anyway the wind blows
進藤翼
第1話 we are traveling at the speed of light
スクランブル交差点を渡っているときだった。あまりにも多すぎる人が行きかう中、その瞬間が訪れたのは奇跡といっていいだろう。あるいは奇跡とは、案外起こりうるものなのかもしれない。
「あら、あなた」
一人の女性とすれ違うとき、彼女は足を止めて僕の顔を覗き込んだ。
正直なところ僕は最初驚いた。だってそうだろう、まさかこんなところで知り合いに会うとは思ってもいなかった。それに彼女との関係は、およそ知り合いと呼んでいいのかどうかわからないほどのものだったのだから、僕が彼女のことを思い出すのに少々時間を要したのは仕方のないことだった。
「ああ、久しぶりですね」
日本で一番人の多い場所で僕たちは再会した。とはいえ別に、そのまま簡単なあいさつでも済ませてまた別れてしまってもよかった。
でも僕はそうせず、そのままくるりと半回転して彼女の横に並んだ。
「渡りましょう」
僕は気障っぽく笑顔をつくってみたけど彼女は笑わなかった。
信号が点滅していた。
僕たちは焦ることもせず、悠々と歩きだした。それはあまりにも自然な行為だった。僕はまるではじめから彼女の隣にいたかのようだったし、彼女も同じように振る舞った。
だからハチ公前に行って僕がタバコを取り出したとき、彼女が一本要求することはわかっていた。僕が当たり前のようにそれを差し出して、ライターで火をつけることも彼女は最初から知っていただろう。そうしたあとで、僕は自分のぶんの火をつけた。
息なのか煙なのか、彼女の口からふうと白いものが吐き出される。
「銘柄、変えたのね。こんな甘ったるいの、吸えたものじゃない」
「自販機で買うときに間違えたんです」
「間違えるかしら」
「正確に言えば、間違えてません。僕はいつも同じ自販機を使います。だからいちいちボタンを確かめなくてもそのボタンを押せば欲しいものが手に入ることを知っていました。ところがそのときはどういうわけだかいくつかの銘柄の位置がいつもと変わっていたんです。そのせいでこんな、よくわからないものを吸う羽目になっているんです」
「それ、ウソでしょう」
「ええ、まあ」
目の前には左右から洪水みたいに人々が歩いている。僕はそれを数えようとして、すぐに数え切れなくなった。
「冷えますね、今夜は特に」
「そう? あっちにいたころに比べたら東京の寒さなんて大したことないわ」
彼女は相変わらず気だるそうにタバコを吸っていた。その姿は当時となにも変わっちゃいなかった。長い髪を鬱陶しそうにかき上げながら、少し眉間にしわを寄せている。
整っている横顔だな。
あのとき思ったことを今も思う。
時間の流れを感じさせないというのは言い過ぎではあるけれど(目元のしわとかね)、そのぶんを考慮しても十分に美しさが溢れていた。花瓶と完璧調和する花々のようだった。
「どこかに行く予定じゃなかったの?」
彼女にそう尋ねられた。
「いえ、別に。ただフラフラしたかっただけで、行きたい場所なんてのはないんです」
「行きたい場所がわかっているなら幸せなことじゃなくて?」
関心があるのかないのか、彼女はそんなふうに言った。僕にはよくわからない言い回しだった。
「今、なにしてんです?」
「つまらないこと聞かないで。せっかく思いがけない再会を果たしたというのに、そんな面白みのないことを」
「そういうものですか」
「私の場合はね」
彼女は短くなったフィルターを足元に落とすと、黒いブーツで踏みつぶした。僕は近くにあったスタンド式の吸い殻入れに投げ込む。
「どこかに行きましょう」
「コーヒーでいいですか」
「スティックシュガーじゃなくて角砂糖を置いているお店ならいいわ」
それならちょうどいいところがある。
僕たちはまた自然に、ごく自然に歩き出した。一度自覚したせいか、歩くたびに鳴る彼女のブーツの踵の音がやけに耳に届く。
趣のないやかましいだけの音楽に、無数の人々の会話、目にドギツイ主張の激しい店の看板。そういったものの間を縫うように僕たちは歩いた。
人々がすれ違いざま、彼女に視線をやるのがわかる。やたらと目を引く存在だ、彼女は。身長が高いというのはもちろんだけれど、注目すべきは首が長いということ。ブーツを履いていることもあり、この人波に埋もれず頭ひとつ飛びぬけている。背中はピンと伸び、鍛えられているものだと素人目でもわかる。そしてタイトなパンツをなんなく履きこなす。コートを着ていても明らかなほど彼女の身体は洗練されていた。全身から自信が漲り、それが周囲に流れている。大きく足を開いて歩く姿は強い意志の表れだ。
十分ほど歩いて目的の店に到着した。ビルの中の短い階段を降り目の前の木製の扉を開けると、途端に世界から切り離された気分に陥る。カウンター席がほとんどで、テーブル席は二つしかない狭い店だ。カウンターには常連が座り、ウイスキーの氷を鳴らしていた。僕は店主に目であいさつをして、カウンター席を通り過ぎ奥のテーブルに腰を下ろした。
「ここは音楽を流さないのがいいところなんです。クラシックやジャズ、ボサノバ調のミュージックをかけておけばいいなんて思っているほかの店とは違う」
「無音がBGM? それもそれで味気ないように思うけれど」
「店主の耳が聞こえないんですよ。彼からしちゃ流したところで意味がない、だから流さないというわけです」
「壁にかけてあるサイモンアンドガーファンクルのレコードはジョーク?」
「笑っていいんじゃないですかね。けっこう気さくな人ですし」
注文を聞きに来た彼にホットコーヒーを二つ注文して(店主は口の形で言葉を読める)、その間無言で過ごした。カウンターのほうから豆を削る音が聞こえた。
彼女は壁のフックにひっかけたコートのポケットからタバコを取り出した。さっきまで暗くて気づかなかったけど、今度は彼女の左手の薬指に指輪があるのがわかった。僕はテーブルのこちら側にあった灰皿を彼女のほうに寄せた。さっきのお返しか彼女は「いる?」と手で示してきたけど僕はそれを断った。彼女の吸う銘柄も変わっていた。以前よりもずっと重いタイプのものだった。
コーヒーが運ばれてきた。ソーサーに角砂糖が二つ添えられていた。彼女はタバコを灰皿に押し付けると、そのうちのひとつを取って前歯で噛み、そのままコーヒーをすすった。
「この飲み方がすきなの。おかしいでしょ。映画のキャラクターの真似してたら移っちゃって」
「コーヒーくらいすきにしたらいいです。僕はいちいち作法やなんや言いません」
「ここにはよく来るの?」
「月に一度くらいですか。駅に近いんでたまに」
壁掛け時計が明滅した。音の聞こえない店主はライトで時間を知らせる時計を設えている。九時になった。扉の開く気配がして、お客がやってきたことがうかがえた。おそらく常連の一人だろう。すぐにまた豆を挽く音が聞こえてきた。
「ところで、よく僕に気づきましたね」
「あなた、全然変わってないんですもの。でもそうね、あのときより少しカッコよくなっているかも。その髪型とファッションは悪くないわ」
片方の唇の端をつりあげた。少し顔を寄せて、こっそりと言ってくる。
「ねえ、私、男と寝た回数こそ多いけれど、人数はそれほど多くないの。だからひとりひとりの顔をようく覚えているの」
「そりゃ、光栄ですね。僕はけっこう苦労しましたよ思い出すのに」
「そりゃあね。私と違ってあなたは人数も多いでしょうから。思い出せない子のほうが多いんじゃなくて?」
「まあ、そうかもしれません。でもあなたのことは覚えていた」
「喜ぶところかしらね。もう、何年経ったのかしら」
「六年です」
「まあ。それは、早いのかしら遅いのかしら。各駅停車よりはマシかしらね」
彼女はまたよくわからないことを言う。あまり考えても意味のないことかもしれない。世の中の大半のことはそういうことで出来上がっているわけだし。思い出すことこそ時間がかかったけれど、思い出したことは正確だ。六年前の冬、僕たちは出会って、そして別れたのだった。
彼女は面白くなさそうに煙を吐いた。
「なかなか愉快なことね」ちっとも愉快そうじゃない。
「いつだってそうです」彼女を見習って僕もよくわからないことを言ってみた。
コーヒーをすする。深煎りの強い苦味、これを僕は好んでいる。香ばしい香りは頭をすっきりとさせてくれる。
「やっぱり一本ください。さっきの」
「構わないわ」
吸ってみると、いいパンチをもらったようにクラリときた。
「少年ね。まだまだ」
彼女はさっきよりは面白そうに笑った。
「あなただって六年前は吸っていなかったでしょ。今の僕は六年前のあなたの年です」
「わお。二十六? やっぱり少年よ」
そういう彼女はむしろ少女に見える。不思議なものだ。年相応に見えることもあれば、そうじゃないこともある。
彼女は一見とっつきにくそうな印象を持たれがちだ。事実それは間違っていない。けれどだからといって会話を嫌うタイプではない。
「潰れたらしいですよ、グレープジャンキー」
「そうなの? 残念ね」
やはりちっとも残念そうじゃなく彼女は言った。グレープジャンキーと口に出したのは何年ぶりだったろう。東京に来てから初めてかもしれない。
「あなた、あのときはもうちょっとかわいらしさがあったわ」
「六年経っちゃいましたからね、そのときと同じというわけにもいかないでしょう」
彼女はまた角砂糖をかじった。唇がふっくらとしているのがよくわかった。艶やかで、僕はそれを味わいたくなる。
「タバコを吸い終わったらホテルに行きましょう」
「まだコーヒーが残ってるわ。私、ゆっくり飲みたいの」
「ならそのあとで」
「積極的ね。確かあのときはお酒の力を借りていたような気がしたけれど」
「そのときと同じというわけにもいかないでしょう」
「成長しているということね」
彼女は少しだけ笑った。その妖艶な挑発めいた顔は、僕の心の内側を優しく爪でひっかいてくる。
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