第2話 Moet et Chandon

店を出てタクシーに乗り込み、少しの間走らせる。目的のホテル、その三階。このホテルは気に入っている。バスルームがガラス張りになっているから、外から様子を眺めることができる。それが好みだった。気づいたときの反応を楽しみにしていたけれど彼女は全く動じることがなかった。

靴を脱がずに足を投げ出してベッドで隣り合う。その間に枕元に用意してある安物の灰皿を置いてタバコを吸う。流れない煙が長く停滞する。

「あの絵、誰が描いたかわかる?」

 僕の右側に座る彼女は興味がなさそうにタバコを挟んだ二本の指で壁を指し示した。きれいに磨かれた爪だ。その白い指先たちから、燃えるタバコの先端。壁に掛けられた絵はなにをテーマにしているのかさえわからないめちゃめちゃなものだった。灰色と赤褐色でほとんどが埋め尽くされている。輪郭も形もなにもかも曖昧だった。

「さあ。そこらへんに転がっているそれっぽい絵をそれっぽく飾っているだけじゃないですか。味気ない壁を埋めるだけの道具ですよ」

「意味なんてないのね。私にはあれ、石畳を歩く傘を差した老人に見えるわ」

「おそらくこの部屋でまともに絵を眺めてまともに考えをもったのはあなたが初めてだと思いますよ」

 僕にはどうやったって赤茶の水たまりに垂れる灰色の雨にしか見えない。

「私もあなたも、アートのセンスはからきしね」

 二本目のタバコをぎゅっと灰皿で潰して彼女は立ち上がり衣服を脱ぎ始めた。手始めにブーツを脱いで細いネイビーのシンプルなロングコートをハンガーに引っ掛けると、タートルネックのニットをこちらを向かずに放り投げる。それで上半身は下着を着けただけになった。僕は露になった背中を見ていた。しっかりと筋肉がついているそれは女性らしさを損なうことなく、むしろ特有のしなやかさを増してみせているように思える。強靭さと柔軟さを併せ持つ美しさだった。そのまま視線を落としていけば、無駄なものを排し徐々に細くなっていく完成された腰つき。僕は身体のラインに指を沿わせたくなっていた。

「こっちを向いてくれませんか。僕は女性の下着を脱ぐときがすきなんです」

 背中に手をまわし今まさにホックを外そうとしていたときそう声をかけると、彼女は動きを止めた。

「あなた、確か前回もそんなことを言ってたわ」

 少しばかり楽しそうな声に聞こえた。

「これだけは昔と変わらないんですよ」

「あのとき私は断ったような気がする」

「そうです。僕に外させました」

「そう。なら今回はどうするべきかしらね」

 彼女は少しの間考えてこちらを向いた。

「いいわ。前回断ったお詫びと、この再会を祝しましょう」

 挑発めいた彼女の表情に、僕は見事に乗せられている。ひとつのショーのようだ。

 肩のヒモをおろし、乳房が現れた。彼女は恥ずかしがる様子もなく、街中を歩いていたときのように堂々としている。そのふくらみも彼女にふさわしい大きさを誇り、重力に逆らって自身を主張していた。僕はどこか甘いにおいを感じとる。

「きれいですね。もしかしたら当時よりも」

「お世辞かわからないけれどありがとう。サービスしたぶん、私を楽しませてくれないとね」

「そりゃ、もちろん」

 すっかり短くなっていたタバコを消して、僕は彼女のジーンズのボタンを外し、ファスナーをおろした。ブラジャーと同じ黒い下着が見える。甘いにおいが強くなる。ジーンズを下げると、白い脚がむき出しになった。彼女はジーンズもベッドに投げ、下着は丁寧にたたんで隣のテーブルに置いた。

 彼女がバスルームに行こうとしたのを見て僕は下着を手に取ろうとしたけれど、「あなたも早く来てよ」という一言でその企みは実行できなかった。誘われたら断るわけにはいかない。外から眺めるのが好みだなんて戯言はすぐさま捨て去った。

 僕はこれまでそれなりの女性と行為をしてきた。その結果の満足度は「良い」か「悪い」かに大別することができる。

 今回の再会のように、過去に関係を持った女性と出くわすことは多くはないけども全くのゼロというわけでもない。電車の座席で向かい側に座っていたこともあったし、エスカレーターですれ違ったこともある。驚いたのはある映画のヒロインを演じていたのを見たときだ。そういうとき、僕はまず彼女たちが「良かった」か「悪かった」を思い出す。そこからどんな内容だったかをおぼろげに、あるいは鮮明に思い出す。鮮明に覚えているものは決まって極端に「良かった」か「悪かった」ものだ。映画の彼女はそのうちの「良かった」ものだったから季節やホテルの場所まで思い出せた。

 今目の前にいる彼女はというと、「最高級に良かった」から、僕はスクランブル交差点で彼女のことを思い出したとき、さらに記憶をこと細かく蘇らせることができた。だから彼女と出会ったときを「六年前」の「冬」だったとすぐに引き出せた。

 彼女の外見は誰が見たって見惚れてしまうほどしまうほどのものだけれど、その魅力はそれだけではあまりにも不十分だ。

 ベッドの中で彼女は豹変する。それまでの変化の乏しい表情はめまぐるしく変わりだすし、常に纏っているとっつきにくさは消え去り激しく相手を求めようとする。そうなるとこちらもそれに応えたくなり、気分は天井知らずに高揚していく。それは僕だけではなく彼女もまた同じだ。言葉なんてなくとも、その体温と表情を見れば一目瞭然だ。僕たちは身体の上下を何度も入れ替え、相手の望むことをかなえようとする。唇を重ね、指先で触れ、舌で舐める。聞こえるのは荒い息遣いと水の音だけだった。そしてときおり彼女がこらえきれないように上げる声が、僕自身にさらに力を漲らせた。

 いざゴムをつけたそれを挿入したとき、僕はあまりの熱さにそれが溶けて本当に一体化したかのような錯覚を覚えた。これほどの経験はめったにできるものではない。僕も彼女もパーフェクトに出来上がっている。互いの身体は正直にそう言っていた。

何度か体勢を変えてそろそろ果てようというときに、彼女は「待って」と言った。

「どうか、しましたか」

 僕は腰を振る速度を落とした。互いに息も絶え絶えになっている。

「後ろから、して、ほしいの」

 僕はその一言に記憶とのズレを感じた。僕が六年過ごしている間に、彼女もまた同じ時間を生活してきたのだと思い知らされた。

 苦しそうな顔をしながら、彼女はそれを心底懇願しているのがうかがえた。それを適えるのはとても容易いことだった。僕はもう噴火直前のそれをゆっくりと抜き、彼女をうつ伏せにして腰を持ち上げ再び突き刺した。途端に彼女は今までにないほどの反応を見せた。僕はそれをより味わおうと必死でこらえていたけれど、噴火の兆候はもうずいぶん前から感じ取っていた。辛抱はそう長くは続きそうにない。僕らは互いに声を上げた。悲鳴のようなそれを、動物になって上げた。やがて僕は自分の底から湧き上がるマグマが爆発するのがわかり、最後に腰を全力で動かした。

 マグマが飛び出してきたそのとき、僕は下半身がなくなったと思った。彼女と繋がったまま頭の中が真っ白になり、快感を得るだけの生物になった。マグマの突き上げは止まることなく何度も繰り返され、そのたびに僕は情けない声を出す。彼女の腰が上下に痙攣するように動いていた。

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