第3話 kickin' your can all over place
冬だ。僕が故郷を思い出すときはいつも決まって冬だった。そんなはずはないのだけれど、あそこには冬しかなかったかのような気がすることさえある。鉛色の雲、その雲が千切れて落ちてきたかのような大きな雪。重苦しくてきらいだった。街も人も。
地下鉄の駅から十分ほど歩く。すると繁華街から離れて人気のない通りに出る。石畳で覆われたその通りは人と人とがようやくすれ違える程度の幅しかない。ところどころに街灯がぶら下がってはいるけれど明かりの量は少なく、よりひっそりとした雰囲気を増すための演出をしているようだった。小さな飲み屋が並ぶこの通りは遅い時間になるにつれだんだんと人の気配が濃くなってくる。二十時を過ぎると赤ちょうちんに火がともり、青いネオンが主張し始める。
グレープジャンキーはその一番奥にある。紫色のアルファベットで書かれたその看板のライトは今にも切れそうに点滅していた。入口の黒い扉は大量のシールで埋め尽くされ、その上から誰のかわからないサインが描かれ、聞いたこともないバンドのフライヤーが掲示されていた。
今でもしっかりと覚えている。その重い扉、地下に繋がる階段、もう一つ厚い扉を開けた向こう側にある窮屈なステージ。僕は長い間そのステージに立ち続けた。
もう一つ鮮やかに記憶しているのはその夜の冷え込みだ。雪こそ降りはしなかったが風が強くひときわ寒さが極まっていた。それでいて空がきれいだった。細りに細った白い月が、その部分だけ爪でひっかいたかのように浮かんでいた。
その夜は三つのバンドが出演して、僕の出演は最後だった。出番が終わってバーカウンターで酒を飲んでいると、奥に一人、つまらなそうな顔をしてつまらなそうに酒をあおっている女がいた。それが彼女だった。今よりも長い髪の毛を邪魔そうにかき上げてプラスチック容器の中のビールを飲み干すと、そのままもう一杯注文をした。
「見ない顔ですね」
僕はそう話しかけた。バーカウンターの薄暗い照明が彼女の横顔を照らしていた。彼女は僕に目をやって、ああ、さっきのバンドの、とだけ言った。
「そう、ベース」
「ひどかったわ」
「僕もそう思います」
「なんの用?」
「こんなところに来るのは九割が知り合い、一割が数少ないファン。見たところあなたはどちらにも当てはまらない。だからどうしてこんなところにと思って」
「なんとなく見に来たただの客よ」
高飛車な態度だった。でも僕にとってそんなことは些細なことだった。
「ひとつ聞いても?」
「答えるかは置いておいて、なに?」
「アンケートにはなんて書きました?」
「アンケート?」
「会場に入る前に渡された紙です。どのバンドを見に来たかって」
「ああ」
彼女はパンツのポケットからタバコを取り出した。僕は自分の目の前にあった灰皿を滑らせて、彼女に届ける。木製のカウンターテーブルは艶出し剤が塗られていて滑りやすい。彼女は少しだけ驚いたあと、手をあげて感謝を示した。火をつけてたっぷりと煙を吸い込んでから、口をとがらせて吐き出した。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「大事なことだから」
「無回答」
彼女は丸めた紙を尻ポケットから出して広げてみせた。確かにそこにはなにも書かれてなかった。
「だってなんとなく入ってきたのに、目当てのバンドもなにもないでしょう」
「実は今日のライブで観客を三十人集められなければ解散することになっているんです。さっき用紙を回収したら二十九人でした。ほかのやつらは楽屋で意気消沈していますよ。わかります? あなたの回答次第でひとつのバンドの生き死にが変わってくるんです」
「まあ、それは責任重大ね」
欠片も重荷を背負うそぶりもなく、彼女はビールを口にする。今度は飲み干さず、二口ほど。容器の中身は三分一ほどになった。僕もそれにならって自分のぶんを飲んだ(当時の僕は恥ずかしいやつだ。そのとき飲んでいたのはハイボールだ! なんてダサさだろう)。
彼女の回答を、僕はもしかしたら確信していた。わざとらしく悩むようなフリをしているけれど、初めから言うことは決まっているに違いなかった。
「私が今日見に来たのは二番目のバンドよ」
僕の予感は正しかった。そして彼女もまたこの答えが僕の望むものであるということをわかっていたのだろう。
「残念。僕たちのバンドはここまでだ」
「とんだ茶番だわ」
彼女はそこでようやく身体をこちら側に向け薄く笑った。僕たちは互いにカップを持ち上げ乾杯をした。
メンバーが必死で人を集める中、僕は誰を誘うこともしなかった。声をかけられたという何人かに来なくていいからと言ったような気はする。気のせいかもしれないけれど。僕にとって解散するのは好都合だった。だってこんなバンド、どうでもよかった。
彼女が僕に近づいてきた。僕は内心の昂りを隠していた。
「私、あなたが気に入ったわ」
「光栄です女王陛下」
彼女はゴージャスだ。服装やアクセサリー類ではない、内面から発せられる、人を惹きつける能力が長けているように思われた。身体を切りつけたら、冗談ではなく宝石がこぼれてきてもおかしくない。それほどの輝きを抱いている。そしてその輝きは隠しきれずに溢れている。
「これがハイボールじゃなければもっとよかったわね」
僕のカップをのぞいて呆れたように笑った。僕は残ったそれを一気に飲み干した。
「次の店に備えてあるんですよ」
「強がりね」そう言って彼女もビールを空にする。
「すぐに上着を取ってきます。行きましょう」
僕は彼女の容器を預かると、自分のものと重ねてカウンターに返した。急いで楽屋に戻っていまだにうなだれている彼らにグッバイとだけ告げる。ほかに言うべき言葉なんて見当たらなかった。
彼女の手を取って歩き始めると、彼女の肘が当たったのかさっきのプラスチックカップを落としてしまった。それを拾おうとしてつま先で蹴っ飛ばしてしまって恥ずかしかった。
「かわいらしくていいんじゃないかしら」
僕がそうする前に、彼女は上半身を前に倒して容器を拾い上げた。膝を曲げずに、だ。その滑らかな動きに僕は目を奪われた。そしてカウンターの、今度は少し奥に返す。
「雪が降っていなければいいけれど」
彼女はコートの前を閉めながらそう言った。どうでしょうね、僕は答えた。彼女の数歩先を行き、階段をのぼって扉を押す。すぐさま強い風がふきつけた。雪は降っていなかった。月が輝きを増していたように思えた。
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