第5話 then I'd still be where I started

彼女とは二度と会うことはない。そのうち記憶だけが残って、その記憶すらなくなっていくだろう、と思っていたのだけれど、意外なことにその再会は一年後に訪れた。しかし再会と呼ぶのはいささか正確ではない。

 僕は書店で、雑誌の表紙になっている彼女を見かけたのだった。社交ダンスの専門誌らしい。そもそもそんな専門誌があるのには驚いたが(いったい誰が読むのか見当もつかない)、まさかそこに彼女がいるなんて思いもしない。雑誌を手に取ってしばらく固まる僕の姿は傍から見たらさぞ間抜けだっただろう。

 パートナーであるらしい男性と片手を組んで、上半身を後ろに反らしている。その反りは一目で美しいと思えるものだった。幸せそうに微笑む表情。ぶわりとふくらむスカートの裾。黒いワンピースのような衣装だ。独特の派手な化粧も、彼女の持つ気品さを引き出している。男性のほうは、まあ、どうでもいい。

 ページをめくるとインタビュー記事があった。なんとかという大会で優勝を果たしたらしい。斜め読みをすると、どうやら彼らはこの世界ではそれなりに有名であり、以前から注目を集めていたらしいことが分かった。

 たまたま視界の端に入り込んだ雑誌の表紙が彼女だと一瞬で気づけたのは、それだけ彼女のことが脳裏に刻まれていたからだろう。僕にとって彼女は自覚している以上に印象深かったということだ。僕は彼女のことを「最高級に良かった」から覚えているといったが、正直に告白すれば、この記憶が強く残っていたことのほうが大きい。

 雑誌をもとの位置に戻し外に出た。途端に騒がしさが耳を襲った。新宿だった。

 予想通り、僕に声をかけてきたバンドがあった。今度のバンドは地元ではそれなりに名が知れていた。ローカル雑誌に取り上げられたり、深夜のテレビに出演したりしたこともあった。酒癖の悪いベースをボーカルがたしなめたところ殴り合いに発展、勢い余って脱退したそいつの代わりとして僕が入ることになった。

 バンドが軌道に乗り始めたタイミングで僕はメンバーたちとともに上京した。東京はうるさく汚い街だった。満足に歩けやしない。どこに行くにも人、人、人だ。しかし不満があったのは最初の数か月だけですぐに慣れた。慣れると今度はその雑然さが居心地よく感じる。両手を広げて人ごみにダイブしたって構わないほどに。僕は環境に適応する能力が高いらしい。

 閉めていたコートのジッパーをおろす。冷たい風がその内側に早速入り込んできた。一瞬身体を震わせるが平気だった。上京して初めての冬を迎えた僕の感想は、こんなもんか、ということだった。寒さだけの話じゃない。東京という街自体に対してもだ。

 ベースの技術はもちろん、バンドの能力も向上している。ライブも盛況だ。固定ファンも少しずつ増えているのだってわかっている。しかし今一つ、ハネない。爆発が起きない。

「焦りすぎだって。まだこっち来て一年なんだから」

 ボーカルはそう朗らかに言う。あるライブの終わり、楽屋でのことだ。僕の発している不満げな雰囲気を、彼はすぐに見抜く。そういうのに長けている。彼がメンバーから信頼されているのにはこういう理由がある。しかし僕は一線を引いていた。心を開くなんて、簡単にするものじゃないからだ。

「今は我慢の時期だ。そうだろ?」

 正直なところ僕は彼の発言を無視して帰ってもよかった。なぜなら女に会う予定があった。そうしなかったのはイやな空気を残すのは得策ではないと考えたからだ。あくまでも表面上はうまく付き合わないといけない。彼の指摘はもっともだったが、それを見透かされたのが面白くなかった。舌打ちをしたい衝動をなんとか抑えつけ、笑顔を張りつけて答えたあとすぐに楽屋を出た。

「たしかに、そうだね」

 そのあとに会った女の子のことを僕は一切覚えちゃいない。「会った」という事実だけがある。それほど見た目は悪くなかったような気がするけどプールに一滴落とした絵の具のように印象が薄いのは、なにも特別なことがなかったからだろう。

その女と別れたあと、自宅に帰った。都心からそう遠くない駅の近く。東京というのは住むだけでえらく金がかかる。たかがワンルームで七万もしたりする。僕は自宅のマンションが見えるたびに苦々しい気分になる。ベッドに横になる。

音楽をやるようになってからやたらと女が寄ってくるようになった。東京に来るとそれはさらに増した。僕を見る女の、女たちの目が訴えているのが手に取るようにわかった。「私を見て」。だからミニトマトを次々齧るみたいに女と遊んだ。僕は選ぶ側の男になった。こちらから探さなくても、ファンが寄ってくる。僕はそこからすきなものを選ぶことができる。それは快感だった。いくらでも女がいて、僕は連日腰を振り続けた。脳内のリスト、「良い」「悪い」が次々と更新されていった。並大抵の女はすぐに埋もれていく。たとえ「良かった」としても、その数が多すぎては全てを覚えていることはできない。僕は周囲の男よりも優位な立場にいるということを感じていた。誇らしいことだった。

だからこそ、停滞している現状が許しがたい。一年やってどこからも声がかからなければその先続けていてもなんの意味もない。雑誌に取り上げられる期待の新星とかすげえやつら、というのはすぐに芽が出るものだからだ。僕はそちら側にいる。それなのに一年が経過してしまっていた。発芽しない種はそのままダメになってしまう。僕はそんなのはごめんだった。

 雑誌につられて彼女のことも思い出した。それはまったく余計なことだった。彼女と自分を比べるなんてなんの意味もない。僕は僕で、彼女は彼女だ。それだけだ。立っている場所が違う。あの誰が見ても幸せそうなと形容するだろう彼女の表情は、少しだけ僕を苛立たせた。

 東京の冬は想像していたよりもあたたかった。雪もほとんど降らないし、故郷の冬より過ごしやすい。天気予報で故郷の気温や積雪情報なんかを見ると、よくもあんなところに住んでいたものだと思う。ただ、東京のほうが空気の乾燥がひどいように感じた。息を吸い込むたび体内の水分が奪われる。がさついた唇を舐めた。

 行動を起こすなら早いほうがいい。そのあたりの感覚は、僕は優れている。

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