その2

 今、みるみる暗くなる空を見上げて、記憶の奥へと入り込もうとしていた幾郎は、気力を振り絞って現実に戻ってきた。


 遠くから、ごろごろと怪物がうなるような、世にも不吉な音が聞こえ始めている。

 そのまま気合いで足を動かし、大粒の雨が降り出したすぐ後に、手近なオフィスビルに飛び込んだ。

 幾郎の他にも、スーツ姿のサラリーマンが数人、押し合うように同じドアをくぐった。


 ガラス張りの広々としたエントランスには、忙しそうに行き交う人々もいれば、明らかに雨宿りのために佇む人々もいた。

 雨宿りの人々は、一様に通りに顔を向けている。

 進行方向に押し出されながら立つ場所を確保しようとしていた幾郎の眼前に、彼女は突然現れた。

 見知らぬ森のサラリーマンという木々の間を抜けて、子鹿に出くわしたようなものだった。


 

 彼女は安物のコピー用紙のような顔色で、薄いブリーフケースを胸元にしっかり抱きしめていた。

 がちがちに固くなっているらしい、その上腰の引けた立ち姿のせいか、周囲から微妙に距離を置かれている。





 急に足を止めたせいで、誰かが背中にぶつかって、幾郎はたたらを踏んだ。

小柄な彼女にぶつからないようにと、無様な格好になると同時に、口からは言葉が勝手に滑り出た。


「お久しぶりです」


 彼女はふらふらと視線を上げて、幾郎が真っ直ぐに見つめていることに気がついた。

 オフィスビルに似合わないラフな服装の、いかにも学生然とした青年が、邪心無さげに頰を赤らめているのだ。

 スロー再生のようではあったが、気丈にも笑顔を作ろうとし、挨拶を返しかけ、寸前でためらった、らしい。


「ええと?」


 高速回転しようとしながら、ぎしぎしとつかえる彼女の脳内回路が見えそうだった。


「サカノシタのお姉さんじゃないですか?」


 先に立ち上がった彼女を、後から立ち上がった彼が見上げたあの日。20センチほどあった身長差は、おそらく完全に逆転しているだろう。


 わかってる。目の前の彼女は、もっとずっと背が低い。


 思い出の中の彼女とは似ても似つかない色白の丸顔を目にしながら、するすると言葉が出てきた。


「えっ、うん。そうだけど」


 ほっとした表情で肯定されて、幾郎は愕然とした、のだが、外見には頰の赤味が増しただけだった。


「あなたもサカノシタなの?」

「い、いえ。違いますけど」

「あら。じゃあ、サカノウエ?」


 幾郎は曖昧な笑顔を浮かべて、ちょっとだけ首を動かした。


「こんなところで、地元の子に会うなんて、思ってもみなかったわ」


 彼女は、わざとらしい明るい声をあげた。


「背が高いのね。何センチ?」

「182です」

「そう。その、前に会ったときには、そんなになかったでしょう?」

「そうですね」

「急に伸びた?」

「はい。背の順だと、一番前が長かったんですけど。高校三年間で20センチ以上伸びました」


 

 四機あるエレベーターから降りてくる人々は、土砂降りの外を見て、困ったように足を止めている。

 外から駆け込んでくる雨宿りの人々も、なんとなくその辺に立ち止まっている。

 携帯電話で、何かに遅れる言い訳をする人。

 見知らぬ同士で、近年の異常気象について語り合う人々。

 軽減されているとはいえ、聞こえてくる激しい雨音。

 静まり返っているわけでもないけれど、幾郎たちの会話に暇な人々の関心が向いているのは、明らかだった。

 どちらからともなくそれに気づくと、二人はじりじりと奥へ進んだ。


「すぐ止むかしら」

「どうでしょう。急いでるんですか?」

「そういうわけじゃないけど。いつまでも、こうしているわけにもいかないし」


 彼女は、困ったように笑って左腕の時計を見た。

 ゆったりしたブレスレットタイプの腕時計だ。


「金属ですね」


 幾郎はぽろっと言葉をこぼした。


「ああ、本当。不用意だったわ」


 くしゃっと引きつった笑いを浮かべて、彼女は何かを払うように左腕を振った。


「でも、高層ビルには避雷針がついていますから、今は安全です」


 幾郎は、言い訳のように慌てて言った。そして、ふと続けた。


「昔は、こうじゃなかった」

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