は刹那、今自分がなにをしているのか見失ってしまいそうになる。これは本当に自分の演奏している音なのか。このギターはこんな音がするものだったか。

 観客のいないのが惜しい。きっと誰もが聞き入ってしまうに違いないのに。

 最後の音が空気を震わせ広がっていく。やがて空間に染み込んでいくかのように消えていく。

 信じられない思いだった。難しくない曲とはいえ弾けたこともそうだけど、それ以上に、この、底からなにか突き上げてくるような感覚。肩で息をしていることに気づく。手が震えている。

 しばらくの間無音の時間が続いた。それは心地の良い時間だった。彼女が少ししてから言葉を発した。

「私はね、あなたにも腹が立っているのよ」

 立ち上がって、彼女は店内を歩きだす。そのたびに踵が鳴った。僕は呼吸の調子を取り戻そうとしていた。

「さっき、あちこち楽器を触ってわかったけど、どれも丁寧に拭かれているわ。ホコリ一つない」

 壁にかけてあるギターを指先でなぞる。その動きですら、ダンスの振り付けのようだった。

「当然ですよ。売り物ですから」

「それだけ?」

「どういう意味です?」

 僕はどうにも彼女の意図をつかみ損ねていた。主導権はいつの間にか彼女にある。僕は探偵の助手のように質問を投げかけるばかりだ。僕の知らないところで彼女はなにかの真相にたどり着いている。

「あなた本当に今のこの状態を許せるの? 不幸せじゃないですって? 冗談でしょう?」

 さっきの怒りが再燃していた。話しているうちに熱が入ってきたようだった。眉間にしわをよせて険しい顔をしている。しかしそれすらも魅力的に見えた。こんなときでさえ彼女は整っている。僕をまっすぐ見据えるその瞳もだ。

「あなた、まだ楽器を弾きたいと思っているじゃない」

 そんなことないです、と言おうとして、言えなかった。ジョークでしょ? と笑うこともできなかった。僕はそのことを散々考えてきた。結果、僕はアーティストを降りた。とうの昔に答えの出た問いを今更引っ張ってこられたところで、結論は変わらない。それでも僕がその言葉を言えなかったのは、彼女があまりにも確信をもって僕に訴えていたからだった。僕はその瞳から目を逸らせない。

「枯れたフリをしないで。自分自身を偽らないで。今の演奏はなによりも雄弁だった」

「僕に、どうしろっていうんです」

「あなたは楽器を弾くべきよ」

 彼女は僕をどうしたいのだろう。これは、なんだ、説得か。

「弾いたってなんにもなりはしませんよ」

「でも弾きなさい」

「どうして」

「そうしないと生きていられないでしょう。私は踊るわ。だからあなたは弾きなさい」

 彼女はその場でくるりと一度ターンをしてみせた。軸の全くぶれない美しい回転。そしてそのまま、手を差し出した。

 僕はその手を取った。瞬間、僕は身体を操られた。自分の意志とは関係なく彼女の腕や脚に動かされて、ステップやターンをさせられた。気が付いたら上半身が後ろに倒れて、彼女は僕の腰に腕を回し支えているような形になっていた。なにがどうなっていたのかまるでわからない。

「あなたには私をリードできないわね」

 彼女は愉快そうに笑った。

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