人ではないもの

 疲れていたらしい俺は用意された寝床に着くと泥にでも沈むようにすぐに眠ってしまった。よくよく考えれば五日寝ていなかった。


 処刑の三日間は学生が帰っても今度は大人がやって来て休む間もなく苦痛を与えられた。そして脱走してからは走り通しで二日掛けてここに辿り着いた。身体の疲労は感じなくても精神は限界だったんだ。


 微睡みにたゆたいながら朧気な意識で思う、これからどうすべきだろうと、俺には何も残されていない――正確にはそうじゃないのかもしれないが、記憶が欠けている現状今の俺にこの世界への繋がりは無いに等しい。

 俺は、どうしたいんだろう?


 胸に鈍い衝撃と痛みが走り目を覚ました。見知らぬ少女が俺の上に重なるようにして乗っている、そしてゆっくりと起き上がった手には赤く濡れたナイフが握られている。

 途端に胸から何かが零れ出していく感覚、胸に手をやるとべっとりとした感触……あぁ、やられた。刺されたんだ。

 目的を達成したであろう少女の顔は晴れる事なく、その視線は一点に集中して恐怖に歪んでいく。

 まぁ散々痛め付けられても死ななかったしな……ナイフ程度じゃ死ぬはずもないか。


 起き上がり少女を見ると怯え震える声で出ていけと言われた。出ていけと繰り返し、怯えながらも噛み付こうとする野良猫のように俺を睨み付けナイフを向ける。

 嫌悪だ。彼女は心の底から俺を嫌悪している。だから迷いなく再びナイフを突き立てた。


 寝起きの混乱した頭では叩き付けられる嫌悪に耐えられなくなって家を飛び出した。走り走って気がつけば昨日の原っぱだ。

「やべい……戻れない」

 出入りは内側から繋ぐか悠が持っている鍵が必要だという。開けてもらうには入り口に立つ必要があるらしいが――。

「入り口どこだ……?」

 俺も相当混乱しているな……寝起きでグサり、だもんなぁ。あの娘のあれは嫌悪を超えて憎悪だった。色んな事情の人が居る訳だから行き場がなくて仕方なくこの村に居る人もいるんだろうが……なんで俺だったのか――。


「っ! 悲鳴?」

 遠くから木霊する微かな悲鳴が届いた。以外では鬼堕ちが徘徊している。それは道中嫌というほどに見せられた。外は鬼堕ちの世界なのだ。

 そんな場所で聞こえた悲鳴に身体は勝手に反応していた。


 原っぱに繋がる道の途中にある長いトンネルの中にそれらは居た。陽の光の届かない暗闇で赤い瞳を光らせて少女を囲んでいる。

 必死に逃げたんだろう、少女はぼろぼろで靴すら履いていない。そして今は服すらも失おうとしている。

「クク、久しぶりの女だァ」

「悪いことしちゃ駄目だよォ? 追放されてこんな事になっちゃうからねェ」

「肉、肉!」

 三人の小鬼が少女の四肢を踏みつけにして顔を寄せている。

「待て待て、喰うのは楽しんだ後だ。俺は前を使う」

「なら俺は口でいい、お前後ろ使えよ」

「ニグゥ~、ニグゥ~」

 少女は不快と恐怖に顔を歪めて踠くが力では到底敵わない、彼女の脱出は叶わない。

「こいつもう駄目じゃね? 鬼になったらこっちも被害食うぜ?」

「でも、こいつの嗅覚は使えるからな。ほら、快楽思い出しゃちっとは意識も戻んだろ」

 首筋に牙を突き立てられると少女の身体が跳ねて脱力した。男はそれを抱えあげて人間らしさを失いつつある男に向けた。


 発情した犬のように襲い掛かろうとしたそれを踏みつけにして容赦なく砕いた。

 このレベルになると忠誠を誓わせる必要のある悠の権能もたぶん通じない、だから道中に遭遇したものは全て殺していたんだろう。

 だがそんな事よりも、今度こそ失敗したくないが為に、確実に頭を狙った。この娘は絶対に助ける、繰り返さない。

「なんだてめぇ!? 退魔師か!?」

「やーやー皆さん、随分楽しそうな事をしてるじゃないか。俺も混ぜてくれよ」

「チッ、同類かよ。混ざりたきゃお前が役に立つって証明しろ、お前が殺したそいつは鼻が利いて獲物探しの要だったんだ」

「へぇ、獲物探しの要――」

「そうだよ! こいつのおかげでここ数日はにありつけてたんだ。どうしてくれんだ!」

 鬼堕ちを拾う条件は最低でも人を喰らっていないこと、何の罪も犯していないのが望ましいがそんなものは鬼堕ちした直後に遭遇するなどしなければあり得ない。


 だから吸血、情欲に傾いた者であればまだ改善の余地はあるとして連れ帰るそうだ。だが、人を殺し喰らった者はその味に囚われ忠誠を誓わない、何より人間が受け入れない。だから――。

「ギルティ――なんだってよ」

「は? え、ちょ――まっ」

 一瞬の躊躇を振り払い、体は自然な流れで拳を打ち込んだ。どうも女の子が襲われるという状況に俺は我慢がならないらしい。脳裏を過るぼやけた映像きおくに突き動かされる。

 裏拳を受けてトンネルの壁面に頭を埋めた仲間を見て残った男は目に見えて動揺し少女を放した。


 倒れそうになる少女を抱えると目が合った。そこにはありありと恐怖と嫌悪の色が浮かび力の入らない腕で俺を拒絶する。

 毒でも射たれたのか? でも悠の話だと特異な能力を持つのは角持ちからだし、この男に角があるようには見えない。

「そ、そいつはあんたにやるよ。だから命だけは――なんて言うかよ! 女返しやがれ犯しまくってやんだよ」

 ノロマな動きで俺の背後に回り首を締め上げるが大して締まらない――強いて言うならマスクをしていて少し息苦しい程度だ。

 これが小鬼と鬼人の違い、ヒエラルキーの上に居る者には下の者は到底届かない。

 肘打ちを当てて怯ませたところへ足払いを放つ。男は何が起こったのか理解できないままに俺を見上げて恐怖した。

「待て! もうなにもしない。そいつはお前にやる。本当だ、だから、だか――ヴァ!?」

 蹴り上げた男は天井に突き刺さり血の雫が垂れてきた。

「嘘なの分かるよ。散々嘘つきの顔を見てきたんだ。それにお前らは殺し過ぎだ。血の嫌な臭いが染み付き過ぎてる」

 濃く混ざり合った生臭い臭気、それは彼らが多くの命を奪ってきた証拠だ。今の世界が弱肉強食だというなら彼らも従うべきだろう。


 ああ嫌な感触だ。肉を叩き衝撃が伝う、硬いものを砕く感触、こんなものを簡単に行える精神になるのが鬼になるって事なんだろうか? こんなに震えが走るのに……俺には到底理解できない。


「ちょ!? 何吐いてんの!」

「いやちょっと気分悪くて、ごめん」

 かろうじて抱えていた少女は下ろしたがやった事の気持ち悪さが込み上げてきて咳き込むのが止まらない。

「あんた鬼堕ちじゃないの? 殺すなんて日常でしょ?」

「悪いが今のが初殺しだ。感触が残ってて気持ち悪い」

「変なやつ……さっさとしなさいよ」

「何を?」

「犯すんでしょ! でも、もし人の心が残ってるなら優しくして、それと……生きたまま喰い漁るのはやめて」

 一分ほどだろうか、思考がピタリと止まっていた。動き始めたのは服をはだけてきょとんとした少女につつかれてからだ。


「あっ、あのなぁ! そんな事したらあいつらと同じだろ」

「片目だけど同じじゃない」

 言い切られると結構きついんですが……まぁ赤い獣の瞳=鬼堕ちになってるとは聞いたし実際鬼人だから間違いではないんだろうけども。

「同じじゃないっての」

「じゃあ何するの? 吸血? それとも身体の一部を食べるの?」

「どれもしないって……とりあえず乳仕舞え」

「……み、見るな変態!」

 自分で出しておいて理不尽な……張り手を一撃もらい精神的にダメージを負った。


「住んでた町が襲われた?」

「ええそうよ。両親も友達も逃げる途中で捕まって……あとは、分かるでしょう?」

「その町近いのか?」

 まだ可能性があるなら悠に話して――。

「行っても無駄よ。大分離れてるし、もう何日も前の事だから。大きくないけどうちの町は結界都市だった。神様が守ってくれてる場所を襲えるほどの群れが入ってきたんだからもう何も残ってないわ。私ってそんなに不味そう?」

 結界都市、神や有力な退魔師に守られた安全な都市を言うそうだ。他には、結界が無い代わりに高い壁で周囲を囲った武装防壁都市というのもあるらしい。


「別に獲物を求めて行くわけじゃないっての。俺は人を襲わないの! 鬼心封じの術ってのがあって――」

「あーはいはい、じゃああんた私をどうしたいの? 甲斐甲斐しくお世話でもしてほしいの? 死んでも御免だからさっさと犯しなさいよ。もう……疲れたぁ、なんで私たちがこんな目に遭わないといけないのよぉ」

 俺の力を知って逃げられないと判断しているようで何もかも投げやりな少女は泣き出してしまった。安全な場所があると言っても信じてもらえなさそうだな。


「航さーん! よかった見つかった。本っ当にごめんなさい!」

 少女をどうしたものかと頭を悩ませていると血相を変えた悠が泣きながら縋り付いてきた。身体は震え瞳は不安の色に染まっている。

「どうしたんだ一体?」

「え? 刺されたんだよね? だから村が嫌になって出ていったんじゃないの……?」

「ああ! そういえば寝起きに刺されて、そしたらいつの間にか村の外に出てて戻れなくなったんだ」

 少女の一件で刺された事なんてすっかり忘れていた。傷もすぐに消えて痛みも続かなかったし。


 泣き止まない悠を小さな子供にするように撫でて落ち着かせて事情を話した。

 少女の受け入れはあっさり許可された。だがそれよりも俺が刺された件が深刻だった。


 俺を刺した娘は最近保護したばかりらしく鬼堕ちどころか男性も激しく嫌い拒絶する。

 事情が事情なのでそういったケースはままあるようで、その場合は女だけの悠の屋敷で慣れるまで暮らすのだという。鬼堕ちを圧倒して自分たちを助け出した悠の傍が一番落ち着くためだ。

 

 柳井さんも元々はその口で今は同じような境遇の者が早く馴染めるようにと屋敷に残っているとか。

 だが今回悠は俺の封印が解かれる事を知って突然の外出、その事に動揺しているところへを、それも鬼堕ちを連れ帰ったために起こった事のようだ。

「あの、あのね……汐音はの出身でね、男の人の事を本当に嫌ってるのに私航さんに会えたことが嬉しくて忘れちゃってて――だから許してあげてほしいの。私の事、嫌いでもいいから」

 再びぽろぽろと涙を零す悠は本当は嫌われてもいいなんて思っていないだろう。理由は分からなくてもこの娘の好意が本物だというのは分かるのだから。


 自分が招いた結果に涙する彼女をあやして笑顔を向ける。上手く出来ているか自信はないが怒っていないと伝えると一応泣き止んだ。

「どこにもいかない?」

「今のところは、でもどこか別の場所を用意してもらわないと」

「それは駄目! 航さんは私と一緒じゃないと駄目なんだもん」

 そうは言ってもどうするつもりだろうか。悠にとって何より優先するべきは俺のようだが助けてきた責任もあってかうんうん唸っている。


「ちょっと付いていけないんだけど……あんた達なんなの?」

 自分以上に泣きじゃくる者が居た事で少女は呆気にとられて涙が止まっている。

「俺も分からん」

「とりあえず帰ろう? 血の臭いがするし鬼堕ちが集まっちゃう」

 悠に連れられて屋敷に戻り少女の事は柳井さんへと任せられた。そして俺はというと――。


「母屋から離れに移ったくらいで落ち着くのか?」

「う~ん……でも私だって航さんから離れたくないんだよ。もう一人ぼっちは、嫌なんだもん。汐音には私と詩穂里が説得するからしばらくここで我慢してもらうのはダメかなぁ?」

 引きこもりやってたくらいだから隔離されてても別に構いやしないが、百年経って再び引きこもりというのは…………。

「なぁ悠、俺の母さんがどうなったとか知らないか?」

「おっ――母さんの事?」

 なぜつっかえる……何か知ってるのか?

「ごめんなさい明奈あきなさんの事は分からない。私も気になってたけど鬼子わたしが近付くと迷惑が掛かっちゃうから会いに行けなかったの。でもでも最近町の近くまで行く事があったけど鬼護町はまだ存続してるみたいだったよ」

「結界都市ってやつになってるのか?」

「んーん、それがね、なんか変なんだよ。防壁かべも結界の気配もないの、でも鬼堕ちは寄り付かず町からは人の気配がする。凄く不思議な感じだった。普通それなりの大きさで存続してる町々は連絡を取り合ってるから地図にも載るんだけど鬼護は載ってなし」

 町はまだ存続している? 当然母さんは生きちゃいないが、それでも俺が封印されてからどうなったのか聞けるかもしれない。

 明楽あきら叔父さんにいちゃんの娘の和巴かずはに子供がいたら事情を知っていてもおかしくない。


 また引きこもるくらいなら確かめに行きたい。消えてしまった過去よりも残っている過去記憶の結末が知りたい。

 幸い俺は変化しなければ片目しか紅くない、髪で隠していればすぐにはバレないから侵入も容易だろう。

「悠、汐音って娘が落ち着くまで外出していいか? これからどうしていくにしても自分の身近にあったものがどうなったのかを知らないと決められそうにない。だから俺は鬼護に行こうと思う」

「……なら私も行くよ。航さん一人だと心配だもん」

「いや説得はどうした」

「ちゃんと話すよ~。でもああいう子に一番必要なのは時間だからそのあとは詩穂里に任せる。経験者だからね、詩穂里の方が適任なんだよ」

 同じ境遇の人なら確かに気持ちを理解しやすいだろうしその為に柳井さんは屋敷に居るとは聞いたが――。


「悠が居なくなるとまた落ち着かなくなるんじゃないのか?」

「ん~、一応今度は石置いてくから大丈夫だと思う」

「石?」

「うん、私の妖力と霊力を混ぜ合わせて結晶にするの。持ってると私を近くに感じるし、いざという時は簡易の鬼避けになるから安心出来ると思う」

 右手に薄紅い妖気、左手に薄蒼い霊気を纏い手を合わせ開くとそこには紫色の勾玉がある。

 それは悠自身と同じような気配を発し目を瞑ると悠が二人居るかのように感じ取れる程だった。

「あんまりほいほい作るとみんなが欲しがるからいけないんだけど……非常時だしいっか」

 俺に付いていけるかどうかが非常時か……普段の悠は自分の始めた事に責任を持つらしいが俺が絡むとそういうのを放り出してしまうらしい。

「作ると力が減るとか?」

「作った直後はね、でもすぐに戻るよ。私汐音と話してくるね。その後榊場達にも話すから……出発はお昼過ぎかな、ちゃんと待っててね、絶対だよ」

 一緒に出掛けるという事が嬉しいのか悠はいくらか楽しげな様子だった。

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