その3
「昔って、地元にいたころ?」
彼女は首を傾げたが、笑いを堪えているらしい。案の定、「若いのに」と、続けた。
「いや、現代じゃなくて」
幾郎は真面目な顔で、首を横に振った。
「ビルのない時代のこと?」
彼女は考え込むふうだった。
そのとき、二人の視線の端に、青紫の光が走った。
きゃっと首をすくめる彼女と、震えながらも身構える幾郎。
すぐに、どおんと激しい雷鳴が轟き、ガラスがびりびりと鳴った。
周囲から、「きゃあ」とか「おおう」とか、抑えた声が上がった。
幾郎は、とっさに閉じたまぶたを開いたとき、幻を見たと思った。
彼女が、目を輝かせている。口角も上がっている。
よく見直そうとしたのだが、すぐにまた、どおんがっしゃんと続いたものだから、反射的に目を閉じてしまった。
切れ長の奥二重ではなく、一重まぶた。
日焼けには縁のない、なめらかな白い肌。
きゅっと結ばれることのなさそうな、ぽってりした唇が、うっすらと開いている。
幾郎が気持ちを奮い立たせて見直した顔は、泣きそうに歪められていた。
たとえ一瞬でも、笑ったとは思えない。
「あ、あの日もこんな天気でした」
「え?」
幾郎は、やや震える手で、バッグから大判の手帳を取り出した。
ページをめくりながら、独り言のようにつぶやく。
「僕らは雨に打たれていた」
「僕ら?」
ようやく目当てのページを探し出した幾郎は、自分の書いた文字を読み上げ始めた。
「明治十二年八月二十二日。×県×村の石山神社にて、御神木の
銀杏の木は、火の手が上がると乳を吹き出したと言い伝えられている。
しかも、この御神木は枯れなかった。炭化した部分を残しながらも、つい30年ほど前まで生きていた。
ところが、台風によって大きな枝が折れてからみるみる弱り、本殿の倒壊を招く恐れがあるとのことで、とうとう伐採されてしまったという」
「×県×村? 石山神社?」
幾郎が手帳から顔を上げると、彼女は不思議そうにつぶやいた。
「はい。その切られた御神木の次世代が育っているというニュースをたまたま見て、気になって調べたんです」
「その神社と、何か関係が?」
「近くにある、ちどり饅頭が好きで。子どものころ、しょっちゅうねだってました」
「千鳥饅頭? それって、九州じゃなかった?」
「そうらしいですね。その有名なのとは違うふかふかのやつで、こっちの正式名称は【たまご饅頭 ちどり】です。鳥の焼印が押してあるんで。御神木の銀杏の葉をちどりに見立てたらしいです」
幾郎が読み上げ、饅頭の話をしている間にも、稲妻は走り、雷鳴は繰り返し聞こえていた。
その都度、二人共びくっと体を震わせながらも、会話は続いたのだが。
「あなたの地元、私と違うわ」
ようやく彼女はそう言った。
「そうみたいですね」と、幾郎は応えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます