第6話 people on streets

目を覚ますと彼女は横にいた。六年前のように姿を消してはいなかった。僕は少しだけ安心していた。僕が起きたのに気づくとあら、思ってたより早起きなのねと言った。彼女はすでに身支度を整え、あの絵を眺めながら、やはり眉間にしわを寄せタバコを吸っている。昨夜のことなんてなにひとつ覚えちゃいないわとでもいわんばかりだった。

 僕の起きるのが遅いというより、彼女が早すぎるといったほうが正確だろう。僕は毎日だいたい同じ時間に目が覚める。その証拠に枕もとのディスプレイは七時前を示していた。

「ずいぶん早いお目覚めですね」

 僕が身体を起こしながら言うと、彼女はなんでもなさそうに答えた。

「時差ぼけみたいなもので、勝手に目が覚めちゃったの。そういうことってあるでしょう」

「あるかもしれませんね」とは言いつつ、僕にはよくわからなかった。

「それよりも、ねえ、月の模様って、その国と人によって見え方が違うって言うでしょ。ウサギが餅つきしているとか、女の人の横顔とか、カニとか」

 カーテンの隙間から差し込んでくる朝日が彼女の緑の髪を煌めかせていて、僕はそれをキレイだと感じていた。美しい朝だった。いつだって朝は美しいものだが、今朝は特別に美しいといえる。一日の始まりとして、これ以上正しい姿はないといえるほどに。

「あの絵もきっとそういうものなんじゃないかしら。明確になにかを描いたわけではなくて、見る人によって見え方が違うっていうような」

 

 ホテルを出ると、彼女に朝食に誘われた。僕は顔にこそ出さなかったものの内心驚いた。だって僕はここでお別れだと思っていたからだ。しかしどうやら、まだ続きがあるらしい。

「もちろん。行きましょう」

 なぜ、とは聞かない。そんなことをしては興醒めだ。それに断る理由なんて僕は持ち合わせていなかった。

僕たちは近くにあった個人経営の古ぼけた喫茶店に入って、互いにモーニングセットを注文した。サンドイッチとサラダとコーヒーの、どこにでもある内容だった。

 僕たちがのんびり食事を進めている間に店内の客は次々と入れ替わった。店の外観とは裏腹に、意外にも繁盛しているようだった。もし店内に防犯カメラがあってそれを早送りしてみたら、僕たちの席だけ止まっているように見えるだろう。

朝は誰もが慌ただしい。ただし、僕たち以外は。僕たちは決して、店の外に広がる人の波に飲み込まれない。

 食後運ばれてきたコーヒーについてきたのは角砂糖ではなくスティックシュガーだった。彼女はそれに手をつけることなく、そのままカップを持ち上げた。薬指の指輪が目についた。僕が見ていることに気づくと、薄く笑った。

「別に、なければないで、それでいいのよ。どうしてもってわけじゃないわ」

「ところで、さっきの絵の話ですけど」

「ええ」

 思っていたよりもうまかったサンドイッチを咀嚼しながら、僕はあの絵について、彼女の発言についてぼんやりと考えていた。

彼女はゆっくりと唇をカップにつけると、そのまま音を立てずにソーサーに戻した。伏し目になると、その長いまつ毛がさらに際立った。

「なにかしら」

「思いつきですけど、見る人によって見え方が違う、たとえばそう思わせることが作者の狙いっていうのはどうですか」

「まあ、でもなんのためにそんなことを?」

「なにに見えたかを会話をさせるためです。議論と言ってもいいですが。絵そのものではなく、その外側に影響を及ぼしたいと作者が考えていたとしたら、ありそうじゃないですか」

「どうかしら」

 彼女はジョークでも聞くような表情をしている。もちろん僕だって真面目にこんなことを言っているつもりはない。互いにそれを理解したうえでの茶番だ。

「あるいは本当は、そもそもなにも描いてはいない意味のない落書きなのかも」

「私たちが勝手に深読みしているだけってことね」

「そうです。いくらでも解釈はできますけど、残念ながら答えは作者のみぞ知る」

 僕は両手を軽く持ち上げた。お手上げ、というジェスチャーだ。

「ふうん」

 彼女は何度か頷いた。少々楽しめるくらいの話にはなったようだった。僕は一口コーヒーを飲む。酸味が強く、お世辞にもおいしいものとは思えなかった。サンドイッチは良かっただけに残念なことだった。

 面白い話ねと、彼女は言った。けれど、と続ける。

「けれどひとつ、大事な視点が欠けているように思えるわね」

「なんです?」

「その前に一本吸ってもいいかしら」

「どうぞ」

 席の端に灰皿とマッチが置いてある。マッチ箱に「people on streets」と筆記体で書かれているのは、これが店の名前だからだろう。僕は灰皿を彼女の前に滑らせ、マッチ箱を手渡した。

 彼女は手慣れた動きで箱から一本を取り出し勢いよく先端を擦った。シュッという乾いた音の後についた火を、咥えたタバコの先端に近づけて移す。マッチの火はしばらく揺らめいていたが、彼女が手を振ってそれを消した。

彼女は存分に煙を吸うと、口をすぼめて吐き出した。そしてその厚みのある唇をつりあげる。

「つまりね」

 わざとらしくもったいぶって彼女は言う。

「作者は明確に答えを描いている。でもそれを、私たちは見抜けていない」

「ああ、なるほど」

 確かにそれは、あるかもしれない。僕は思わず苦笑した。

「昨日も言ったでしょ。私もあなたも、アートセンスはからきしね、て」

 彼女は器用にタバコを挟んでいないほうの手で自分のスティックシュガーの一端を破くと、それを躊躇なく僕のカップに全て流し込んだ。そしてそのままティースプーンでかき混ぜ始める。あまりにも突然なことに、僕は言葉が出ずその一連の流れを見ていることしかできなかった。

「甘ちゃん、という意味よ」

 彼女はとても愉快そうで、僕もつられて吹き出した。

「なにするんですか、このコーヒー」

「だってあなた、おいしくなさそうに飲むものだから」

 僕たちは二人して笑った。それは純粋な居心地の良さから発生した、心からのものだった。

 マッチのにおいがまだ留まっている。

 僕はこれから自分のする行動を間違ったものだと認識していた。わかったうえで、それでもそんなことをしてしまったのは、これは紛れもなく彼女が原因だった。そして僕は僕の行動によって彼女がどう応じるか、おそらくどこかで理解していた。それは台本を読むような感覚だ。僕のセリフがあって、次に彼女のセリフがある。そこにはハッキリと答えが書かれている。そう、僕も、あるいは彼女も、再会したときからこうなることはきっとわかりきっていた。今までは予定調和に過ぎない。でも彼女のセリフのあと、僕たちがどうなるのかは誰も知りえない。なぜならその先の台本は用意されていなかった。

だから僕は今ここでなにもしないという選択を取ることもできたし、実際直前までそうしようと思っていた。喫茶店を出て適当な言葉をいくつかやりとりして、互いに背を向ける。そうしてまた何年後何十年後に出会う偶然を待つ、というふうに。でもそうできなかったのは、彼女が僕からその選択肢を奪ったからだった。

 すべてはマッチのせいだった。驚くべきことに彼女はマッチだけでなく、僕にまで火をつけていた。

灯された火は、始まりはどれほど優しく息を吹きかけたところで消えてしまいそうなほど小さかった。けれど問題は僕が、「火がついた」ということを自覚してしまったことにある。その瞬間火は勢いを増し僕の身体を覆いつくした。あっという間のことだった。消そう思ったところで、それは今更手遅れだった。

「僕の店に来ませんか」

 気づいたときにはそう口走っていた。

 しまったと思った。それは一線を越えている。僕たちはただ一夜を過ごしただけの他人同士に過ぎない。それは電車で偶然隣り合わせたようなものだ。目的地は違う。

 僕は再びコーヒーに手を伸ばした。溶け残った砂糖の粒がジャリジャリと音を立てた。だけど構わず飲み込んだ。

 誰かを誘うのにこんな気分になるのなんて、いったいいつ以来のことだろうと思った。燃えているはずなのに、手が冷えているのがわかった。僕は緊張している。しかもこれ以上ないくらいに。

彼女の答えはわかっている、わかっている。セリフが用意されているのだから。

言ってしまった以上その発言は取り消せない。ならもう堂々と振る舞うしかなかった。返答におびえてうつむくなんてことは決してできない。

僕はこんなことはいつも言っているのだという表情する。その仮面にヒビやしわがあることは重々承知していた。精一杯の虚勢だ。

彼女はそのことに気づいていたのだろうか。口元に余裕を感じられるほどの笑みを浮かべ、挑発気味な目つきで僕のことを窺っている。

僕たちは互いの名前さえ知らない。そのくらいの関係性がよかった。それでいいはずだった。そのルールを僕が破った。

でも彼女が頷くことを僕はわかっている。わかっているはずだ。だから早く、書かれているセリフを言ってほしかった。

「不思議だと思うでしょうけど、私、あなたがそんなことを言うような気がしていたの」

身を乗り出し、僕の耳元に口を寄せて、秘密を打ち明けるように小さく囁いた。

「ぜひ、連れていって」

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