8 ここでわたしと一緒に歌って
数日後、ぼくはVicのライブを見るために再び秋葉原に来ていた。
あれ以来、ぼんやりした毎日を過ごしていた。何か考えなければならないことがあるような気がしたが、それが何なのかは分からなかった。朝目が覚めるたびに、爽快さと空虚さが入り交じったような奇妙な感じがした。
あの夢に苦しめられるのではないかという不安はなくなっていた。それで満足のはずだったが、なぜか妙に心もとない気がして仕方なかった。
「ちょっと来て」
ライブがはじまるのを待っていると、いきなり誰かに手を引っ張られた。帽子を目深にかぶっていたので周りのファンは誰も気づかなかったが、倫野あやめだった。
ぼくは、スタッフ通用口から機材置き場のような部屋に連れていかれた。倫野あやめはきつく握った手をようやく離してくれたかと思うと、帽子を取ってぼくを睨みつけた。
「妙な女に会ったでしょ」
彼女はとがめるような口調で言った。
「何されたの?」
あの子のことを言っているのだと分かったが、どう答えたらいいか分からなかった。ぼくはうろたえて言葉を探した。
「言いなさい」
「よく覚えてなくて」
あながち嘘ではなかった。
あの子はいきなり現れたかと思うと、いつの間にか消えてしまったのだ。いまだに名前も知らなかった。映画館で会ったというのも、考えてみるとどこか本当のこととは思えないところがあった。
倫野あやめはこれ見よがしにため息をついた。
「あなた、分かってるの?」
「何が?」
「あの女、人間じゃないんだからね」
「え?」
「人の夢を喰べて生きるあやかしなの」
「あやかし?」
彼女が何を言っているのか理解できなかった。あやかしとは一体何のことだろう。あの子は二度もぼくに力を貸してくれたのだ。そんな得体の知れないものであるはずなどなかった。
「一度目をつけられたらしつこいよ。めちゃくちゃ厄介な相手」
「どうしてそんなひどいこと言うんだ」
ぼくは抗議したが、倫野あやめは無視して勝手に話を続けた。
「夢を喰べられるといくら寝ても寝た気がしなくなるの。何も考えられなくなって、だんだん痩せ細っていく。最後には干からびて死ぬからね」
そのとき、ぼくの脳裏に自分が干からびて死んでいくイメージが鮮明に思い浮かんだ。それはいつの間にかぼくの頭の中に忍び込んでいたもののようにも思えた。
「死にたくなかったら言う通りにして」
倫野あやめもあの子も、不思議な力でぼくを助けてくれたのだった。だが、二人の言うことは真っ向から対立していた。ぼくはどちらを信じたらいいか分からなかった。
「新曲は覚えてくれた?」
「え?」
「ここでわたしと一緒に歌って」
「ここで?」
「恥ずかしがってる場合じゃないでしょ」
「でも……」
「行くよ。振り付けもだからね。ワン、ツー、スリー……」
倫野あやめはいきなりカウントを取ると、「夢を与える」のイントロを鼻唄で歌いはじめた。ぼくは振り付けもと言われて慌てた。ファンの端くれとしてある程度は覚えていたが、それでも完璧とは程遠かった。
「わたしの真似すればいいから」
ステップが入るタイミングで倫野あやめは言った。その言葉に背中を押され、ぼくは彼女についていくようにして踊り出した。
倫野あやめはうまくリードしてくれた。まるで個人レッスンでも受けているみたいだったが、向き合って踊れば何とかなった。
だが、複雑なステップのところで一度ミスしてしまうと、自分がどこを踊っているのか分からなくなってしまった。
「集中して!」
倫野あやめがフレーズの合間に言った。
歌と踊りの両方をこなすのはぼくには荷が重すぎた。伴奏も何もないせいで空気は白け、ぼくは気持ちを引き締めることがだんだん難しくなっていった。
こんなことをして何になるのか分からなかったし、倫野あやめを信じきれなかった。あの子が言った「洗脳」という言葉が頭の中に異物みたいにつっかえていた。
サビの直前、ぼくはついに歌も踊りもやめてしまった。
「止まっちゃダメ! 続けて!」
倫野あやめは一人でサビを歌ったが、ぼくは目をぎゅっとつぶり、手で耳を覆った。どうしてもあのフレーズを聴きたくなかった。もうこれ以上振り回されるのはごめんだった。
ぼくはいやだというように首を振り続けた。気がついてみると、肩で息をした倫野あやめがどこか憐れむような目でぼくを見つめていた。
「お願い。もう一度最初から一緒に歌って」
「ファンだから何でも言うこと聞くと思っているのか」
「そうじゃない。このままだと本当に……」
「どうしてCDを十枚も買わせたりしたんだ」
倫野あやめはぼくに見返りを求めた。でも、あの子は何も求めなかった。そういうことなのだ。
「わたしが力を出すのに必要だから。あなたを助けたいの」
「ぼくを洗脳する気なんだろ」
「何言われたか知らないけど惑わされちゃダメ。あの女は……」
「やめろ!」
あの子の悪口など聞きたくなかった。ぼくは倫野あやめに背を向け、逃げるようにその場をあとにした。
「ダメ! 待って!」
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