第9話 a little piece of you is falling away

「僕の店、なんて言いましたけど、本当のところ僕はただの従業員なんですよ」

 池袋にある中古楽器屋。従業員は僕とオーナーの二人だけだ。基本的に一人で店番をするので、だから僕の店というのは誇張とはいえあながち間違ってはいないということを彼女に伝えた。

通りに面した側はガラス張りになっている。ディスプレイにサックスが置かれているのは注目度を上げるためだ。ずいぶん前から置いているけど、残念ながら今までにサックスにつられて入店してきたやつなんていない。ただの見栄えのいい置物と化してしまっている。

僕はポケットから鍵を取り出して開けると彼女を招き入れた。ノブに引っ掛けてあるプレートが「オープン」のままになっていたので、僕はそれをひっくり返す。

 楽器に埋め尽くされた空間。コンクリート張りの床に、すれ違うのがやっとというような細い通路の両側のシルバーラックには大小さまざまなスピーカー類、ピックや何種類もの絃。その隣にはシンセサイザーやドラムセットなどがあるが、こちらも満足に通れる広さではない。こちら側の棚には楽譜や教本、雑誌にDVDが収められている。そして所狭しと壁に並んだギターやベース類。彼女は珍しいのか、あちこちのギターのボディを指先でなぞっている。電気を消しているため薄暗く、そのためかどの楽器もくたびれたように見えた。それは僕もこの空間に慣れすぎているせいかもしれない。

 彼女を奥のスタッフルームに案内する。なんてことない小さな部屋だ。パイプ椅子とテーブルがあるだけ。ちなみに禁煙で、吸いたいときは店の前にあるコンビニの喫煙スペースまで行かなくてはならない。僕はシートの部分の破れたパイプ椅子の、比較的なマシなほうを彼女に促した。足の細いテーブルには電気ポットと、隣には紙コップが重なってできた塔がある。そして瓶詰タイプのインスタントコーヒー。当たり前だけど角砂糖は置いていない。古いエアコンをつけると、低くうなるような音が聞こえ始めた。

 塔から二つ紙コップを取り、コーヒーの粉末をスプーンで掬ってその中へ。沸いたお湯を紙コップに注いで、軽く混ぜる。片方を彼女の前に置いた。テーブルを挟んで、彼女と対面するように座る。

「熱いんで、側面を持たないようにしてください。底とフチ、コップを立てに挟むようにして持つのがポイントです」

 彼女は僕の言葉に従った。僕も自分のぶんを口にする。先ほどの緊張はずいぶん落ち着いた。エアコンをつけていてもコンクリート張りだから足元が寒い。あたたまるまではもう少し時間が必要だ。

「あなた今、こういうところにいるのね」

「ええ、自分でも不思議です」

「そういうものよね、人生って」

「あなたはいつも知ったようなことを言う」

「あら、事実知っているわ。だから言うの。いつだって人生は水のように流れるものだけだもの。自分で決めているように見えて、その実その流れに身を任せているだけ」

「詩人ですね」

「いいえ、ダンサーよ」

 会話をしながら、しかし戸惑っていた。どうしてこんなところにまで彼女を連れてきたのか僕自身よくわからなかったからだ。もっと長くいっしょにいるのを望むのであれば自宅にでも誘えばよかった。それなのにあのとき僕の口をついて出たのは店への誘いだ。人はたまに自分でも思いもよらぬことをするものだけど、その中でも僕にとって最たるものだった。

「いいところよ、ここは」

「こんなところが?」僕は冗談だと思った。

「本心よ。自分の場所があるって、そう、幸せなことだわ」

 よくわからない言葉だった。

「意味深ですね」

「秘密めいてるほうが魅力的だと思わない?」

 僕は軽く肩をすくめてみせた。ここにきて彼女は煙に巻くようなことを言う。しかし彼女の言うとおりだった。

「ねえ、あなた、もしかしてもうバンドはやってないのね」

 予想外の言葉に僕は紙コップに伸ばしかけていた手が思わず止まった、のを、ごまかす。そのまま口に含んだコーヒーの味がわからない。

「どうしてそう思ったんです?」

「やわらかかったから、指が」

 ベッドの中で何度も重ねた指先。思いの外観察されていたということらしい。

ベースを弾いていると指先が硬くなるのがミュージシャンだが、今の僕に演奏する機会なんて、売り物であるそれらのチューニングをするときくらいしかなかった。すっかり、指先は元通りになってしまっていた。

「そんな反応をするということは、あまり言わないほうがよかったことだったかしら」

 ごまかしきれたと思っていたが彼女には見抜かれていたようだった。僕はなんでもないというふうに取り繕う。

「いや、構いませんよ。大したことじゃないんです」

 隠しているつもりはない。けれど指摘されるとは思っていなかった。僕は妙に苦々しい気分になる。そして自分がそんな気分になっているということが意外だった。

僕に構わず、ねえ、と彼女が続ける。

「聞かせてもらえないかしら。私、あなたの話を聞いてみたいの」

 それもまた、予想外だった。その言葉は一線を越えているものだからだ。僕がこの店に誘ったのと同じくらい迂闊なことだ。ただ僕は、彼女がついうっかりでそんなミスを犯すような人間じゃないことを知っている。

 足元があたたまってきた。エアコンは依然としてうなり声をあげている。紙コップから湯気が上がる。

「なぜですか」

「なぜかしらね。自分でもよくわからない。でも聞いてみたいの。どうしても理由が必要?」

 彼女は組んでいた足を組み直した。ダンサーには見えないその足首の細さに改めて驚かされる。

「わかりました。では僕が話したら今度はあなたが話してください」

「なるほど交換条件というわけね」

 薄く笑ったあとで彼女は、いいでしょうと答えた。僕はどこから話したらいいかと考えて、六年前の冬、彼女と別れたあたりから始めることにした。

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