第4話 I want to break free

  二件ほどバーをまわって(無理してスコッチを飲んだことは彼女にはバレていただろうと今ならわかる)、そのままホテルに行き身体を重ねた。ホテルは当時の僕の行きつけで、小さい冷蔵庫の中に水が入ったペットボトルが二本用意されていたことを覚えている。

 そのときの僕といえばとにかくセックスのことばかり考えている人間の皮を被った猿のような男だった。とはいえこれはべつに僕だけに限った話じゃない。二十歳になったばかりの男ならば誰でも猿だ。

 高校に入学したときに新しいことを始めようと、兄の部屋に眠っていたベースを弾き始めたのがきっかけだった。兄はすでに就職して家を出ていた。今はとてもそんなエネルギーはないけれど、新高校生となった僕の、ひとつの物事に対する集中はすさまじいものだったと思う。毎日数時間は必ず弾いていた。ある程度すきに扱えるようになると、今度はそれがどのくらい通用するものなのか試したくなる。自然なことだ。だから僕はライブハウスやネットでベースを募集しているところに片っ端から連絡をし、毎日違う人と演奏をした。それでわかったことは、どうやら僕には少しは技術があるということだった。何組もの素人バンドに加入したりあるいは脱退したりあるいは解散したりを繰り返しているうちに高校を卒業した。大学には行かなかった。それよりも僕は、自分と見合う人間と演奏するほうが大切だった。

 僕は確信にも似た思いを抱いていた。僕の人生はいいものだ。人生とはしばしば列車にたとえられるものだけれど、だとしたら僕という列車は正解に向かって進んでいる。そこに敷かれているレールは正しいものだ。そしてこれから僕が選択して新たに敷くレールも間違いない。

 今日解散したバンドにはなんの思い入れもない。たまたまそのとき僕にはどのバンドにも所属していなくて、最初に声をかけてきたのが彼らだったから加わったに過ぎない。ボーカルは声量がなく声が細いうえに高音がかすれる、ドラムはリズム感が悪くもたつくし、ギターはテクニックに幅がなく面白みがない。歌詞は百均で売っていそうなくらい安かったし、メロディーはただの出涸らしだった。それでも僕は彼らと仲良くやっていた。なぜなら僕にはわかっていたからだ。ほかのバンドから声がかかると。「どうしてあんなクソそのものみたいなバンドでやっているんだ? うちに来いよ」と。僕はその中から一番実力のあるバンドに加入するつもりだった。


 僕は彼女の身体を存分に堪能した。あのときはけれど彼女がリードしていたように思う。対等に張り合うには彼女のほうがまだまだ上手だったし、僕は昂りを隠しきれずあまりにもがっつきすぎていた。そんな中彼女がこんなことを言った。「最高級に良かった」彼女のことだ、覚えていたってなんの不思議もない。

 いざ挿入というときに赤らんだ顔で、「後ろから入れられるのはいやなの」と。どうしてかと僕が尋ねると、彼女は答えた。

「相手の顔が見えないと不安になるから」


 ペットボトルの水を飲んだ。冷たいそれは火照った身体に気持ちよく、僕は半分ほど飲み干した。彼女は一口だけ飲んだ。ベッドで話をした。

「あのライブハウス、なんていったかしら」

「グレープジャンキー」

「あそこは酒の種類が少なくてよくないわ」

「しょせん若者向けですから」

「よして、私が年寄りみたいじゃない」

「いくつなんです?」

「二十六。感想は言わなくていいわ」

 彼女は僕の胸にあごをのせていた。人差し指で円を描くように僕の乳首の周りをなぞっていた。僕は彼女の髪の毛を撫でていた。艶やかな黒い髪を。

「あなたが何をしている人なのかを考えてみたんです」

「へえ?」

 相手の職業を当てるというのは、それほど難しいことじゃない。本当だ。職業による特徴のようなものは実は意外と表出するものだ。僕はそれを見極めるのに長けていた。仕草や言葉遣いはわかりやすい。それからメイクも。爪の長さなんかも参考になる。

 だけれど彼女には今まで僕が見てきたそういった指標は見当たらなかった。イルカの調教師をやっているという子と会ったとき以来のことだった。

「三ターン以内に当てたら褒めてあげる」

 彼女は円を描くのをやめて、中指と人差し指をトトン、トトンと繰り返し下ろす。

「モデル」

「いいえ」

「ヨガのインストラクター」

「残念」

 彼女の立ち振る舞いからおそらく人前に出る職業だとあたりをつけ、かつ身体のやわらかさを考慮しての回答だった。

「でもそうね、方向は当たっているかも」

「新体操の選手」

「ああ、外れ。でももう一回サービスしてあげましょう」

「バレエダンサー」

「惜しい。ダンサーは正解。社交ダンス。私はやっているのはそれ」

 そう言われて腑に落ちた。しなやかで力強さのある肢体に、内側から溢れる自信はまさにダンサーのそれだった。彼女が人の目を引くのは彼女自身がひとつのアートだからだ。

「でもそれ以上は秘密」

 彼女は爪を立て、僕の胸にそれを食い込ませてくる。痛みはあっても、それが本気じゃないことくらいわかっている。僕は撫でていた手を彼女の後頭部に回してこちら側に近づけキスをした。

「明日また違うバンドでライブやるんです、来てください」

「そうね」

 誘いこそしたけれど、来ないだろうということはわかっていた。だからこそ僕は彼女を誘ったし、彼女もそう答えた。全く意味のない約束だった。

翌朝目覚めると彼女はいなくなっていた。僕は身体を起こしまどろみをタバコの煙といっしょに吐き出した。少しばかり惜しいと思いはしたものの、僕にとって不満はなかった。僕はセックスをしたかっただけだし、彼女としても一夜の退屈しのぎをしたかっただけなのだろうし。こういう出会い方をしたのなら、こういう別れ方になるのはわかりきっていたことだ。

 ホテルを出たら他人なんて言い回しを聞いたことがあるけれどこの場合、僕と彼女は最初から他人だ。互いに名前を知らないままだった。名前を知ることはときに危険だということを僕は知っている。それは心に火をつける可能性があるからだ。その名を呟くたびに、マッチのにおいがする。そしてその小さな炎はやがて成長し全身を覆いつくしてしまう。消そうと思ったときにはすでに手遅れだ。前後不覚になるくらいなら僕は火をつけない。

 火遊びでじゅうぶんだ。

「ダンサーは、初めてだったな」

 タバコを吸おうとして、中身のないことに気づいた。

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